• HOME
  • >
  • 南北相法⑤

南北相法巻ノ五

水野南北居士 著
門人 平山南嶽・水野八氣 校

 
 



 

《人中(にんちゅう)を論ず(人中は鼻の下から、口の間の事を言う)》

*人中…主に、鼻の下のミゾの事をいう。

一 人中は神気の強弱を知る。また、命の長短を知り、子孫の有無を論ずる。
 
△ 人中が短い者は根気が薄く、思慮が浅く、涙もろい。また、少しの事に驚き、人と長く付き合う事が出来ない。
 
△ 人中が優しく、素直に観える者は、心が素直である。また、心が優しく、涙もろい。少しの事に驚く。
 
△ 人中に締まりがある者は、心に締まりがある。相応の福分がある。
 
△ 人中に締まりが無い者は、心に締まりが無い。ゆえに、運が開き難い。
 
○ 善(よ)い相があっても、人中が締まらず、上唇が少しはね上がる者は、必ず善いと言うべきではない。物事を進めようとしても、滞りが多い。また、根気が薄く、辛抱するという事を知らない。しかし、門歯(前歯)が抜け落ちる頃から、運が自然と良くなる。常に人中が締まっている者は、門歯が抜けた年から非常に悪い。よく考えなさい。
 
△ 人中に髭(ひげ)が多く生える者は早々に、全ての事に満足出来るようになる。
 
一 人中に髭が少ない者は、不平不満が多く、感謝心が無い。ゆえに、望み事は十分に叶わない。よく考えなさい。
 
一 人中に横筋がある者は、子供に縁が薄い。また、子供がいたとしても、頼りにならない。もし、子供が多い時は、老いてから苦労が多い。
 
一 人中に髭が少ない者は、気転が利き、才能がある。
 
□ 人中に髭が多い者は、気転が利かないが、心が豊かである。
 
△ 人中が長く、上唇が歯に等しく付く(歯ぐきがみえない)者は、非常に良い。人の上に立つ事があり、自然と人を用いる。貧しく暮らす者には、力になってくれる人がいる。また、物を支配したり、家を支配したりする事がある。
 
△ 人中の溝が深い間は心が定まらず、運を開く事が出来ない。その深い溝が浅くなるにしたがって、心が自然と安定し、運も自然と開く。よく考えなさい。
 
遠山万作喜が問う
人中は神気の強弱を知り、子孫の官を司る、と言うのは何故でしょうか。
答える
人中は口と同様に、神意の気が集まる場所である。ゆえに、心が喜び笑う時は、人中が自然と開く。逆に、神気をつめる(集中する)時は口を塞(ふさ)ぐゆえ、人中が自然と締まり、無意識に「心気」を保つ。よって、人中において神気の強弱を論ずる事が出来、寿命の長短を知る事が出来るのである。また、人中は任脈に対応しており、気血の通り道である。ゆえに、子孫の官を司る、と言う。

*任脈…古代中国で体系化された経絡のひとつ。十四経脈、奇経八脈、十五絡脈のひとつでもある。経絡は気・血・津液(気血榮衛)が流れるとされる道すじの事で、全身に分布し、人体の各部を連絡しているとされる。

*人中には任脈と督脈が通っている。

*十二経脈…①手の太陰肺経、②手の陽明大腸経、③足の陽明胃経、④足の太陰脾経、⑤手の少陰心経、⑥手の太陽小腸経、⑦足の太陽膀胱経、⑧足の少陰腎経、⑨手の厥陰心包経、⑩手の少陽三焦経、⑪足の少陽胆経、⑫足の厥陰肝経。これに督脈と任脈を合わせて、十四経と言う。

*奇経八脈…①衝脈、②陽蹻脈、③陰蹻脈、④陽維脈、⑤陰維脈、⑥帯脈、⑦督脈、⑧任脈。

*十五絡脈…絡脈とは、経絡から分かれる側副路のようなもので、十二経の絡脈と、督脈、任脈、脾の大絡の三つを合わせたものを十五絡脈と言う。
 
また問う
では、人中に締まりがある者は、気に締まりがある、と言うのは何故でしょうか。
答える
神気を締める(集中する)時は、六根がその神(神気)に従って、一身(全身)の門を塞(ふさ)ぐ。これは口を塞ぐに等しい。また、口を塞ぐ時は、自然と人中が締まり、「心気」を締めるに等しい。ゆえに、人中が締まっている者は、心に締まりがある、と言う。つまり、心が締まらない時は、一国の君主の心が安定しないに等しい。よって、一身の門に締まりが無くなり、六根の臣下が現れ、縦横に働きまわり、終(つい)にはその君を絶やしてしまう。よく考えなさい。
*六根…南北相法巻ノ一を参照。
 
加藤良助が問う
人中に髭が多くある者は早々にして、全ての事に満足出来るようになる、と言うのは何故でしょうか。
答える
人中の左右には食禄の官がある。つまり、人中に髭が多く満ちる時は、食禄の官が満ちるに等しい。ゆえに、「早く足る事知る。」の理がある。たとえ貧者であっても、全ての事に満足出来るようになったならば、それは心の福者である、と言う。この相は貧者にも、福者にも存在する。よく考えなさい。
 
また問う
では、人中に横筋がある者は子供に縁が薄く、子供がいたとしても頼りにならない、と言うのは何故でしょうか。
答える
人中は気血の通り道であり、子孫の官である。したがって、人中に横筋がある時は、その筋で子孫の官を傷つけるに等しい。ゆえに、子供に縁が薄い、と言う。
 
寳泉院法印が問う
人中が長く、唇が歯に付く者は非常に良い、と言うのは何故でしょうか。
答える
歯は金に属す。唇は水に属す。ゆえに、歯と唇が等しく合う時は、これを口の相生(そうしょう)と言う。つまり、金生水で非常に良いのである。また、歯唇は言語の門であり、その言語の門で相生が起こっているならば、これを能弁と言う。口は大海、人中は溝であり、つまりは水の通り道である。ゆえに、人中が長く、等しく歯に付く者は、水源から大海への水路が清浄であるに等しい。したがって、この相を持つ者は物事の通路が整っているに等しく、物事が滞る事が無い、と言う。

*「唇が歯に付く。」という状態は、笑った時に歯ぐきが観えず、上唇が歯の上部に乗っているように観える状態である。笑った時に歯ぐきが観えるのは下相・賤相である。女性においては淫乱の相であり、邪教を狂信している輩に多い相でもある。強烈な情欲から脱し、信仰を正すと、笑っても歯ぐきが観えなくなる事がある。
 
また問う
では、人中が深い間は、必ず心が安定せず、運が開かない。人中が浅くなるにしたがって心が安定し、運が開く、と言うのは何故でしょうか。
答える
人中は神意の気が集まる場所である。ゆえに、「心気」が締まる時は、人中が自然と締まる。よって、人中の溝が自然と浅くなる。神気が締まる時は、心が自然と正しくなり、安定し、穏やかになる。ゆえに、運は自然と開く。よく考えなさい。
 
南翁軒が問う
顔全体が豊かで、福相であっても、人中の先が少しはね上がる者は物事に滞りが多い、と言うのは何故でしょうか。
答える
顔は身体の内の繁花である。口は大海、人中は水道(水路)である。顔が豊かな時は、身体の状態が隆盛であるに等しい。だが、人中が少しはね上がる時は、繁花の湊(港)の通路が塞がっているに等しい。繁花の土地というものは、諸方からの航路が自由で、万事滞りが無い場所の事を言うのである。したがって、人中が少しはね上がる時は、繁花の地の水路に障害があり、通路の状態が悪いに等しい。よって、物事の滞りが多い。しかし、門歯(前歯)が抜ける時は、そのはね上がりが無くなり、人中が自然と下がる。よって、大海から繁花の地への通路が良くなるに等しい。ゆえに、その頃から運が良く巡る、と言う。よく考えなさい。

*繁花…「繁華」に等しい。つまり、顔は身体の中で最も賑(にぎ)やかな場所である、という事。換言すれば、顔は全身(五臓六腑)の事、心(脳内)の事、運命、その他全てが現れる重要な場所である、という事である。
 

《妻妾・魚尾・男女を論ず(妻妾は眼の外側、魚尾は目尻の筋(すじ)、男女は眼の下の骨の無い所の事を言う)》

一 妻妾は妻(夫)の事を観る。男女は子孫の事を観る。
 
△ 妻妾が極端に低い者は、妻縁が薄く、結婚しても離婚する。また、子供に縁が薄い。妻(夫)がいる者は、夫婦関係が悪いか、家庭内が安定していない。
 
 
□ 眼の外側にホクロや傷、皺(しわ)などが無く、美しい者は、良い妻(夫)を持つ。また、夫婦の仲が良い。よって、自然と家庭内が安定する。
 
△ 妻妾が極端に高い者は妻縁が薄い。また、妻縁が変わる事が多い。妻を剋する相である。
 
□ 眼の外側にホクロや傷がある者は、夫婦関係が悪い。ゆえに、妻縁が変わる。
 
△ 女で、妻妾が極端に低い者は、一生の内に種病(うきやまい)に罹る事がある。また、夫に関する苦労が多い。必ず離婚する。

*種病…奇形や障害のある子供を産むか、気鬱(憂き病)になる事を指していると思われる。詳細が解り次第追記する。
 
一 眼の下の肉が締まらない者は、子供に縁が薄い。
 
□ 眼の下が深く落ち入っている者は、子供に縁が薄い。家庭を崩壊させたり、破産する事がある。
 

↑図1


△ 目尻の筋(すじ)が図の如く下がっている者は、妻の心が激しい(図1参照)。
 
□ 目尻の筋が上がっている者は、心が荒々しく、才能や学識がある。また、妻に厳しい。
 
一 目尻の筋が下がっている者は、心に度量が無く、発展が遅い。この相がある男性は、妻の心が激しい。夫に勝る妻を持つ。よく考えなさい。
 
一 目尻の筋が長く、鬢(びん)に届く者は、心が安定するのが遅い。

*鬢…耳際の髪の毛の事。頭部側面の髪の事。この場合は、もみあげに近い部分。
 
川口文学が問う
妻妾が低い者は離婚する、と言うのは何故でしょうか。
答える
妻妾は夫婦の縁の事を司る。ゆえに、妻妾が極端に低い者は、これを妻妾の官成らず、と言う。よって、自然と妻縁が変わる。
 
また問う
では、妻妾の官の肉付きが極端に高い者も離婚する、と言うのは何故でしょうか。
答える
妻妾の官の肉付きが極端に高い者は、妻妾の官を保っていないに等しい。これはつまり、「満ちれば欠ける」の道理である。ゆえに、妻縁が変わる。妻妾の肉付きが顔全体の肉付きに応じていて、ホクロや傷など欠陥が無く豊かな時は、これを妻妾の官が成る、と言う。この場合は、性格・器量ともに良い妻に恵まれる。ゆえに、妻を得る頃から栄える事がある、と言う。また、妻妾の官にホクロや傷などの障害が無い場合は、夫婦の間に障害が無いに等しい。これを妻妾の官が正しい、と言う。よく考えなさい。
 
泰政二郎が問う
男女の肉付きが締まらない者は子供に縁が薄い、と言うのは何故でしょうか。
答える
男女は子孫の官である。肉付きが締まらない時は、子孫の官に締まりが無いに等しい。ゆえに、子孫に縁が薄い、と言う。よく考えなさい。
 
また問う
では、魚尾が下へ下がる者は妻の心が激しい、と言うのは何故でしょうか。
答える
魚尾の筋が下がる時は、妻の官(妻妾宮)が自然と上に来る。ゆえに、妻の心が激しく、夫に勝っている、と言う。この事は深く考えなさい。ともかく、私の浅はかな考えをもって記す。
 

《印堂・命宮を論ず(印堂は左右の眉の間の事を言う。命宮は左右の眼の間の事を言う)》

一 印堂は全ての事、望み事について観る。命宮は疾病(病気)の事、寿命の長短を観る。
 
一 印堂の間が狭い者は、イライラしやすく、根気が薄い。また、涙もろく、家庭を崩壊させたり、破産する。
 
△ 印堂にホクロや傷などの欠陥がある者は、物事が成就する手前で破綻する事が多い。また、親の家業を継がない。目上と意見が合わない。印堂に皺のような縦筋が多くある者は、家庭が安定し難く、何かを始めたとしても失敗する事が多く、苦労が絶えない。
 
