一 古(いにしえ)より、数篇の相書があるとは言っても、未だ相法における体・用・妙の三つは区別し難い。ゆえに、この書においては、まず、骨格・血色に現れる事を論じる。これは、つまりは、相法の体である。次に、骨格・血色に現れるところの義理(≒道理)を明らかして用い、これを看相の用とする。最後に、骨格・血色の義理を離れて、さらに詳細を論じる。これを看相の妙と言う。つまりは無相の相である。
一 今回著述した相法は、私が未熟な状態で記したものである。よって、これを嘲り笑う衆人がいるかもしれない。しかし、私は生来、わがままな人間である。ゆえに、相法に関しては他人の心意(しんい)や門人の意見を採用しない、という考えがあるため、文字の不当、その他の癖論(≒曲論)などがあるかもしれない。願わくば、博覧の君子がこの書を閲覧され、相法議論を立興されん事を、乞い願うばかりである。
巻ノ一 目録
一 観相の大要
一 陰陽の図
一 五臺(ごだい)の図
一 手相ならびに問答
一 十三部位面の図
一 面(おもて)三停ならびに三停論
一 十穴面の図
一 十穴穴所の取法
一 十穴の司所
一 十穴の黒子(ほくろ)・傷
一 十八穴面の図
一 十八穴穴所の取法
一 十八穴の司所
一 十八穴の黒子・傷
巻ノ二 目録
一 頭(かしら)
一 頂(いただき)
一 髪・髭(ひげ)
一 面(かお)
一 首筋(くびすじ)
一 鎮骨(ちんこつ) *頭の後ろの骨なり
一 肩
一 腕・肘
一 胸
一 乳
一 腹
一 臍
一 腰
一 男根
一 股(もも)
一 足
巻ノ三 目録
一 体の三停
一 骨・肉
一 皮
一 毛
一 青筋
一 言語 *ものを言うことなり
一 息
一 歩行の形(ぎょう) *歩く相
一 座形(ざぎょう) *座る相
一 臥形(がぎょう) *人の寝入る相
一 五行の相
一 五行の体用・相生・相克(=相剋)・問答
一 三つの難相
一 八相の論
一 国風の論
一 相法大意
巻ノ四 目録
一 額
一 眉
一 歯
一 家続(かぞく) *目と眉との間を言うなり
一 眼
一 耳
一 鼻
一 顴骨(けんこつ) *両方の頬骨を言うなり
一 法令 *鼻より口の両方へ下がる筋を言うなり
一 口
一 歯
巻ノ五 目録
一 人中(にんちゅう) *鼻の下、口までの溝を言う
一 妻妾(さいしょう) *目の尻を言う
一 魚尾(ぎょび) *目の尻を言う
一 男女(だんじょ) *目の下、骨なき所を言う
一 印堂(いんどう) *眉と眉の間を言う
一 命宮(めいきゅう) *目と目の間を言う
一 頤(おとがい、≒顎)
一 雑骨格の部
一 雑問答 *色々の事を取り混ぜて解きあらわす
本文の左にある以上の印は、初学者向けの文章にのみ付した。まずは上・中・下の種類を考えて用いなさい。その後、印のない文章の伝を学びなさい。
*以上の印は前篇巻ノ四から記載されている。
まず、人を相する時は安らかに腰を落ち着け、その体の天地人を正しく備えて、七息また、心を気海に居して、六根を遠ざけ、そうして後、心の六根を許して、以って相を論ずるのである。
南龍斎が問う 体の天地人を備えるというのはどういうことでしょうか?