□ 印堂が極端に広い者は、病気になる事が少ない。しかし、心に締まりがなく、だらしなく、発展し難い。また、倹約の相があったとしても、倹約家であるとは言えない。
 
一 印堂の広さが中指の頭を二つ伏せたくらいで、ホクロや傷などの欠陥が無く、皺も無く、綺麗に観える者は、貴人や目上と交流する事が多い。また、家運を興す。相応の福分がある。
 
□ 眼と眼の間がつまんだように細い者は、身内に縁が薄い。また、家庭を崩壊させたり、破産する事がある。苦労が多い。孤独の相である。
 
□ 眼と眼の間が広い者は、才能、学識が薄い。また、物事に対する順応性が低い。広くても才能ある者がいるが、世事には疎(うと)い。
*世事…世間の様々な俗事。
 
□ 眼と眼の間が狭い者は、せっかちであるが、世事に賢い。だが、短命である。
 
一 眼と眼の間が高くも低くもなく、ホクロや傷などの欠陥がなく、豊かに観える者は、身内との関係が良い。相応の福分がある。
 
山口梅月が問う
印堂が狭い者はイライラしやすい、と言うのは何故でしょうか。
答える
印堂は任脈にあり、気血が満ちる場所である。ゆえに、その身体に腎血が薄い時は、印堂に気血が満ちる事が薄い。よって、自然と毛が生じてきて、自然と印堂が狭くなる。例えば、人が常に往来する道は草木が生じない。逆に、人の往来が少ない道には草木が生い茂る。ゆえに、印堂が狭い者は腎血が薄いと言う。また、腎血が薄い時は、自然と心火が高ぶり、心がイラつく。

*任脈…前出しているので、そちらで確認を。
 
また問う
では、印堂が狭い者は貴人、目上の人に交流する事が少ない、と言うのは何故でしょうか。
答える
鼻は中央にあり、自分の身体に応ずる。また、印堂より上は目上の官である。ゆえに、印堂が狭い者は、自分の身体から目上の官に隔たりがあって、通路が狭いに等しい。ゆえに、印堂が狭い者は貴人、目上と交流する事が少ない、と言う。逆に、印堂が広く、ホクロや傷などの欠陥が無く、豊かに観える時は、自分の身体から目上の官に通じる場所に障害が無いに等しい。よって、貴人、目上に良く通じる事がある、と言う。よく考えなさい。
 
梅雪が問う
印堂にホクロや傷などの欠陥がある者は、計画した事が成就する七、八分で崩れる事が多い、と言うのは何故でしょうか。
答える
印堂にホクロや傷などの欠陥がある時は、自分の身体が天に通じる道に障害があるに等しい。ゆえに、思い立った事が崩れる。よって、運が悪い、と言う。
 
また問う
印堂が極端に広い者は身体が強いが、心に締まりがなく、だらしなく、ぼんやりしている事が多い、と言うのは何故でしょうか。
答える
印堂は肝気が集まる場所である。ゆえに、物事を思案し、考える時は、印堂に自然と気が集まり、縦筋が生じる。これを俗に思案皺(しあんじわ)と言う。逆に、この場所に気が集まらない者は、印堂が自然と広く、豊かに観える。これは気が締まっていないに等しい。よって、印堂が極端に広い者は心がだらしなく、ぼんやりしている事(間が抜けている事)が多い、と言う。心に締まりが無い者は自然と辛労が薄いので、その身体が強い、と言う。

*思案皺…懸針紋(けんしんもん)の事。眉間(印堂)に出る縦にスッと伸びる一本の筋で、常に眼に力が入っているような者に出やすい。いわば苦労症の相で、常に神経質に考え事をする者や、目上に抑えつけられながら働く者などに多い。作家で、観相家でもあった故五味康祐氏は、これを欲求不満の相であると言った。

*自然と辛労が薄い…気苦労が無い、と言うよりも感受性に欠ける部分が強いので、ストレスを感じにくいという事。常にボヤーっとしているので、外的環境に影響されにくいのである。良く言えば万事に寛容で、囚われの無い状態であるが、心の弛緩が強過ぎるので、全般的には良くない。一言で言えば、だらしない。これは栄養質の者にも多く観られる相である。
 
萩原東明が問う
命宮が細い者は身内に縁が薄い、と言うのは何故でしょうか。
答える
眉は身内に応ずる。鼻は自分の身体に応ずる。つまり、命宮(眼と眼の間)は自分と身内の内にある。ゆえに、命宮が細い者は身内と自分の関係が「細い」に等しい。よって、身内に縁が薄い、と言う。特に、命宮が細く、鋭く尖る者は、自分と身内の間で剣を振り上げるに等しい。よって、身内との関係が悪い、と言う。逆に、命宮に障害が無く、豊かに観える時は、身内によく通じて交わるに等しい。

*命宮が細い…原文には「命宮が細い」と「命宮が狭い」という二つの表現がある。微妙な違いに思えて、ついつい読み過ごしてしまいそうだが、この原文の表現の違いをしっかりと踏まえて観る事が重要である。
 
また問う
では、命宮が低い者は根気が薄い、と言うのは何故でしょうか。
答える
命宮は鼻の付け根にある。鼻は脾・土に属す。ゆえに、命宮が低い時は、脾・土が薄いに等しい。よって、根気が薄い、と言う。また、鼻は自分の身体に応ずる。ゆえに、命宮が低い時は自分の身体が「低い」に等しい。よって、気位が低い、と言う。
 
西尾芝が問う
命宮が狭い者は心がイラつく、と言うのは何故でしょうか。
答える
命宮は印堂と同様に、肝気が集まる場所である。つまり、肝気が逆立つ時は、その気が命宮に集まるので、命宮が自然と狭くなる。ゆえに、命宮が狭い者は自然と心がイラつく、と言う。また、肝気が薄い者は鈍感なので、命宮が自然と広い。よく考えなさい。
 

《頤(おとがい、下顎)を論ず》

一 頤はその人の気性や身の落ち着き(心の安定)を観る。
 
一 頤が鋭く、角が立つように観える者は、目上に背く。また、わがままで、家庭を崩壊させたり、破産する事がある。
 

↑図2


一 頤の先が二つに分かれている者は、親の家業を継がない。また、家庭を崩壊させたり、破産する事がある。廃(すた)れる事が多い(図2参照)。
 

↑図3


一 頤が無いように観える者は思慮に欠ける。また、家庭を崩壊させたり、破産する。または、家庭内が安定し難い。自ずから人を用いる事は無い。しかし、短気の相がある者については、よく考えて、観なさい(図3参照)。
 
一 頤が顔全体に応じて豊かな者は、相応の福分がある。
 
□ 頤が極端に肉厚で、膨れているように観える者は、悪い。物事が安定し難い。また、その当時は職が安定せず、安心出来ない。この相は肉付きに締まりが無い。締まらずに、弛んでいる感じの肉付きである。
 

↑図4


一 頤が向こう側(正面)に出ている者は、心が素直で無い。また、家庭を崩壊させたり、破産する事がある(図4参照)。
 
○ 頤を囲むような筋が現れている者は、運が開けている人である。
 
一 また、頤を囲むような筋が少しだけ観える者は、この頃より、運が次第に開ける人である。
 
一 また、頤を囲むような筋が深くあり、その筋に勢いが無く、枯れているようで、頤がさみしく観える者は、一度は栄え、現在衰えている人である。
 

《害骨を論ず(害骨とは、耳の下の骨の事を言う)》

*害骨…あぎと、腮骨(さいこつ)、腮(えら)の事。下顎骨の付け根あたりの部分。
 
△ 害骨が高い(えらが張っている)者は、欲が深い。目上と意見が合わない。だが、自分の利益になるような事であれば、よく働く者である。この人の神気を観て考えなさい。
 
△ また、害骨が無いように観える者は、権威に欠ける。発展し難い。しかし、正直であり、一生食に困る事は無い。
 
□ 害骨に肉付きが無く、骨が高く(張って)尖っているように観える者は、非常に悪い。一度栄える事があっても、後に必ず衰える。また、人と長く付き合う事が出来ない。しかし、これは心の清濁による。
 
一 害骨が高く(張ってい)ても、肉付きが多くある者は、悪くとも苦しむ事は無い。
 
一 害骨に、顔全体に応じた肉付きがあり、豊かに高く(張って)観える者は、吉とする。また、心が正直で、目上との関係が良く、相応の福分がある。
 
岡本作右衛門が問う
害骨が高い者は欲が深く、目上に背く。また、頤の骨が鋭く、角が立っているように観える者は、目上に背く、と言うのは何故でしょうか。
答える
鼻は中央の君主である。顴骨は将軍の官である。また、耳から下頤のあたりまでは諸大名の官とする。ゆえに、害骨が高い者は、将軍の権威を差し置いて、諸大名の権威が蔓延(はびこ)っているに等しい。これは自然と天理に背くゆえ、一度栄えても、後に衰える、という道理である。逆に、害骨が無いに等しい者は、君主があって、諸大名が無いに等しい。よって、権威に欠ける。よく考えなさい。
 
川端内蔵が問う
頤が短い者は、家族のまとまりが悪く、家庭内が安定するのが遅い、と言うのは何故でしょうか。
答える
頤は地に応ずる。また、諸大名の官を司る。ゆえに、頤が短い者は、地を守るための諸大名が無いに等しい。よって、その君主の住居が落ち着かず、家庭が安定するのが遅い、と言う。よって、家族のまとまりが悪い、と言う。
 
また問う 
では、頤が長い者は、家庭を崩壊させたり、破産する。また、家族のまとまりが悪い、と言うのは何故でしょうか。
答える
頤が長い者は、諸大名の官があるといっても、その諸大名の官に締まり(まとまり)が無いに等しい。よって、その家は自然と安定を失う。これは、臣下がまとまらず、その国を崩壊させるに等しい。また、頤が膨れたように肉付きが多い者も、諸大名の官がまとまらないに等しく、身の上が安定し難い。さらに、頤は地に応じるため、例えば水気が多過ぎる池に万物が生息しにくいように、物事がまとまり難い。
 
山東小十郎が問う
害骨が、顔全体に応じて肉付きが良く、豊かに観える者は正直で、目上に背かない、と言うのは何故でしょうか。
答える
害骨の肉付きが良く、豊かである時は、諸大名の官が豊かで正しいに等しい。また、諸大名の官が豊かで正しい時は、その時の君主も自然と豊かで正しい。これは、君臣豊かにしてよく調う、と言う状態に等しい。よって、目上に背かない、と言う。
 
また問う
では、頤の骨が鋭く、角が立つように観える者は目上に背く、と言うのは何故でしょうか。
答える
頤が鋭く、角が立つ時は、諸大名の官が鋭く蔓延るに等しい。よって、自然と目上に背く、と言う。
 
吉田佐治右衛門が問う
下停が豊かで、頤に筋が廻っているように観える者は、運を開いている人である、と言うのは何故でしょうか。
答える
下停が豊かで、筋が廻る時は、諸大名の官が豊かに満ちて、盛んであるに等しい。また、諸候の官が多く満ちて盛んである時は、その君主も一層権威を増す。ゆえに、運を開いている人である、と言う。また、筋が少しだけ廻っているように観える者は、これから追々諸大名の官が盛んになるに等しく、これから運が開ける人である、と言う。また、筋が深く廻っていて、その筋に勢いが無く淋しく観える者は、諸大名の官が一度満ちて、現在は衰えているに等しい。よって、その君主が自然と衰えているので、その当時は衰えている人である、と言う。

*下停…鼻の下から下顎までの範囲の事。
 

《その他の骨格を論ず》

△ 天倉に肉付きがたっぷりある者は、相応の福分がある。
 
□ 若者で、天倉の肉付きが薄い者は、散財が多く、福分が薄い。
 
△ 若者で、天倉から妻妾までの肉付きが無く低く観える者は、結婚する(妻を娶る)頃から運が悪くなる。また、夫婦の仲が悪く、子供に縁が薄く、家庭の事で苦労が多い。
 
□ 手のひらに、俗に言う「天下筋」がある者は、身内に公家や学者、医者、神主、僧侶などがいる。
*天下筋…手相で、手首あたりから、中指の下(土星丘)に向かって長く、真っすぐ伸びた運命線の事。この天下筋があると、青年期から老年期を通じて幸運に恵まれ、大きく成功すると言われる。豊臣秀吉にもあったと言われる相である。女性にこの相がある場合は、女社長となったり、生涯独身を通したり、後家になったりする事が多く、全般的にみると、男を剋す運命にあるので、あまり良く無い。ちなみに、「枡かけ線」は(感情線と頭脳線が真っすぐに結合し、一本の線となって、手のひらを横断する線の事)、俗に、シミアンライン(simian line、類人猿の手相)、百握りの相などと言い、人生の落伍者となるか、成功者となるか、とかく極端な人生を歩む相だとされる。また、自殺者に多い相だと主張する手相観もいる。
 
△ 短気な人に愛嬌がある時は、心は善にも悪にも強い。また、涙もろく、人の世話が多い。
 

↑図5


△ 喉仏が低い者は、涙もろい。また、思慮が浅く、少しの事に驚き、根気が薄い(図5参照)。
 
一 顔一面が豊かに観える者は、長男である。もし、弟ならば、長男の位に成る。また、心が豊かである。
 
□ 顔一面がせせこましく観える者は、弟である。また、イライラしやすく、親の家業を継がず、自宅を他人に譲り渡す事がある。
 
一 身体が小さく、頭部も小さく、顔全体の肉付きが薄い者は、必ず家庭を崩壊させたり、破産する。また、女難が多く、離婚する事がある。さらに、目上に背く。運が悪い。
 
□ 髪と眉が厚い者は、弟である。イライラしやすく、根気が薄い。

*髪と眉が厚い…次の文に説明あり。
 
□ 髪と眉が薄い者は、惣領(長男)である。もし、弟であるならば、惣領の位を得て、親の家業を継ぐ。また、心が豊かである。髪が厚いと言うのは、髪が太く、黒々としていて、硬いのを言う。逆に、髪が薄いと言うのは、髪が細く、柔らかで、素直に観えるものを言う。
 
○ 男で、柔和で愛嬌がある者は、惣領(跡取り)に女の子を授かる。また、女の子を多く授かる事がある。さらに、涙もろく、根気が薄い。
 

↑図6


○ 身体が肥えていて、身体全体に水気があるかのように肉付きに締まりが無く、二の腕(上腕三頭筋あたり)をつまんだ時、肉が柔らかで締まりが無い者は、必ず中風の病(脳卒中等)に罹る。中風の人を観て、知りなさい。口伝は無い(図6参照)。
 
△ 女で、額と鬢(びん、耳の前あたりの髪)の間、その少し内側にホクロがある者は、離婚する。また、一般庶民の女にこの相があると、必ず不倫の難がある。ホクロは大きいものを考慮に入れる。

*「額と鬢(びん、耳の前あたりの髪)の間、その少し内側」…妻妾宮または、魚尾・奸門のこと。目尻からコメカミのあたり。妻妾宮に異常がある夫婦は必ず悪縁で、不仲となるか、離婚、死別などがある。
 

↑図7


一 山林の肉付きが、鬢(耳の前あたりの髪)の方まで深く凹んでいる者は、親の遺産を減らす。また、家庭を崩壊させたり、破産する事がある。早々に隠居する事がある(図7参照)。
 
松本流水が問う
天倉は、なぜ福堂または遷移と呼ぶのでしょうか。
答える
天倉は天の倉である。よって、肉付きが良い時は、天の倉が良く満ちるに等しい。ゆえに、これを福堂である、と言う。また、天が己に福を与え給う時は、天倉に潤気を遷(うつ)す。ゆえに、これを遷移と名付けたのである。よく考えなさい。また、天倉の肉付きが悪い時は、天が己に与え給う福分が無きに等しい。よって、自然と福分が薄い。逆に、天倉の肉付きが良く、満ちているように観える時は、己にある福分が天(天倉)に満ちているに等しい。よって、福分がある、と言う。他の事は、血色の書に記した。自ら求め、みなさい。

*遷す…「移す」とほぼ同じ。ここでは、動く、変わるの意。
 
また問う
天から賜わる福分の事は解ったのですが、自分が生んだ福分については、何処を観るのでしょうか。
答える
必ず地庫に現れるゆえ、地庫を観る。天から賜わる福分は天倉にあって、福堂に映る(遷る)。また、自分が生んだ福分は、自然と地庫に現れ、法令に発する。これを天地の福分と言う。詳しくは血色の書に記した。
 
和田三郎が問う
福堂から妻妾にかけて凹んでいる者は、妻をとる頃から運が悪くなる、と言うのは何故でしょうか。
答える
福堂から妻妾まで凹んでいる時は、妻妾よりも福堂に悪い影響が出るとは言うものの、妻財の官を失うに等しい。よって、妻を娶る頃から運が悪くなる、と言う。逆に、この部位の肉付きが良く、豊かに観える者は、妻財の官を得たに等しい。よって、この人は妻を娶れば妻財の時を得たに等しく、妻を娶る頃から運が良くなり、福分を得る事が出来る。よく考えなさい。
 
鈴木陸奥が問う
手のひらにある縦筋(たてすじ)を天下筋(てんかすじ)、と言うのは何故でしょうか。
答える
手のひらには、天人地の三つの紋がある。地(手首あたり)から筋が出て、天(指の付け根あたり)に貫く場合、これを天下筋と言う。この意味を踏まえて、身内に武家者がいる、と言う。また、筋が地から出て、天まで貫く事を諺では「一子出家すれば、九族天を生ず。」と言う。この意味を踏まえ、身内に出家者がいる、とも言う。

*九族…自分を中心とした、先祖・子孫の各四代にわたる親族の総称。高祖父(母)・曽祖父(母)・祖父(母)・父(母)・自分・子・孫・曾孫・玄孫の九代。また、一説には、父方の親族四、母方の親族三、妻方の親族二の九つの親族を指すとも言う。どちらにしても、一家、一門の意に等しい。
 
また問う
では、短気な人に愛嬌がある時は、心が善悪どちらにも強い、と言うのは何故でしょうか。
答える
短気は一時的な悪である。愛嬌は生涯にわたる善である。ゆえに、善悪の心を生ずる。また、短気は自然と身を滅ぼす。逆に、気が豊かな者は、その身体が自然と豊かである。つまり、短気を治めれば身も治まり、家庭内が豊かに治まり、運が自然と巡り、大いに身を潤す。よく考えなさい。
 
髙橋栗八が問う
喉仏が低い者は、涙もろく、ちょっとした事を恐れる、と言うのは何故でしょうか。
答える
男は陽であり、喉仏が高い。女は陰であり、喉仏が低い。ゆえに、喉仏が低い者は、女の形を得たに等しく、涙もろく、ちょっとした事を恐れる。これは、女の常である。よく考えなさい。
 
長尾新吾が問う
顔が豊かに観える者は長男、逆にせせこましく観える者は弟である、と言うのは何故でしょうか。
答える
長男(長女)に生まれる者は、初子であるゆえ、父母から大いに寵愛を受ける。ゆえに、父母の心がその子によく通じる。よって、その子は自然と豊かに育ち、顔つきも自然と豊かになる。また、長男に生まれる者は、生まれる前から家督を継ぐ事になっており、自然と豊かになる。逆に、弟に生まれる者は、生まれる前から継ぐ家督が無いゆえ、父母の寵愛の度合いが大きく違う。ゆえに、顔つきが自然と豊かにならない。
 
吉田満山が問う
貧しい家に生まれる者は、長男であっても顔つきが豊かにならない、と言うのは何故でしょうか。
答える
貧家の父母は、日々の仕事や雑事に追われているため、長男であっても子を愛する事が少ない。よって、その子は悲しむ事が多く、長男であっても、顔つきが自然と豊かにならない。また、貧家は家が狭く、心に余裕が無い。よって、顔つきも豊かでない。つまり、貧家に生まれる子供は長男であっても、顔つきが自然と豊かでない。
 
南翁軒が問う
先生は、髪と眉が薄い者は長男、髪と眉が厚い者は弟である、と言われました。しかし、長男で髪と眉が厚い者もいれば、弟で髪と眉が薄い者がいます。これは何故でしょうか。
答える
髪の毛は血の苗であり、腎に属す。長男であっても、父母の気血が衰えている時や神気が安らか(穏やか)でない時に胎内に宿った者は、その苗(種)が安らかでないに等しい。ゆえに、髪や眉が自然と(無駄に)厚く生ずる。また、弟に生まれても、父母の気血が完全な時、神気が盛んな時に、胎内に宿った者は、その身体の基礎が強く盛んであるため、自然と髪と眉が豊かであり、髪と眉が(必要最低限に)薄く生じる。

*五行に当てはめると、腎は髪と関係があるとされる。いわゆる五華(ごか)で、爪(木・肝)、面色(火・心)、唇(土・脾)、毛(金・肺)、髪(水・腎)となる。

*本来、毛というものは動物の身体を保護するために生えるものであるが、人体における毛というものは、「大事な」部分のみに生えるようになっている。例えば、頭部や陰部を保護するために毛が生える。特に、熱を集中的に放散しなければならない部位では、熱放射の関係で、毛が縮れる。これは、熱帯地域に住み、体熱の保持が生死に関わる、二グロイドの頭髪を観ればわかる。また、人体の縮れ毛は、性ホルモンの影響を強く受けるアポクリン腺が分布する、陰部周辺や腋窩などに多く観られる。したがって、人体頭部に縮れ毛が多い場合(頭髪の「クセ」が強いほど)、性欲に何らかの異常がある、と観る。人相術の古典には「クセ毛=精力強し(淫乱)」というような意味の記述がみられるが、生理学を知らぬ古代人が、陰部に等しい毛が頭髪に現れる事を淫乱と観たのは、科学的な観点からでは無く、統計学的な観点によるものであろう。また、毛は一種のアンテナ装置、つまりは外的環境の変化を素早く読み取り、体内の恒常性を維持するために重要な働きをしていると、考える事も出来る。つまり、何らかの要因で体内環境が悪い者は、その脆弱さを維持するため、厳しい外的環境により敏感に反応しなければならず、健常人に比べてより多くの毛を備えると、考えられる。つまり、往々にして身体、特に呼吸器系・消化器系(五行で考えると肺と表裏にある大腸も含める)が弱い者は毛深い、と観る事が可能なのである。女性は本来、陰であり、陽面(陰部以外)には毛が少ないものであるが、女性で全身に産毛が多い者は、簡単に言えば、身体が生まれつき弱い、という事になる。つまり、毛は弱い部分に生えると同時に、弱いがゆえに生える、とも言えるのである。このようにして人相を観れば、「人中(鼻の下のミゾ)に毛が生える女は子供に縁が薄い。」という観方もよく理解出来るかと思う(別の観方では、毛は「火」、人中は「水」であり、水剋火で悪い、と観る事も出来る。)。女性の場合人中は、小人形法(顔に小さな人間を当てはめて、その部位の意味を判断する法。)では子宮および膣に該当するが、ここに本来無いはずの毛が生えるという事は、生殖器の不具を暗示しているのであり、ゆえに、子供に恵まれないとか、恵まれても無事に育たない、と言うのである。同様に、人中にホクロや傷があったり、人中が歪んでいたり、人中が薄い(ミゾが無い=子宮及び膣の発育不全)女性も、子供に縁が薄い、と観る。ちなみに、人中のホクロは双子を産む相でもあるが、子宮癌や子宮筋腫など、婦人科疾患に罹り易い相でもある。該当する女性は十分に注意されたい。
 
秋山直記が問う
柔和な感じがして、愛嬌がある男は、跡取りに女の子を授かる。また、女の子に縁が多い、と言うのは何故でしょうか。
答える
柔和で愛嬌がある男は、己の神気が薄い所以(ゆえん)である。また、神気が薄い男は女の神気に負けるため、神気が弱いままに女と交われば、女の神気に負けて己の一気が女の一気に包まれ、自然と女子を授かる。これは自然の道理である。よって、柔和で愛嬌がある男には女子が多い、と言う。また、常に神気が強い男であっても、己の神気が衰えた時に交合(性交)すれば、女の神気に負けて、自然と女の子を授かる。この事は深く考えなさい。