南北先生答える 体の天地人を正しく備えるというのは、頭を正しくしてうつむけず、また眼を閉じ、腹を張って向こうへ出し、尻を畳に落ち着け、大石を据えたる如くにすることをいうのである。また、七息というのは息を七つ数えることをいう。また、心を気海に居して、というのは心を臍の下に納めることをいう。また、六根を遠ざけるというのは、相をみる間は鳥の鳴き声も聞かず、風の音も聞かず、何も思わぬことをいうのである。このようにして相をみる時は、自然と天より善悪の相を知らしめ給うものである。これを心より六根を許すという。よく考えなさい。
*気海とはツボの名称で臍の下一寸五分にある。いわゆる丹田とかチャクラの場所。
*六根とは仏教用語。目・耳・鼻・舌・身・意の六つを指す。
まず、人を相する時は第一に行住座臥の間において、その心を相して後、神気の強弱を相し、次に忠孝の志の有無を相し、次に陰徳の志を相し、次に心の動不動を相し、次に倹約の心の有無を相する。また、視聴言動の間に相して後、骨格、血色、流年によって、ことごとく善悪を相することを第一にして可能になるのである。
*神気とは簡単に言えばパッと観た時の雰囲気である。いわゆるオーラみたいなモノ。
*陰徳とは読んで字の如く、人に知られぬように徳を積むことである。南北先生は、最大の陰徳は食を慎むことであるとした。
↑陰陽の図
①親指は大指と言い、親の事を観る。
②人差し指は人指と言い、他人の事を観る。
③中指は中指と言い、自分の事を観る。
④薬指は無名指と言い、身内の事を観る。
⑤小指は小指と言い、子孫の事を観る。
↑図1、「五指の司る部位」
↑図2
↑図3
↑図4
↑図5
↑図6
↑図7
↑図8
↑図9
↑図10
↑図11
↑図12
一 天紋は目上を司る。また、運を司る。手の内、上位の筋のことをいう。
一 人紋は自分を司る。また、福分を司る。手の内、中位の筋のことをいう。
一 地紋は家を司る。また、一身の治まりを司る。手の内、下位の筋のことをいう。
一 天紋が太く、強い者は運が強い。また、危うい事があっても逃れることが多い。
一 天紋が細く、弱い者は運が弱く、苦労が多い。また、親に縁が薄い。
一 天紋に切れ目やもつれがある者は人生に浮き沈みが多く、転職が多い。
一 人紋が太く、強い者は体が強く、病気になる事も少なく、身分相応に暮らす。
一 人紋が強く、勢いのある者はその当時運が良く、相応の福分もあり、また病気になる事も少ない。
一 人紋が細く、弱い者は体が弱く、また苦労も多く、物事の滞りが多い。
一 人紋が切れるかまた、もつれる者は苦労が多く、浮き沈みが多い。また、家を破る(破産する)。
一 人紋の先が上がる者は当時は良い。また、人紋の先が上がり始めた時から発達があり、老いて行くほどに良くなる。しかし、これはよく考えて観なければならない。
一 人紋の先が下がる者は発達しにくい。また、老いるほどに苦労が多く、運が悪い。
一 人紋の先が深い者は当時運が強い。
一 地紋の本筋が多くある者は家の治まりが悪い。
一 人紋は自分の体に応じ、故に、人紋を生涯六十年とする。その人紋の切れもつれによって、生涯の吉凶を知るべきである。このことは深く考えねばならない。特に口伝はない。
以上の筋については、細いものは考慮しない。ただ、天人地の三紋を考慮するのである。また、私が考えるに、常に手を酷使するような職に従事する者は掌が金石のように硬くなっており、三紋の他に細い紋がみられない。故に、三紋を主として、細い紋を考慮しないのである。
一 手相を観るには、観方というものがある。まず、手を取り、脈所(親指の下側で手首のあたり。橈骨動脈拍動部あたり。)の少し上を探るとみせかけて、指と掌を観るのである。このようにすれば、無意識に手を広げるので、自身に内在する吉凶が自然に現れ、正確に観ることが出来る。また、男は左手を初年とし、右を晩年とする。女はこの逆である。
一 左手の指の間が全て空く(隙間が出来る)者は初年運が悪い。また、右手の指の間が全て空く者は晩年運が悪い。このことはよく考えなさい。