*神気…簡単に言えば、雰囲気のようなもの。オーラのようなものでもある。

*一気…神気(雰囲気)、精などの意。ここでは精子、と考える事も出来る。

*男女の産み分け法は色々あるが、この文章からも応用出来る。
 
藤縄金兵衛が問う
中風は何が原因なのでしょうか。

*中風…「風(風気)に中(あた)る」の意。現代医学的に言えば、脳出血や脳梗塞、脳軟化症などの脳血管障害によって生じた、運動機能障害の事。特に、脳出血後に残る麻痺状態の事を言い、痙性片麻痺(半身不随)や言語機能障害などをきたした状態を指す。中気、風疾とも言う。
答える
天地には水気(すいき)がある。人には血分(体液)がある。天地の水気は常に世界を廻(めぐ)る。また、人の血分も常に五体を廻る。ゆえに、身体が完全であれば、血分の廻りも完全である。同様に、血分が完全である時は、身体も完全である。また、血気が満ちる時は、その身体も自然と満ちる。逆に、血が枯れる時は、その身体も弱い。若い時は活力が強いため、気血が不順になることもなく、中風に罹ることもない。だが、老いれば活力は衰え、五体に気血が廻り難くなり、自然と手足が痺れるようになり、中風に罹ることがある。中風に罹る者は肥えていて、水太りのようで、肉付きに締まりがない。これは、血分が多くあるためであり、睡眠中に気血の通り道を塞ぐことになる。よって、睡眠中は気血が滞って廻らず、五体が痺れる。逆に、活動時は気血の通り道が開くため、気血が滞ることなく廻る。ゆえに、身体の痺れが治る。しかし、老体ともなれば、その活力が衰え、気血の通りは自然と不順になる。よって、気血が廻らず、中風を患う。女に関してはまた別である。よく考え、知りなさい。
 
西尾芝が問う
女で、鬢(びん)の少し内側にホクロがある者は不倫の難がある、と言うのは何故でしょうか。
答える
ホクロは血(けつ)の苗であり、腎に属し、陰である。また、額は天(=陽)であり、夫の官である。つまり、その夫の官に陰のホクロを隠し包むに等しい。よって、不倫の難がある、と言う。
 
また問う
では、山林の肉付きが凹んでいる者は家督を失い、家を崩壊させたり、破産することがある、と言うのは何故でしょうか。
答える
額は目上の官である。山林は目上の所有する山林や田畑に等しい。ゆえに、山林の肉付きが落ち入る時は、目上が所有する山林を破壊し、損なうに等しい。つまり、親の家督を失い、家庭を崩壊させたり、破産する、と言う。よく考えなさい。
 
一 女を観た時、離婚する相があるのにも関わらず離婚しない者は、その夫の心に侠気があるか、夫が温厚な性格である。離婚の相がある女は、夫になり変わって万事に差し出るし、夫よりも心が荒々しい場合がほとんどであるが、夫の心に侠気がある時は、その女は夫の心によく従い、自然と陰陽和平となり、その家庭は大いに栄えることがある。よく考えなさい。口伝は無い。

*離婚の相がある女…一言で言えば、後家相がある女性の事。人相の基本は陰小陽大であるが、男女が最も良く和合する相性も、当然ながらこれに順ずる。つまり、簡単に言えば、女は「陰」であり、器量(容姿や性格)が万事控えめ(つまり「陰小」)で、いわゆる「女らしい」のが自然の道理に沿っており、最上であるとする。逆に、男は「陽」であり、器量・性質ともに女々しいのはダメで、いわゆる「男らしい」のが最上である、とする。よって、男女が夫婦としてペアになる場合、「女らしい女」と「男らしい男」で和合するのが、陰陽(自然)の道理に従っており、最上であるとするのである。また、「男らしい女」と「女らしい男」が結婚するのも良いとされるが、結局は陰陽の道理に逆らっているため、女が夫の上に立つようになり、夫は剋され、早死にするか、ダメになることが多い(社会的信用の失墜や疾病の発症があったり、殺人や犯罪、事故などに巻き込まれるなど。言わば「さげまん」の影響)。最悪なのは、「男らしい女」と「男らしい男」が結婚するケースで、大抵は早期に離婚するのだが、離婚しない場合は、夫に大きな悪影響が及ぶ。

*陰小陽大…『観面秘録』に「男陽とは、その相のうち、外に現れたるもの、大なるをもって順とし、内に隠れたるもの、小なるをもって順とすべし。女陰とは、その相のうち、外に現れたるもの、小なるをもって順とし、内に隠れたるもの、大なるをもって順とすべし。」とある。

*侠気…いわゆる「男気(おとこぎ)」の事。権勢や強者に屈せず、弱者を助けて正義を行おうとする心の事。現代の日本人(特に若者)に欠けている心持ちである。ちなみに、建築家の安藤忠雄は、日本人で1980年以降に生まれた者に、特に気概が欠けていると憂いていた。
 
一 繁華の土地(都会)を離れて辺地(僻地)に住む者は、離婚する相ではあるが、必ず離婚するとは限らない。

*辺地…僻地(へきち)、都会から離れた土地の事である。原文には、「いなかのこと」という振り仮名がある。
 
一 繁華の土地に住む者は、離婚しない相があったとしても、離婚する事がある。しかし、この事はよく考えなければならない。
 
一 辺地に生まれ住む者は、子供に恵まれない相があったとしても、子供がいる事がある。
 
一 辺地であっても売春婦のいる場所に生まれ、住む者は、子供のいる相があったとしても、子孫に縁が無い(子供に恵まれない)事がある。夫婦の縁についても同様である。よく考えなさい。
 
一 繁華の土地に生まれ住む者は、子供がいる相があったとしても、無い事がある。よく考えなさい。
 
一 繁華の土地に住んでいても日頃の行いが良く、慎み深い者は、子供に縁が無い相があっても子供に恵まれている事がある。また、夫婦の縁についても同様である。よく考えなさい。
 
一 一般的に、女のような男は寛大さに欠け、心配性で、人を自分から用いる事が少ない。また、大きく発展し難い。
 
□ 男女ともに陰部にホクロがある者は、必ず離婚する。また、子供に縁が薄く、情事に溺れやすい。よく考えなさい。
 
□ 養子の相があるのに養子に行かない者は、片親が変わる事がある。
 
□ 観相した時、長男にも弟にも観えない者は、一人っ子の相である。よく考えて観なさい。口伝は無い。
 

↑図8


○ 地閣(あご、下唇の下あたり)にホクロがある者は一生、家(家庭)に縁が薄い。もし、家に住む事(家庭に納まる事)があったとしても、その家に一生住もうと思わない(いつかは家を出てしまう)。だが、福分はあり、相続する財産が多くある者は、一生、建築工事などに散財する。深く考えなさい。口伝は無い(図8参照)。
 
松下新平が問う
先生は「一般的に、女のような男は愚か(疎略)である。」と言われました。しかし、これは何を観て、女の相とするのでしょうか。
答える
男は陽であり、その姿形は力強く、眼・耳・鼻・口は大きく、話し方も荒々しい。これを小天地の大陽と言い、男の常とする。逆に、女はその姿形は柔らか(和やか)で、眼・耳・口・鼻は小さく、話し方も小さく柔らかい。これを小天地の大陰と言い、女の常とする。また、女は愚か(疎略)であり、人を自分から用いるという事が無い。ゆえに、男が女の相を得た時は、その心が愚か(疎略)で、人を自分から用いるという事が無い。つまり、大陽にあたる男が大陰にあたる女に似る時は、陰陽不順に等しく、自然と万事が整い難く、発展し難いようなものである。よく考えなさい。口伝は無い。
 
また問う
では、陰部にホクロがある者は情事に溺れやすい、と言うのは何故でしょうか。
答える
ホクロは血の苗であり、腎に関係する。つまり、ホクロは陰である。ゆえに、陰所(陰部)にホクロが生じる時は、陰に陰を重ねるという道理であり、情欲に溺れやすい、と言う。この事は深く考えなさい。
 
熊倉岩松が問う
地閣にホクロがある者は家に縁が薄い、と言うのは何故でしょうか。
答える
地閣は地に応じ、家居の官とする。また、ホクロは血の苗であり、身体の水に属す。ゆえに、地閣にホクロがある時は、地に水気が淀(よど)むに等しい。よって、自然と家に障害がある。よく考えなさい。

*家居(かきょ、いえい)…原文には「かきょ」「いどころ」と振り仮名がある。住居、家、住まいの事。地閣は主に家、土地、住居、建物の事などが現れる。例えば、家の中が整理整頓されておらず、常に散らかってるような場所に住む者の地閣には、必ず悪色や苞(吹き出物)が出ている。ちなみに、開運の基本は①先祖を敬い、正しい信仰をし、日々感謝心を持ち続ける事(「天=おでこ、額」が綺麗になる。)、②十善を守り、陰徳を積む事(「人=頬、顴骨」が綺麗になる。)、③住居を清潔にし、整理整頓しておく事(「地=あご、地閣」が綺麗になる。)である。つまり、顔も身体全体も、三歳(天・人・地)に当てはまるのであり、それに該当する部位を意識して日々の行いを改める事で、人相も清くなり、開運する事が可能となる。②は改善には最も地道な努力が必要で、その変化を目の当たりにするのにも、最も時間がかかる。よって、まずは①と③を正しくすることが、早期の開運の秘訣である。そうすれば、天(①)と地(③)の間に位置する人(②)は、自然と天地に影響され、良くなってくる(生き物は全て、天地の影響から逃れる事が出来ない。)。また、開運においては、陰所(陰部、普段隠れている場所)を清浄に保つ事も重要である。つまり、人体であれば陰部や口腔、尻、足裏、耳孔、鼻孔、臍孔などであり、建物であれば水回り(トイレ、排水溝、風呂場)や、押し入れ、物置、屋根裏部屋、机の引き出し、冷蔵庫の中、裏庭などである。よって、日々①~③に努め、陰所を清浄に保つならば、余程の因縁・憑き物が無い限り、必ず開運出来る。しかし、注意しなければならないのは、やはり本人の心がけであり、形だけを真似ようとしても開運は出来ない。特に、人を恨んだり、妬んだり、悪口を言ったりする事が常態化している者や、常に悪事を働いている者は、仏教で言う十善を厳守し、余程改心しないと、絶対に開運出来ないし、病気が治る、という事も無い。つまり、全ての事は人相に現れるのであり、多くの事は自分の内に生じ、自分に原因があるという事を悟らねば、真の開運は不可能なのである。いくら人相を学んでいても、この事を知らねば、全く意味が無い。
 
穴澤忠次が問う
繁華の土地に生まれ住む者は子供がいる相があったとしても、子供がいない事がある、と言うのは何故でしょうか。
答える
繁華の土地に住む者は、若年から売女(娼婦)などに戯(たわむ)れる事が多く、無駄に苗を下ろし(精力を消耗し)、その後、妻を得る頃には、精も根も尽き果ててしまう。ゆえに、その身体は衰え、子供は育ち難い(受精し難い)。もし、子供が多くいたとしても短命である。よって、繁華の土地に住む者は自然と短命である。しかし、繁華の土地に住んでいたとしても慎み深い者は、子供に恵まれない相があったとしても、自然と子供を授かる。つまり、子孫は天から与えられるものだとは言い難い。全ての事は自分次第である。よく考えなさい。子孫の有無の相についての口伝は無い。また、辺地(僻地、都会から離れた場所)で売女がいない土地に住む者は、みだりに腎を費やさず(無駄に精力を消費せず)、ここぞという時に陰陽和合(性交)する。ゆえに、夫婦睦(むつ)まじく、元気な子供を多く授かる事が出来る。
 
△ 養子の相があったとしても、額が狭い者、額が凸凹している者、眼が大きい者、出眼の者、眉が太く黒々として毛が入り乱れている者、鼻が大きくて鋭く観える者、極度に短気である者は、必ず養子を遂(と)げる事が出来ない。また、婿入り先の家を崩壊させる事がなければ、地位や財産を失う。現在、養子に行っている者も、同様である。
 
一 貧賤の者に貴相か威相がある時は、その心が貴いゆえに人に嫌われ、非常に悪い。また、商人に貴相、威相がある時は、その気位が高いゆえに客に嫌われ、商売は衰え、自然と破産する。よく考えなさい。口伝は無い。
 