*『南北相法』が書かれた頃は、いわゆる「男尊女卑」の風潮が強かった。したがって、その内容は男性を中心にして書かれていることに注意した上で、読み進めて行かなければならない。基本的に手相も人相も、男は左が陽、右が陰、女は右が陽、左が陰となる。つまり、男は左が主、右が従、女は右が主、左が従となる(左は同性、右は異性とも観る)。例えば、人相を観る時、男の左の妻妾宮(目尻のあたり)には正妻の画相が出るし、右の妻妾宮には愛人や恋人の画相が出る(女性はこの逆)。手相に関しては右手(利き手、運命を切り開いて行く手)を後天運、左手を先天運とする文献もあるが、この事に関しては一考の余地がある。
↑図13
↑図14
一 爪はその体の強き、弱きを弁ずる。また、腎気(生命力のこと)の吉凶を観る。
一 爪が厚く、潤いのある者は腎気が強く、病気になる事が少ない。
一 爪が厚くとも、潤いのない者は無病といっても下相である。
一 爪が薄い者は生まれた時から腎気が薄い人である。
一 爪が薄くても爪の根元に白みのある者は苦しむことが少ない。
一 爪に鏡のような光がある時は物事が調い難い。
一 爪に縦筋がある者は腎気が薄い。また、爪が厚く、常に縦筋がある者は下相である。
一 爪が剥がれやすい者は腎気薄く、イライラしやすい。
一 爪の根元に白みがある者で、その白みが枯れたように薄くなる時は、必ず物事が調い難い。また、心に余裕がない。
一 爪が曲がったように内側へ反る者は、常に気分が塞がり、何となく体が弱く、発展することが難しい。しかし、これはよく考えて観なさい。
一 爪が拉(ひし)げる(潰れる)ようになった者はその体が弱く、発展し難い。
一 爪が丸い者は発展し難いが、愛嬌がある。
一 爪が立ち伸びたような者は良い。その他は深く考えなさい。
東獄が問う 爪が厚く潤いがある者の身体が強いのは何故でしょうか。
答える 爪は骨の余りであり、腎を為す。故に、爪が厚く潤いがある時は、自ずから腎が満ち、盛んとなっていることがわかる。つまり、五臓六腑が健全であることを表わし、身体が強いのである。爪が折れやすかったり、剥がれやすい者は腎・骨が枯れているのと同然で、故に腎気が薄い。
また問う 爪の根元に白みがあって、その白みが枯れる時は物事が調いにくいのは何故でしょうか。
答える 爪の根元に白みがある時は腎気が満ちている証拠である。つまり、腎気が満ちると心が養われ、気も養われるので身体が健全となる。故に吉である。また、その白みが枯れる時は腎気が衰えている証拠である。つまり、腎気が衰える時は心も自然と衰えて盛んにならず、物事が調い難くなるのである。このことはよく考えなさい。
また問う 爪が丸い者は発展が遅く、また、愛嬌があるというのは何故でしょうか。
答える 爪は腎の苗であり、水に応ずる。また、水の性は上昇するということがなく、下降するのを常とする。故に、この人は発展し難い。しかし、水は常用されるものであり、一日も欠かせないものであり、貴賤ともに(身分に関わらず)用いるものである。故に、愛嬌があるという。
また問う 爪が立ち伸びる者が吉であるのは何故でしょうか。
答える 爪は肝に属し、腎に通ずる。また、立ち伸びるとは樹木が栄えるようなものであり、故に発展の理があるという。私の浅い理にて示したが、これについては深く考えなければならない。
↑図15「十二部位の図」
↑図16「三停の図」
一 三紋といって、額には三本の紋(筋)がある。
一 上の紋を天紋、中の紋を人紋、下の紋を地紋という。これは天人地の三才(さんさい)に応ずる。
一 天紋は運気、目上を司る。人紋は自分、福分を司る。地紋は家庭、目下を司る。つまり、天人地はそれぞれ、衣食住に応ずる。
一 三紋が綺麗に並ぶ者は、一生、大きく発展する事が無い。だが、衣食住に困ることは無い。なぜならば、天人地の三才が備わる時は衣食住が満ちている時であり、また、満ちれば欠けるのを待つだけであり、故に大きく発展する事が無い。逆に、三紋がそろわない者は衣食住の三つが欠けている事を示し、故に身分も満たされない。この事は深く考えねばならない。
一 天紋に切れ目がある者は目上と意見が合わない。また、目上に縁が薄く、運気も良くない。
一 天紋に勢いが無い者は、力になってくれる目上がほとんどいない。
一 天紋が深く勢いのある者は、目上の引き立てがある。また、運気が強い。
一 人紋に切れ目がある者は、一生に一度は大きな失敗がある。また、常に苦労が多い。
一 人紋に勢いが無い者は病弱で苦労が多い。