□ 足の甲が極度に薄い者は、家に縁が薄い。また、家によく落ちついているようでも、一生、その家に住み続ける気持ちは無い。子供に縁が薄く、晩年運が悪い。
 

↑図9


一 繁華の土地(都会)に生まれ住む者で、辺地の官に障害がある時は、辺地(僻地)に行く事は感心出来ない。都会に住むのが吉である。逆に、辺地(僻地、田舎)に生まれ住む者で、辺地の官に障害がある時は、古里(故郷)を去り、都会に住む方が良い。辺地にいると凶事が起こる。よく考えなさい(図9参照)。

*辺地の官…コメカミの上あたりの場所。十三部位で言う司空(額の正中、ほぼ中央)と同じ高さで、司空から外へ9指の位置にある。遠方(との取引)の事、旅行(移動)先の事、田舎の事などについて観る。男女ともに、正面から観て右辺地を東日本、左辺地を西日本と観る事も出来る。海外への転勤や旅行の吉凶も辺地で観る。辺地にホクロや傷、凹みなどがある場合は僻地(田舎)から離れ、都会に住む方が良い。田舎に住む事、旅行する事はすべて凶である。基本的に、生誕から幼少期まで過ごした、馴染みのある土地を「生誕地」とする。例えば、北海道で生まれてからすぐに東京へ引っ越し、東京で幼少期を過ごした場合は、東京を「生誕地」として、人相を観るのである。とにかく、辺地に何らかの障害がある場合、都会に住むのが吉であり、田舎にいるとロクな事がない。また、辺地に障害がある者は、遠方との取引(オークション詐欺など)や出張先(旅行先)での事故・事件などに、十分注意した方が良い。ちなみに手相では、生命線末端の別れ方で都会に終わるか、辺地に終わるかがわかる。
 
一 社会的地位が高く、収入が多い者に愛嬌がある時は、その地位を長く保つ事は出来ない。破産したり、家庭を崩壊させる事がある。また、早々に隠居の身となる事がある。
 
一 印堂(両眉の間)の少し上が低い者は、養子に行き、自分の意見ばかりを押し通そうとする。

*印堂の少し上…十三部位で言う、中正のあたり。中正は主に目上、上司の事を観る。
 
一 近視の者は身内に縁が薄く、身内と意見が合わない。
 
一 女で、初めて会ったのにも関わらず、何も言わない内に愛想笑いする者は、淫欲が強く(淫乱で)、男の出入りが多く、離婚も多い。また、不倫の難がある。
 
□ 頬の肉が薄く、削げているように観える者は、親の家業を継がない。
*面肉横生(突発的な事故に遭いやすい相)であると危険。交通事故や街中での喧嘩などには十分に注意してもらいたい。
 
□ 

↑図10


印堂、山根(両眼の間)に疱瘡の痕のような傷(凹み)がある者は、養子に行く。この傷は3つまでをとり、4つ以上は考慮に入れない(図10参照)。
 
一 目上を剋す相が無い者は、高い地位に昇(のぼ)り難い。しかし、それでも目上を剋して高い地位に昇りつめたならば、必ず老年期に破産し、衰退する事になる。よく考えなさい。
 
一 目上によく仕(つか)え、よく勤める者は、高い地位に昇る事が遅い。必ず、他人からの妨害がある。また、目上に従順な相があり、高い地位に昇る時は、後に破産し、衰退する事もあるが、老年期は安楽に暮らす事が出来る。よく考えなさい。口伝は無い。
 
□ 長所が無く貧相であっても、その心が正直な者は極貧にはならず、分相応に暮らす事が出来る。ゆえに、貧者の福分は、「正直」によって引きとめる事が出来る。また、食に困るほどの貧者であっても、愛嬌がある者は極貧にはならず、一生、食が尽きる事は無い。ゆえに、極貧者の福分は、「愛嬌」によって引きとめる事が出来る。
 
一 散財の相が無い者は、大きく発展する事が無い。必ず、貧相である。
 
一 肝気が強く、気が安定していない者は、必ず、短命である。また、失敗する事が多い。
 
一 山林(眉尻の上、2横指)のあたりから眉頭の上にかけて、皮がつっぱったようでいて、シワが寄っているように観える者は、下相であったとしても、発展する事がある。人を多く用いる。だが、そうは言っても、例えるならば、「匹夫の勇」である。

*山林…司空から横へ7指の場所、神光の下にある。私有の山林などについて観る。

*匹夫の勇(ひっぷのゆう)…匹夫とは、卑しい(下品で無教養)者の事を指す。「匹夫の勇」とは、『孟子(梁恵王下)』の「此匹夫之勇、敵一人者也」による言葉で、思慮分別無く、結果を考えず、ただ血気にはやるだけの勇気の事をいう。いわば、感情だけで先走った、暴走系勇気の事。
 
一 出家者、学者で堪え忍ぶ心が無い者は、大きく発展する事は無い。芸者の類も同様である。
 
一 男の相が強い女(男に似た女)は、必ず夫を剋す(ダメにする)。また、離婚する事がある。夫よりも苦労が多い。
 
一 顔面部に備わる陰陽(凹凸)には、少しは大小がある。しかし、顔面部の陰陽(顔のパーツ)に極端な大小がある者は、これを「面部の陰陽成らず。」と言う。ゆえに、自然と離婚があり、家庭を崩壊させたり、破産する。
 
一 病人の臍を観た時に力なく萎(しな)びているように観え、臍をつまみ上げた時に柔らかでつまみ易い者は、必ず死ぬ。老人については考え、観なさい。
 
一 悪相があっても、誠意のある者がいる。この人は、陰では悪く言われるが、老いるほどに良くなる。よく考えなさい。
 
一 善相があっても、誠意の無い者がいる。この人は大きな事を望むが、老いるほどに悪くなる。また、若いうちから貴人や富豪に気に入られるが、その関係を長く保てない。よく考えなさい。口伝は無い。
 
一 金銭的に豊かである(福相がある)のに、貧相な者がいる。この人は物を粗末にする事を悲しみ、倹約を第一とする。これを、「心の貧相」と言う。
 
一 福相があっても、貧しい者がいる。この人は心が寛大で、締まりが無い。また、何かに失敗しても、悔まない。これを「心の福相」と言う。
 
一 貴人に貴相が無い時は、必ずその人の内心は下相である。ゆえに、破産したり、家庭を崩壊させたり、没落する。よく考えなさい。
 
一 子供に縁が無い相があるのに、子供が多い者がいる。この人は子供が多くても、その子供は必ず頼りにならない。また、女の子が多いか、頼りになる(働きに出る)子供がいても、自分は死ぬまで働かなければならない。子供に養ってもらう事は無い。

*「子供に縁が薄い」…江戸時代は、「男の子が生まれる→働き手が増える→跡継ぎに恵まれる→将来、養ってもらえる→老後が安心」という思想がベースにあり、「子供に縁がある=男の子を授かる事」とされた。したがって、現代とは異なり、「女の子を授かる事=子供に縁が薄い」とされたのである。しかし、現代でも、子供に縁が薄い相がある者は子供に恵まれ無い、生まれても女の子ばかりである、早々に子供との別離がある、子供が世の中の役に立たない、子供が罪を犯す、というパターンをトレースし易い事は、江戸時代と何ら変わらない。とにかく、子供に縁が無い者が子供を授かった場合、不幸が起こり易い。余程改心して、陰徳を積まねば、この相から逃れる事は不可能である。
 
一 子供に恵まれる相があるのに、子供が産まれない者がいる。だが、この人は頼りになる養子に恵まれ、老年期は自然と安泰になる。
 
尚古軒が問う
先生は、「口を論ず」と言いながらも、未だに口の中(口腔)の事には触れていません。口の中の相は観るのでしょうか、それとも観ないのでしょうか。
答える
食事をすれば、食物は脾の臓に納まる。ゆえに、脾の臓を食廩(しょくりん)の官と言う。よって、口の中は倉廩の庭に属す(対応する)。口が大きい者は、口の中が広い。逆に、口が小さい者は、口の中が狭い。よって、口が狭い者は倉廩の庭が狭いに等しく、五臓六腑を養う力は自然と弱い。ゆえに、その身体は自然と弱く、少しの事に驚くのである。また、口が大きい者は倉廩の庭が広いに等しく、五臓六腑の働きも完全である。よって、その身体は強い。つまり、口の中は五臓の苗が集まる場所であり、五臓が相交わって、その五味を分かち合う場所でもあり、その好む所に走る場所でもある。

*この答えを読んだだけでは、質問の回答になってないように思えるかもしれない。だが、口の中の状態は口の外に現出しているのであり、あえて遠回しな表現を用いつつも、「口の中を観る必要は無い。」と諭(さと)しているのである。

*食廩…「廩」とは倉の意。しまう事や、蔵する事の意もある。よって、ここでは「食物を納める場所(倉)」の意になる。ちなみに、穀物を蓄えておく倉の事を「倉廩(そうりん)」と言う。

*五味…五行論においての分類の一つ。酸(木、すっぱい)、苦(火、にがい)、甘(土、あまい)、辛(金、からい)、鹹(水、しおからい)となる。例えば、木(もく)に対応する肝に影響を与える味は酸味である、と考えるのである。よって、最近話題の黒酢も、程良く摂れば肝(肝臓)を養うが、過剰に摂りすぎると肝を破る(痛めつける)事になる。

*「その好む場所に走る」…つまり、五臓が口の中において、担当する味(五味)を拾おうとする姿を隠喩しているのである。
 
南龍斎が問う
歯は何に応ずるのでしょうか。
答える
歯は倉廩の奴僕(ぬぼく)に属す(対応する)。つまり、歯は飲食物を噛み砕き、六腑を養うのである。よって、歯が多くある者は、倉廩の奴僕が多いに等しい。ゆえに、飲食をより良く噛み砕く事が出来るので、五臓六腑を養う力が強く、その身体も強く、長命であり、食べる量も多い。歯が長い者も同様である。逆に、歯が短い者は、倉廩の奴僕が賤しい(少ない、「戔」は「少ない」の意)に等しい。よって、贅沢な物を食べる事が出来ず、食も十分で無い。また、歯並びが悪い(乱杭歯の)者は、倉廩の奴僕が揃(そろ)っていないに等しく、飲食物を噛み砕く事に劣り、五臓六腑を十分に養う事が出来ず、その身体は弱く、根気も薄い。歯が少ない者は、倉廩の奴僕が足りていないに等しい。よって、食も十分で無く、内心も自然と賤しい。

*奴僕…部下、召使い、下僕の意。

*「内心も自然と賤しい」…食が満たされなければ、心の余裕も生まれ難い、と言う事である。一般的に、裕福な者は常に食が満たされているゆえに寛大であるが、貧者は食が満たされていない事が多い為に、その心が狭くなりがちである。医学的に言えば、食物が胃腸に入る事で副交感神経が優位になるので、気持ちもリラックスしやすいが、欲求を満たすだけの食量が胃腸に入らなければ、自然と交感神経が優位のままで、イライラしがちである。だが、厳しい修業を積んだヨギ(ヨガの聖者)や行者、高僧らは自在に自律神経をコントロール出来るため、この道理は当てはまらない。
 
また問う
では、舌は何に応ずるのでしょうか。
答える
舌は倉廩の牛馬に対応する。ゆえに、飲食物を運ぶ。舌が小さい者は倉廩の牛馬が少ないに等しく、飲食物を六腑へ運ぶ事に追われ、自然と食が細くなる。逆に、舌が大きい者は倉廩の牛馬が多いに等しい。ゆえに、飲食物を六腑へ運ぶ事に追われず、自然と食も太く(食欲が強く)、ゆったりと食べる。よって、その身体は強く、相応の福分がある。舌が尖っている者は、倉廩の牛馬が刺々しい(激しい)に等しく、食べるのが速く、イライラしやすいので、短命である。舌が豊かに(ゆったりとして)観える者は、倉廩の牛馬が豊かであるに等しい。ゆえに、ゆったりと食べるので、その身体は強く、自然と心も豊かである。舌は倉廩の関守(監守)である。ゆえに、良い者(物)は倉廩に通し、悪い者(物)は撃退する。よって、舌が清浄な(監守としての務めを果たしている)者は、下食(粗末な飲食物)を食べない。よって、舌が不浄な者は、自然と粗末な物を食べる。よく考えなさい。また、舌は言語の枢機(最も重要な部位)であり、六律(福の音)を奏でる場所である。ゆえに、舌が不浄な者は、言舌(ごんぜつ)も悪い。

*六律(ろくりつ)…古代中国における六種の音階の事。十二種の音階を合わせて「六律六呂(ろくりつろくりょ、略して律呂)」と言う。六律は陽の音律であり、十二律中の陽音の事を指している。つまり、「十二律中の陽声の律」である。中国語においては、律は「決まり、掟、定め」の意味の他、「音律(音楽上のリズムやメロディーの法則)」の意味がある。その内、陰声の律を「六吕(呂)」、陽声の律を「六律」と言う。細かい分類は以下に記す。ちなみに、『南北相法』原文には六律に対し「ふくのこえ(福の声)」と振り仮名がある。

*十二律(じゅうにりつ)…中国および日本の音楽理論で用いる音名の事。1オクターブを半音刻みで、十二段に区分したもの。「十二調子」ともいう。日本では古代にこの理論を輸入したが、平安期以降は日本独自の呼び名に変更している(下記参照)。現在は、主として雅楽、声明、平曲、箏曲などで用いられている。ちなみに、基音である黄鐘(壱越)を九寸(約27㎝)の律管が発する音とし、それぞれ1/3の長短をつけた律管を交互に配置する事で、順次12の音高を定めている。また、低音から高音への順番は、「黄鐘(壱越)→大呂(断金)→太簇(平調)→夾鐘(勝絶)→姑洗(下無)→仲呂(双調)→蕤賓(鳧鐘)→林鐘(黄鐘)→夷則(鸞鏡)→南呂(盤渉)→無射(神仙)→応鐘(上無)」となる。

*六呂(吕)…十二律中、陰声の律で、六種の音律の事。大呂(たいりょ)、夾鐘(きょうしょう、夹钟)、仲呂(ちゅうりょ、中吕)、林鐘(りんしょう、林钟)、南呂(なんりょ、南吕)、応鐘(おうしょう、应钟)。また、音の配列では、これらは全て偶数に位置する。陰陽説では「偶数=陰数」なので、これらを陰声とするのである。さらに、日本では別称となっており、断金(たんぎん=大呂)、勝絶(しょうせつ=夾鐘)、双調(そうじょう=仲呂)、黄鐘(おうしき=林鐘)、盤渉(ばんしき=南呂)、上無(かみむ=応鐘)を六呂とする。

*六律…十二律中、陽声の律で、六種の音律の事。黄鐘(こうしょう、黄钟)、太簇(たいそう)、姑洗(こせん)、蕤賓(すいひん、蕤宾)、夷則(いそく、夷则)、無射(ぶえき、无射)。音の配置では、これらは全て奇数に位置する。よって、上記と同様に「奇数=陽数」で、これらを陽声とする。また、日本では別称となっており、壱越(いちこつ=黄鐘)、平調(ひょうじょう=太簇)、下無(しもむ=姑洗)、鳧鐘(ふしょう=蕤賓)、鸞鏡(らんけい=夷則)、神仙(しんせん=無射)を六律とする。ちなみに、『南北相法』原文では六律について「ふくのこえ(福の声)」という振り仮名を付けているが、これは、「陽数=福」と捉えたためであろう。

*言舌…ものを言う事。ものいい。弁舌。
 
清水元明が問う
古い相書では、左眉を羅喉星(らこうせい、らごせい)、右眉を計都星(けいとせい)と言います。何故でしょうか。
答える
額は陽であり、火星とする。ゆえに、羅・計の二星を両眉に備える。よって、これを羅・計・火の三星の象徴とする。羅・計・火の三星は極めて荒々しい星(「凶」を含む星)であると言う。ゆえに、眉が乱れ、まとまりがない時は、大難が来ると観る。これは、羅・計の二星が荒れているに等しい。また、額に赤気(しゃっき)が観える時にも、大難が来る。これは、火星が荒れているに等しい。詳しい事は自分で考えなさい。

*羅喉星、計都星…前出しているので、意味については遡って参照を。

*ちなみに、本物の火星には、フォボスとダイモスという2つの衛星が公転している事が知られている。2つの衛星は共に、1877年、アメリカの天文学者アサフ・ホールによって発見された。命名は、ギリシア神話に登場する軍神アレース(ローマ神話では戦の神「マルス」)の息子ポボスとデイモスに由来する。
 
また問う
眼、耳、鼻、口は四つの湖水とする、と(中国の)古書にありますが、これについては解釈すべき所はあるのでしょうか。
答える
眼耳口鼻は顔面部の陽穴(孔のある場所)であり、神気の取り入れが自然に出来るようになっている。ゆえに、これを四つの湖水に例えたのである。しかし、この説は日本においては採用し難い。私の解釈では、神意の二つを基本として考える。つまり、眼耳口鼻を君神(君主)のいる城郭の四方の門とし、この門を意臣(臣下)が常に守る、とするのである。よって、意臣がこの門を守らない時は、万言万色が神(君主)に通じない。他の事は、自分で考え、知りなさい。

*万言(まんげん、ばんげん)…多くの言葉。

*万色(ばんしょく)…多くの響きや心情、情勢。
 
問う
「腹の三壬」という言葉については解るのですが、「背の三甲」とは、どういったものなのでしょうか。

*原文には、質問者の氏名が記載されていない。
答える
三甲は背部にあり、陽である。三壬は腹部にあり、陰である。また、背部は天に対応し、腹部は地に対応する。つまり、天地陰陽に対応している。壬は陰(凹)、甲は陽(凸)であり、三甲三壬は胴体の陰陽である。その胴体の陰陽が完全か否かで、「背の三甲」、「腹の三壬」と言うのである。陰には三つの陰があり、陽にも三つの陽がある。つまり、陽を含む陰もあれば、陰を含む陽もある。ゆえに、「腹の三壬」がある者は「背の三甲」を備えており、「背の三甲」がある者は「腹の三壬」も備えている。これらは対応して備わるものである。よって、これらを観る時、絶対に迷ってはならない。これについての口伝は無い。ちなみに、「背の三甲」とは背中に肉付きが多くあり、背骨(脊柱)の左右に背骨の如き肉付きがあることを言う。

*「陰には三つの…」…原文では「陰に三つの数あり。陽に三つの数あり。是陰有りて陽あり、陽有りて陰あり。」となっている。一見すると難解な文章に思えるが、陰陽論をしっかりと理解していれば、簡単である。つまり、三つの陰とは、「(純粋な」陰」、「陰中の陰」、「陰中の陽」であり、三つの陽とは、「(純粋な)陽」、「陽中の陽」、「陽中の陰」を指すのである。市販の注釈書は、このあたりの事をしっかりと訳し、解説していないので、要注意。
 
辻太郎兵衛が問う
辺地(僻地、都会から離れた場所)に住む者は、離婚する相があっても離婚しない、と言うのは何故でしょうか。
答える
辺地に住む者は、結婚してしまえば、他の異性へ心が動く事は無い。夫は一人の妻を守り、また妻は一人の夫を守るのが本分である。よって、自然と陰陽和平となり、豊かになる。ゆえに、辺地に住む者は離婚の相があっても、離婚しない。逆に、繁華の土地(都会)に住む者は、一人の妻を守る事が出来ず、娼婦や妾(愛人)を求めて乱れ、自然と夫婦仲が悪くなる。よって、繁華の土地に住む者は、自然と離婚する。よく考えなさい。
*現代の日本においては、この観方は採用し難いと思われる。
 
五柳軒が問う
貧乏人には、子供が多くある者がいる、と言うのは何故でしょうか。
答える
貧者は仕事に心が奪われ、常に妻と共に仕事に励み、仕事の事だけを考えているので、みだりに娼婦を求める事は無い。つまり、情欲に溺れず、無駄に精力を使わないのである。よって、貧者には多くの子供がある、という道理である。浅はかな道理ではあるが、よく考えなさい。

*古い相書には「童貞と処女が交わって産まれた子は良い、云々。」とある。しかし、これは20代前後の男女に限った話であろう。なぜなら、統計学的には、30歳を過ぎてからの出産は奇形児、未熟児、障害児を産むリスクが高まる、とされているからである。ちなみに、この事を経験則から知っていた古人は、早くに結婚し、出産する事を良しとしていた。よって、20代半ばを過ぎた男女の婚姻は忌々(ゆゆ)しきものとして、懸命に避けようとしたのであろう。
 
藤井南海が問う
貧相の者や賤相の者、商人に貴相・威相がある時は、人に嫌われて家庭を崩壊させたり、破産する事がある、と言うのは何故でしょうか。
答える
貧者や商人は、優しく穏やかで、愛嬌があるのを良しとする。愛嬌が少ない時は、自然と商売は繁盛しない。つまり、商人に貴相や威相がある時は、客が恐がり、自然と人気が集まらない。ゆえに、自然と人に嫌われるという道理である。よって、商人はその商売が衰え、自然と破産する、と言う。
 
寳泉院法印が問う
高位高禄(高位高官)の人に愛嬌がある時は、その官位官職を長く保つ事が出来ない、と言うのは何故でしょうか。
答える
貴人は他人と話す時、笑みを含む事が少なく、自然と愛嬌も少ない。だが、下賤の者は他人と話す時、馴れ馴れしく笑みを含み、自然と愛嬌がある。よって、貴人に愛嬌がある時は、下賤の相を得るに等しく、その官職を長く保つ事が出来ないのである。そうなれば、家庭を崩壊させたり、破産する事になる、と言う。
 
渡邊貢が問う
足の甲が極端に薄い者は、家(家庭)に縁が薄く、子供にも縁が薄い、と言うのは何故でしょうか。
答える
足は地(大地)に対応する。地は厚みがあってこそ、地の徳が備わっているとする。ゆえに、足の甲が薄い者は、地の徳が薄いに等しい。よって、家や家庭に縁が薄い。また、頭を初年、(胴を中年)、足を晩年とする。子孫は晩年の福であり、足の甲が薄い者は晩年の福が薄いに等しい。よって、子孫に縁が薄い、という道理があり、晩年運が悪い、と言うのである。

*人相術では、様々な部位を三歳(三才)で考える。つまり、「天地人」がこの世における1つの基本であり、それを人相に当てはめる事で、自然の道理に適った観方が出来ると考えたのである。
 
犬鳴山法印が問う
長寿の相があっても、早死にする者がいます。これは何故でしょうか。
答える
命というものは、相者の力が及ばない所にある。天の命だからである。だが、命は天の命とは言っても、全ては己(おのれ)にある。ゆえに、天理に適う生き方をすれば、自然と天が命をお与えになるのである。よって、天理に背くような生き方をすれば、自然と天が命を絶たれる。長く生きようと願うならば、先ず陰徳を施し、淫色酒食を慎み、天地の間に生きるモノを無益に使わず、倹約を第一にして日々を過ごすべきである。そうすれば、天理に叶い、自然と命を長く保つ事が出来る。慎みが悪い者は、自然と短命である。もし、慎みの悪い者が命を長く保つならば、老いてから食に困窮し、貧しくなる。また、極稀に、慎みが悪くても生涯良い者がいるが、この場合は必ず子孫が長く続かない(子孫が絶える)。しかし、その家系には、先祖の徳がある場合もあるので、しっかりと考えねばならない。陰徳を施し、常に倹約を心がける者は、短命の相があっても、自然と長命となり、一生食に困る事は無い。また、臨終にあっても食に困らないゆえ、死に際に苦しむという事も無い。命は天の命であり、寿は己の心がけによる。また、官禄(地位や金銭)についても、以上の事と同様である。つまり、忠孝を積めば、自然と天が官禄をお与えになる。逆に、不忠不孝を行えば、即座に天が官禄を断たれる。陰徳を積めば陽徳となり、陰悪を積めば、陽悪となる(すべては露見する。)。畏(おそ)れるべきは天であり、慎むべきは己である。

*天理…万物を支配する天の道理の事。自然の道理。
 
南嶽が問う
座頭についてはどこを観て、その官位を観抜くのでしょうか。
答える
座頭というものは、視力を失った盲人が務める。よって、座頭の官位については眼を観る。

*理解しやすいように意訳した。
 
また問う
それは何故でしょうか。
答える
例えば、琴や三味線が上手くても、盲目でなければ、勾当(こうとう)や検校(けんぎょう)の官位に採用される事はありえない。ゆえに、盲人の官位については眼を観るのである。