一 人紋が深い者は相応に福分がある。また、発展することがある。このことは良く考えねばならない。
一 天紋と地紋より、人紋が深く、勢いがある時は、人紋が天地に秀でるようなものであり、故に発展がある。だが、天地に秀でる時は、親の家を長く保つ事が出来ないのが道理である。また、官職の人は、家長としての役割を果たす事が出来ずに、その地位にまで昇りつめている事が多い。この事はよく考えねばならない。
一 地紋に切れ目がある者は家庭に縁が薄い。また、家が定まる事が遅く、目下にも縁が薄い。
一 地紋に勢いが無い者は、家庭内での苦労が多く、また家庭が安定していない。
一 地紋が深く、豊かにみえる者は家庭が早く治まる。また、家庭を良く治める事が出来る。だが、目下の世話が多い。
一 常に真っすぐであった天紋に切れ目が出た時は、その頃から運気が悪くなる。また、目上から見放される事もある。同様に、人紋に切れ目が出た時は、その頃から仕事に恵まれなくなったり、大きな苦労にあう事がある。また、地紋に切れ目が出た時は、その頃から家庭内に問題が起こったり、子供や使用人がいなくなる事がある。
一 常に浅く勢いが無かった天紋が、時を得て深くなり、勢いが出てきた時は、その頃から開運する事がある。また、常に浅く勢いが無かった人紋が深くなり、勢いが出てきた時は、その頃から仕事での喜び事があるか、仕事に恵まれるようになる。
一 天紋の上に天紋が生ずる時は、職位が変わったり、転職するようになる事がある。また、地紋の下に地紋が生ずる時は、住居を変えなければならなくなる事がある。額に縦筋がある時は、いずれにおいても凶となる。この事はよく考えなければならない。
一 額に紋が多くある者は、天人地の三紋を区別しにくい。そういう時は、天紋と地紋を取り払い、三紋とする。例えば十紋ある時は、上の三紋、下の四紋を除き、残った真ん中の三紋をとる。つまり、天は奇数、地は偶数で取り払い、三紋を見出すのである。
*陰陽論に基づけば、天は陽であり、奇数も陽である。同様に、地は陰、偶数も陰となる。故に、「天部の紋は奇数で除き、地部の紋は偶数で除く」としたのであろう。ちなみに、昔から「灸は奇数据えるのが良い」とされるが、これも陰陽論を応用したものである。つまり奇数は陽であり、補であり、故に灸の温熱作用を高める事が出来る、と信じていたのだと考えられる。また、いざなぎ流(陰陽道系の呪術的祭祀を行う集団)では数珠占いをする時、数珠の数が奇数(陽)ならば成就、偶数(陰)ならば不成就としている。このような例は今でも沢山ある。
↑図17「十穴の図」
一 疵と黒子はかすかな状態のものはとらないで、小さくて目立つものをとる。大きな創傷(切り傷)がある者は、その時々にしたがって考えなければならない。実際はあまり問題にしない。また、痘瘡(天然痘)の痕が多くある者も問題にしない。だが、二つ、三つの疵や痕がある者はとらなければならない。この事について、特に口伝は無い。
一 天陽に黒子や疵がある者は、自分に覚えの無い所の難がある。
一 神光に黒子や傷がある者は破産する。詳しくは血色の書に記載する。
一 駅馬に黒子や傷がある者は婚期が遅く、また家庭内が落ち着くのが遅い。さらに、家庭内での苦労が多い。
一 山林に黒子や傷があるものは親の譲りを失い、散財が多い。
一 交友に黒子や傷がある者は友人との付き合いが少なく、損失や難がある。
一 家族に黒子や傷がある者は親からの相続が身につかず、破産することがある。
一 魚尾に黒子や傷がある者は妻縁(夫縁)が変わりやすく、結婚した場合は夫婦仲が悪い。もし夫婦仲が良いならば、妻(夫)は病弱であることが多い。この事はよく考えねばならない。
一 奸門に黒子や傷がある者は女(男)についての苦労が多い。また、生涯のうちに人の恨みを受ける事がある。(男は)右奸門で妾(愛人・恋人など)、左奸門で正妻(配偶者)の事を観る。