*勾当…江戸時代における、盲人の官位の一つ。最高位は検校で、別当、勾当、座頭と続く。詳細は以下に記載した。

*江戸時代には、幕府によって公認された盲人の職業団体として、「当道座(とうどうざ)」という組織があった。当道座は中世に端を発する琵琶法師の「座(以下に詳述)」として発足し、四つの官位(検校、別当、勾当、座頭)を保持し、盲人の職業を保護した。江戸期においても琵琶や琴、三味線を片手に歌を歌い、語物(かたりもの)を語った。主に、按摩や鍼灸、高利貸し(通称「座頭金(ざとうがね)」)を業としていたが、実際の官位は売買されていたらしい。また、座頭が行っていた高利貸しは非常に高利で、しかも返済期限は三カ月と短く、返済が少しでも遅れると、厳しく取り立てていたとされる。ちなみに、以下の問答で南北翁は、高利貸しを「財宝を借り請けなさざる者は、是天地の賊たり。」とし、「後、大に窮す。」と批判している。南北翁は密教を修めていた海常導師に教えを受けていたため、仏教で言う「因果応報」を強く信じていたようである。つまり、盲目という現象は因果応報の結果であり、その上にさらに罪を重ねるように高利貸しを行う盲人集団、「座頭金」を強く批判しながらも、その将来を憂いていたと思われる。

*座…近世において、朝廷や貴族、寺社などに一定の上納金(座役)を納める代わりに、特定商品の製造・販売などの独占権を許された集団の事。いわゆる同業組合。先に述べた当道座では、「盲目」という名の「特権」を利用し、暴利を貪っていたようである。ちなみに、現代の鍼灸界においても盲人の「特権」は根強く残っているが、特に議論されるという事はなく、放置されている。
 
また問う
どのような眼を観て、高官であると観抜くのでしょうか。
答える
盲人は、常に瞼(まぶた)を閉じ、美しく観えるのを良しとする。これは盲人の官(眼)が清く、正しいに等しい。ゆえに、このような場合は、高官に就く。逆に、常に淋しく観える場合は、その官位が淋しいに等しく、下官に就く。また、常に瞼を開いている盲人は、その官位が締まらないに等しく、下官であり、高官に就いたとしても、その官位が締まっていないがゆえに、その官位を全うする事が出来ない。さらに、常に瞼を開き、眼球が飛び出しているように観える盲人は、その官位が安定せず、乱れているに等しい。よって、下官であり、高官に就いたとしても、その官位は乱れ、失敗するに等しく、その官位を長く保つ事が出来ない。これらは、俗に「あきめくら」と言い、健常者のような眼をした盲人は、盲人の官を全うしていないに等しく(自然の道理に反して)、その官位に就く事すら出来ない。また、常に瞼を開きたがる盲人は、その盲人の官と縁を切ろうとするに等しく、非常に悪い。

*盲人の官…健常者でいう「眼」の事を指していると思われる。前出の文章をしっかりと読めばわかるはず。人相術においては、健常者、盲人共に、眼を観る事が最も重要なのは、同様である。健常者の場合は「開いた」眼を観るが、盲人においては「閉じた」眼を観る。
 
森主慶が問う
破産する相があるのに破産する事が無く、さらには栄える者がいます。これは何故でしょうか。
答える
破産する相が強くあろうとも辛抱し、堪え忍び、移り気にならなければ、破産する事は無い。つまり、衣・食・住の三つは辛抱と堪忍(かんにん)の二つにある。よく考えなさい。
 
水野化蝶が問う
先生の伝える相法には、破産する相や家庭を崩壊させる相が多くあります。これは何故でしょうか。
答える
中国の事は知らないが、日本では高官(言わば高給官僚)が少なく、官禄の人(いわば普通の公務員)が2~3割、無官無禄の平人(安定した給与が無い庶民、社会的特権・官制上の地位が無い平民)が8~9割を占める。官禄の人は(収入が安定しているため)、破産する事は少ない。だが、無官無禄の人は、その家に徳(人徳や富、恩恵、能力)がないため、破産する事が多い。ゆえに、私の相法には破産する相や家庭を崩壊させる相が多いのである。職人や商人の類は、その業を「禄(固定給)」として考える。しかし、その人相によって、考えなさい。
 
また問う
女性は見た目は弱そうですが、内心は強いです。これは何故でしょうか。
答える
男性は内面に陰を含み、外面に陽を現わすものである。ゆえに、男性は外面が強く、内面(内心)が弱い。逆に、女性は内面に陽を含み、外面に陰を現わす。ゆえに、女性は外面が弱く、内面(内心)が強い。つまり、男はその姿形が強く、自然と眼・耳・鼻・口が大きい。これは陽を現わしているに等しい。よって、女性で眼・耳・鼻・口が大きい者は外面に陽形が現れているに等しく、男の形を得たに等しい。結果、このような女性は自然と男を剋す(弱体化させる・ダメにする)。よく考えなさい。

*現代では、後家相が強い、男性的な外面の女性が増え、逆に女性的な外面の男性が増えている。つまり、女性が男性化し、男性は女性化しているのである。人は陰(無、闇、女性、羊水、海)から産まれ、陰(土、闇、無)に帰る事を考えると、男性が女性化する事はある意味、今の時代が終局に向かっている事を暗示しているのかもしれない。また、男女の陰陽が逆転し始めている事は、自然の道理に反する事であり、地球環境の悪化をも暗示しているかのようである。

*売れっ子アイドルや、成功している女優、モデル、女社長などは、必ず強い男相を備えている。女性に備わった男相は江戸期で言えば後家相の象徴であり、本来は男をダメにする凶相であるが、男女同権とされる現代では女性の独立に欠かせない相でもある。つまり、本来男相は「陽=表に出る相=陽の当たる場所に出る相=女性を支える相=女性の代わりに働く相=狩りをする相=家庭を支える相=大胆な相=外強内弱の相」であり、女の相はこの逆である。よって、現代の女性陣は男相を備えるからこそ、男のように活躍出来るのであり、男と肩を並べ、同等またはそれ以上に働く事が可能なのである。だが、現代でも、男相を強く備える女性は後家相であり、結婚した場合は早々に離婚するか、夫と死別するか、パートナーとの間で何らかの別離が伴う。芸能人や女優に離婚が多くみられる事は、これを如実に証明している。もし、パートナーとの別離を避けたければ、出来るだけ言動を慎み、女性らしくして、バリバリ働く機会を減らすしかない。最も後家相を決定付けるのは、男性のような、かすれた低い声であるが、声そのものを変える事は困難である。よって、後家相の影響を少しでも減らしたければ、日々の言動を控えめにしたり、言動の隅々にみられる荒々しさを無くすように心がける事が重要である。つまり、とにもかくにも自分の中にある「男っぽさ」を減らしてゆく事である。また、料理や炊事洗濯、手芸などを積極的に楽しんで行い、今まで女性が担ってきた生活スタイルに戻していく事で、「女性らしさ」を取り戻し、後家相を無くしたり、夫との別離を避ける事が可能である。
 
松本流水が問う
私は神気(雰囲気)が清いですし、気持ちが高まっても(ボルテージが上がって神憑り的になっても)、観相が的中しません。何故でしょうか。
答える
それでは、真の意味で神気が清いとは言えない。真に神気が清ければ、気持ちは高ぶらない。心が神気を剋しているから、気持ちが高ぶるのである。ゆえに、的中しない。本当に神気を充実させて観相する時は、六根(煩悩)がその神気に服従し、神気は自然と清くなる。ゆえに、人を観ても外れる、という事が無い。よく考えなさい。
 
正月堂別当が問う
子供に縁がある相があっても、その姿形が美しい女は必ず子供がいない、と言うのは何故でしょうか。
答える
その事は草木に当てはめて考えると良い。例えば、美しい花が咲くと、実のならない桜がある。また、美しい花が咲くと、実のならない桃もある。つまり、美しい花の咲く草木は、概して、その実を食べる事が出来ないようになっている。逆に、あまり美しく無い花が咲く樹木は、味わいのある実をつける事が多い。ゆえに、美しい容姿の女は、美花の咲く草木に等しく、自然と子供に縁が薄い、と言う。
 
湊忠兵衛が問う
器量が悪い(ブサイクな)のに美しく観える女もいれば、器量が良い(美しい)のに下品で汚らしく観える女がいます。これは何故でしょうか。
答える
身体において最も汚(けが)れやすい場所は、陰部(性器・肛門)である。ゆえに、常に陰部を清潔に保つ者は、その身体は自然と清く、美しく観えるようになる。根幹が清ければ、枝葉も自然と清くなるという道理である。
 
水野化蝶が問う
木形の相が五割と、土形の相が五割、互いに交り合っている人がいます。これは完全な木剋土でありますが、この人は大いに発展しています。これは何故でしょうか。
南北先生答える
その人は、常に勢いがあるのか?
答える
そうです。
南北先生答える
そうか。勢いがあるという相は、火に属す。ゆえに、木形の相に交わる時は、木生火で相生となる。また、土形の相に交わる時も、火生土で相生となる。ゆえに、大いに栄える事がある。
 
萬金十郎が問う
相者の多くが「散財」と言う言葉を使いますが、「散財」とはどのような事を言うのでしょうか。
答える
最近、俗に言われている「散財」は、散財という言葉に値しない。そもそも、財宝はいくら集めようとも、自分の物とはならない。つまり、「財」とは本来、天地によって恵まれる物であり、その財宝を失ったとしても、それは地に返す事なのであり、再び財宝に巡り恵まれる事がある。しかし、「小天地の財宝」とは己の身体(身体髪膚)の事を言うのであり、身体を無暗に傷つけ、一滴の血でも流そうものならば、再びそれが返って来る事は無い。これを「人の散財」と言う。よく考えなさい。
*身体髪膚(しんたいはっぷ)…全身の事。ここでは、『孝経』の最初にある孔子の言葉「身体髪膚、之を父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て、家を興し、父母の名を高からしめるは、孝の終りなり。」を踏まえて、論じていると思われる。
 
また問う
「相法の妙」と言うのは、どのような事を言うのでしょうか。
答える
「相法の妙」と言うものは、自然の道理(摂理)に見事に対応した、霊妙な徳性(道徳的意識)にある。全ては、自分の内に求めれば、答えは一つである。
 
松下新平が問う
「仕合せ良し(運が良い、幸運である)」とは、どのような状態を言うのでしょうか。
答える
身体髪膚(全身)が完全である事を、「仕合せ良し」と言う。身体髪膚は「四大(しだい)」とも言うが、この「四大」が良く揃っている事を、「仕合せ良し」と言うのである。たとえ金銭的に恵まれようとも、己の慎みが悪く五体不具となるならば、これを「仕合せ悪しき」と言う。
*四大…仏教用語で、万物を構成する四つの元素(地・水・火・風)の事を指す。また、人体そのものを指す。俗言う「四大調はず」とは、肉体を構成する四大の調和が乱れ、病気になる事を意味する。『今昔物語集』には、「四大調はずして、いよいよ変じて百節皆苦しび痛む。」とある。
 
玄武亭が問う
人の運気は、天地(自然界)においては、何に応じるのでしょうか。
答える
人の運気は、天地の順気に応じている。また、「運」にも、「順」にも「廻(めぐ)る」の意がある。つまり、天地不順で「廻り」が悪い時は万物が滞り、生まれるモノも少ない。これは、大天地の順気が悪化している事による。同様に、身体不順である時は気分も悪く、万事が滞る事が多く、これを「運気が悪い」と言う。このように、人は大天地に応じている。ゆえに、天が曇る(優れない)時は、人も自然と曇る(体調が悪化する)のである。他の事は深く考えなさい。
 
加来西北が問う
正直者は「吉」なのでしょうか。
答える
正直な者は、人を哀れむ心が強いので散財が多く、財宝を蓄える事が出来ない。だが、正直な者は「天地の徳」に等しい。天地は本来、開放的(明るく清らか)であり、万民のために万物を生じさせるものである。また、人においても、正直な者は天地が解放的であるに等しく、他人を哀れみ、財宝を自分から蓄える事が出来ない。ゆえに、正直者を「天地同体」の人であると言う。多くの者は、天地に生じる万物や財宝を貪ろうと躍起になるが、正直者には自然と財宝が与えられる。だが、吝嗇者(ケチな者)は、正直者から財宝を貪る。天地を貪り財宝を蓄える者を、「世界の賊」と呼ぶ。
 