*以上の2項目は男性を中心とした視点で書かれているため、( )で注釈を入れた。基本的に、この相法は男女ともに適用する。注意しなければならないのは、男性は左顔面部が陽、右顔面部が陰となることである。女性はこの逆をとる。陽とは主となる事、外的な事、公的な事などを指す。陰とは従となる事、内的な事、私的な事などを指す。例えば、女性の場合、右の魚尾には夫の画相(数mm前後の顔など)が出るし、左の魚尾には恋人や愛人の画相が出る。左の魚尾には現在付き合っている恋人の画相はもちろん、以前付き合っていた恋人の画相も正直に出る。基本的に、魚尾・奸門の色が良く落ち着いた感じならば、恋愛も上手くいっている。逆に蒙色や静脈の怒張などがあり、忙(せわ)しい感じならば、恋愛や夫婦仲は悪いか悪縁である。また、相手が本当に好いているかどうかは、画相の状態を観ればわかる。
一 人中に黒子や傷がある者は心が安定するといっても、自然に安定する事がない。
一 承漿に黒子や傷がある者は食を慎もうとする心がある。例えば、神仏に捧げようと、自らの食物を断つ事がある。あるいは食を減らす事がある。この事はよく考えなければならない。
上記の十穴の善悪は血色の書に詳しく書いてある。
↑図18「十八穴の図」
図19のように、指先の第一関節(指頭)を一寸と定める。
↑図19
一 天中に黒子や傷がある者は目上と意見が合わない。
一 官禄に黒子や傷がある者は良い事があっても、必ず障害や妨害がある。
一 印堂に黒子や傷がある者は物事が成就する寸前で事破れる。運が悪い。
一 命宮に黒子や傷がある者は病弱で、破産することがある。この事はよく考えなければならない。
一 土星に黒子や傷がある者は物事が滞る事が多く、苦労が多い。
一 食禄に黒子や傷がある者は婚期が遅く、家庭内が安定するのが遅い。また、貧者は引っ越しする事が多い。他の事については後で記す。
一 主骨に黒子や傷がある者は上司や目上と意見が合わない。この事は深く考えねばならない。
一 福堂に黒子や傷がある者は散財が多い。また、破産する事がある。
一 兄弟に黒子や傷がある者は身内に縁が薄い。また、他国に身内がいることがある。この事はよく考えるべきである。
一 妻妾に黒子や傷がある者は妻(夫)に縁が薄い。また、離婚と再婚を繰り返す。
一 男女に黒子や傷がある者は子が育ち難い。また、無事に成長したとしても頼りにならない。
一 顴骨に黒子や傷がある者は人の事について苦労が多い。また、人から来る災いが多い。
一 賊盗に黒子や傷がある者は物を失う事が多い。
*泥棒に入られたり、物を盗まれたり、失くしやすい。
一 法令に黒子や傷がある者は代々続く商売を継がないか、その商売を継いだとしても、嫌になる。
一 奴僕に黒子や傷がある者は頼りとなる部下がいない。また、目下の事で損失が多い。
一 辺地に黒子や傷がある者は他国にいてもろくな事が無い。この事については問答の部に詳しく記すが、自分でよく考え知るべきである。
まず、相を学びたいと思うならば師につき、師が伝えるものをしっかりと学びとり、その後に様々な書を読むべきである。そうすれば自然に師は自分の中に生まれてくるものであり、書に頼る事も無くなるであろう。また、初心の人が相を学びたいと言うならば、まず師を見つけ、相法の大意を聞いて、様々な人の相を観察し、万物を人になぞらえたりして、十分にその道理を明らかにするように指導するべきである。これを相法の根本としなければならない。私は無学だったが、海常先生に師事し、相法の大意を三日で暗記し、後に万物を人になぞらえてその道理を研究した。今はまだ中途ではあるが、今までわかった事をここに記し、後世に残そうと考えた。
今ここに、いくつかの例を記す。
男女は喜んで交合(性交)するが、なぜ嬉しそうに笑って交わらないのであろうか。なぜなら、交合する事は自ら血肉を破る(身体を痛めつける)事であるがために、互いに憂い顔になって交合するのである。それはまるで神がかったような顔になる。また、樹木も若木は花も美しく、実も大きく、味も良いが、老木は衰えていて実は小さく味も悪い。また、三歳の小児が陰部をいじりたいと思う時、女児は陰であるからその陰部を隠すが、男児は陽なのでその陰部をあらわにする。これらは天地自然の理であり、また天地自然の相なのである。故に、天地自然の相を会得していない相者は自分の相を観る事が出来ない(自分の事がわからない)し、我を観る法を会得出来ないので、書を読んでもその内容を万物に応用する事が出来ず、結局は書を読んでいないのと同じ事になるのである。したがって、相者はまず自分の事を知り、その後に他人を相する事が可能となるのである。これは相者にとって最も重要な事である。