浪花米濱の住人が問う
運が良ければ、悪事を働いても、必ず利益(財宝)を得る事が出来るのでしょうか。
答える
その「悪事を働いてでも利を得る」という考え方自体が良くない。正直であれば、天がこれを哀れみ、(良)運が自然と廻る。逆に、不誠実である時は、天はこれを憎んで、自ずと(良)運は廻らず、災いが生じる。つまり、悪事を働く事は、天の好意(哀れみ)を無下(むげ)にするに等しく、利益を得る事が出来ない。
 
また問う
しかし、悪事を業にして、金銀財宝を多く得る者がいます。これは何故でしょうか。
答える
金銀財宝を多く得ているとは言っても、これは「得ている」のではない。「貪っている」のである。何故かと言えば、天地を謀り(騙し)、人気(じんき)を謀り、己に相応しくない財宝を得ているのであり、「不実」であると言えるからである。よって、悪事を業にしている者は、金銀財宝を多く得ているとは言っても、その人相(面色)は非常に悪い。つまり、天を得ていない人なのである。他の事はよく考えなさい。
 
また問う
それならば、運が悪い時に悪事を働けば、利益を得る事が出来るのでしょうか。
答える
悪事を働く事は不誠実であり、天の道理に適(かな)っていない。相法は聖人が伝えたものである。聖人が伝えた相法には、悪事を働く者についての観方がある。だが、実際は悪事を働いて利益を得る事は、運の良し悪しは関係ない。神気(原文は「心気」)が強く、その勢いが盛んであれば、「矢を射る」に等しい。つまり、相に勢いがある時は、悪事を働いても、利益を得る事が出来るのである。ゆえに、悪事を働く者は自然とその境遇を祝い、起縁(ぎえん)を祝うのである。そうする事で、さらに勢いを増すのである。詳しい事は、色の書に記してある。自分から求めてみなさい。
 
ある人が来て言う
私は他人に多くのお金を貸しており、非常に苦労しています。貸したお金は戻ってきますでしょうか。
答える
金銭は天地の宝である。ゆえに、金銭を正しく使う事はそれを天地に返すに等しい。よって、時が来れば、天が恵んで下さるように、己に金銭が戻ってくる。したがって、長い間苦しむ事はないであろう。
 
また問う
では、借金している者はどう観るのでしょうか。
答える
人の財産を借り受けている者は、賊に等しい。また、財産の道を途絶えさせるに等しい。よって、自然と財産の道が途切れるようになり、後には大いに生活が行き詰まるようになる。他のことはよく考えなさい。
 
要助が問う
相者の名人とは、何をもって言うのでしょうか。
答える
良い相を観ても、良い相ばかりに囚(とら)われない相者を、名人という。この相者は、必ず人を良い方向へ導き、不幸にさせる事はない。逆に、良い相ばかりに囚われ、良い相ばかりを指摘する相者がいる。この相者は「下手」であり、真に当てる事もなく、人を不幸にさせる事が多い。よく考えなさい。
 
吉田佐治衛門が問う
ホクロは何に対応するのでしょうか。
答える
ホクロは例えるならば、この世にある墳墓に等しい。つまり、諸国においても、墳墓のある場所というのは、その地に災(わざわ)いの因縁があるゆえに、墳墓が築かれるのである。よって、人にあるホクロというものは、その人に何らかの因縁があるゆえに、生ずるものなのである。よく考えなさい。
*墳…「賁(ふん)」は「噴(ふん)」に通じ、また、「墳(ふん)」には「土が噴き出したように、盛り上がった墓」の意味がある。人相術においても、医学的(ほとんどの医者は認めてないが)にも、ホクロは「凶」であるが、ホクロを「地表の墳墓である」とした表現は、非常に的確である。
 
遠山萬作が問う
先生の言葉に、「心中の短命は、相体の長命に勝つ。」という言葉がありますが、これはなぜでしょうか。
答える
長寿の相があるのに、心の中で短命だと思い込んでいることを、「心中の短命は、相体の長命に勝つ。」と言う。形(=相)は、心のあり方によって変化するものであり、形は心の「用(具現化したもの)」である。また、寿命は神気(≒雰囲気)の「用」である。ゆえに、その神気が弱ければ、その体も自然と弱い。よって、心の中で短命だと思ってしまうのである。よく考えなさい。
 
秋山直記が問う
人を相する事(人相術)に、体用(たいよう)はあるのでしょうか。
答える
身体における「骨格」の相は、観相の体(たい)である。また、血色・気色は観相における用(よう)である。しかし、そうは言っても、書物に載っている骨格や血色の事は、観相の体用であるべきが、死物である。深く考えなさい。
*体用…本体と作用(働き・属性)の事。たいゆう、とも読む。能楽においては、基本的な芸の事を「体」、そこから生まれる趣の事を「用」とする。『至花道(世阿弥の能楽論書)』には「能に体用のことを知るべし。体は花、用は匂いの如し。」とある。
 
また問う
人(人相)には体・用・妙の三つがある、と言う事についてはどうなのでしょうか。
答える
人(人相)は体(たい)である。人相における各部位の名称が用である。そして、それらを論じる事が妙である。よく考えなさい。
 
問う
額で、官禄に丸い肉つきがある者は、弟であったとしても親の家督(遺産)を継ぐ、と言うのは何故でしょうか。
答える
額は目上(めうえ)の官である。また、官禄は目上の俸禄(給料)にあたる。よって、その目上の俸禄に己の肉を寄せ保つ時は、親の俸禄を保つに等しい。よって、弟であっても、親の家督を継ぐ、と言う。
*原文には質問者の氏名が記されていない。
*官禄…十二宮の一つで、額中央の事。この部位は命宮(眉間)に次いで重要な部位で、当面の運勢などを観る。また、官禄という名称の通り、官庁・目上・上司などに関する事柄についても観る。
 
問う
先生は常に神意の二つを論じ、陰徳忠孝に心を集中しなさい、と説かれます。しかし、私は手燈(しゅとう)によって掌中天紋の起始あたりを、また、「指燈」によって左の小指を、焼かせていただきました。人相術においては、掌中(てのひら)の天紋を焼く事は、天父を剋する(傷つける)に等しい、と言います。また、小指を焼く事は子孫を剋すに等しく、先祖を絶やす道理である、と言います。仏道(仏教の修行)で手を傷つける事は、親孝行に反するのでしょうか。
答える
身体髪膚は父母から受けたものではあるが、私は心持が悪かったため父母に背き、ついには身体髪膚を無暗に傷つけたりした事があった。このような場合は、親孝行にはならない。だが、悲しいかな、このように承知はしていても、悪心は無くなり難い。よって、私は不動尊に祈り、色々と心魂を集中し、小指を焼いたり、手燈をした。その徳によって、悪心をほとんど遠ざける事が出来た。したがって、私が生涯、身体髪膚を無事に保つであろう事は、疑いない。小指を傷つけ、五体不具となってしまった事は親不孝ではあるが、心に欠けた所がなければ、親不孝にはならない。私には悪心があったゆえ、五体不具となった。しかし、今はその悪心を退け、寿を保ち、亡き親へ孝を立てる事が出来た。これもまた、親孝行の一つである。
*原文には質問者の氏名が記載されていない。
*質問・回答文ともに、理解しやすいよう、意訳してある。この手の難解な文章は、市販の注釈書ではしっかりと訳されていないと思われるので、十分に注意されたし。
*神意…正しい信仰心と、正しい心の持ち様の事。正しい信仰とは、まずは邪教に走らない事が第一である。また、正しい心の持ち様とは、『無量寿経』に説かれている「五悪」を犯さない(「五戒」を守る)事が第一である。
*手燈(しゅとう)…手灯とも。仏教における修行の一つ。手に脂燭(しそく)をかかげたり、手のひらに直接灯心を燈(とも)したりする。おそらく、この質問者は南北翁の影響か仏道に帰依していて、手燈の修行中に小指から小指の根元(手相でいう「感情線」の始点あたり)まで火傷したのであろう。ちなみに、小指が曲がっている、小指が他の指に比べて短かい、小指に傷がある、小指にホクロがある等は、全て子供に縁が薄い相である。しかし、手相だけでなく、全体的に子供っぽい相(「幼児体型」、「童顔」など)が強い者は、さらに子供に縁が薄い。
*脂燭(しそく)…紙燭とも。宮中などで、夜間の儀式や行幸などの折に用いた照明具の一つ。長さ40~45cm、太さ1cm前後に、丸く加工した松の先を炭火であぶって炭化させ、その上に油を塗布し、点火した。または、細く棒状に丸めた紙や布を油に浸し、点火した。
*掌中天紋…つまりは、手相でいう「感情線」の事。手相には「主要三大線」があり、指の付け根側から感情線、知能(頭脳)線、生命線と呼ばれている。南北翁は「三歳(三才)」に基づき、この「主要三大線」を上から天紋(感情線)、人紋(知能線)、地紋(生命線)と呼んだ。ちなみに、手相のみしか研究していない者は「三歳」についての観方が欠落している場合がほとんどなので、南北翁のような俯瞰的な観方が出来ないようである(なぜなら「線」の状態にばかり囚われているため)。
*指燈…原文では「指焼」と記されており、「しとう」と振り仮名がある。ここでは文脈から、手燈に対し、「指燈」とした。ちなみに、指には末梢神経が集まっており、掌よりも敏感なため、手燈よりも「指燈」の方が苦行であると思われる。この質問者は、そのことを承知した上で、あえて「指燈」を行ったのであろう。
*天父…天(神仏)、父母、目上、上司などの事。
 
問う
先生の相を観ても、一つとして良い相がありません。先生の体は大きくもなく、小さくもなく、容姿はまるで下男(げなん)のようです。顔はせせこましく、耳は小さく、眼は鋭くて落ちくぼみ、印堂(いんどう)は狭く、胞眶(ほうきょう)は常に黒いです。また、眉は薄く、家続(かぞく)は狭く、鼻は低く、顴骨(けんこつ)は高く、歯は短く小さいです。さらに、足は小さくだらりとしていて、足の甲が高いです。手は豊かに観えますが、左腕には受刀傷があります。一つとして、「先生」と認め得る相がありません。一体どこに、「先生」の相があるのでしょうか。
答える
その土地によって、金石草木が異なるに等しい。私は貧家に生まれて後、困窮するばかりで、終(つい)には善人(よきひと)と交流する事もなく、善事(よきこと)をみる事もなく、善事を聞く事もなかった。ゆえに、私は至って下相なのである。しかし、下相であるのは「水野南北という男」の事である。「形態」に囚われてはならない。元来私は混沌とした「一気のほとり」から生まれ、途方もなく大きな「世界」に生きている。よって、私は苦しむという事も知らず、楽しむという事も知らず、老いるという事も知らず、死ぬという事さえも知らない。つまり、自然と三十二相八十四合を具(そな)えているのである。相は「無相」を基本として観るものである。今後ともよく考え、学びなさい。
*原文には、質問者の氏名が記載されていない。
*下男(げなん)…召使いのように、主人の下で使われる男の事。
*印堂(いんどう)…十三部位の一つ。眉と眉の間を指す。己(自分)に関する吉凶のほとんどがここに現れるため、観相において最も重要な部位である。心臓や肺の事なども観る。
胞眶(ほうきょう)…目の周りの事。
*家続(かぞく)…十二宮の一つ。田宅とも。基本的には眉と眼の間を指すが、眼の周り全てを含める場合もある。家続・田宅という名称の通り、家や家庭、相続、家系の因縁、所有している田畑・宅地・土地、財産などについて観る。
顴骨(けんこつ)…古書によっては「かんこつ」と振り仮名があるが、ここでは『南北相法』に準拠し、「けんこつ」とした。いわゆる、「ほお骨」を指し、世間の事、身の周りの人間関係、知人、仲間、競争相手、積極性の有無、攻撃性(感情の起伏)などについて観る。女性は顴骨は出ていない方がよく、男性は顴骨がある程度出ていた方が良い。また、顴骨は前に出っ張っているほど、アグレッシブで、女性においてはヒステリーの相。顴骨が適度に耳の前あたりまで盛り上がっているのは、何かしらの師匠になる相である。
*本来空(ほんらいくう)…仏教用語で、本来存在する全ての事物は、実体としての固定的本質は持たないものである、という考え方。つまり、万象に実体は無く、全てが「空(くう)」である、という事。
*諸法空相(しょほうくうそう)…『般若心経』にある言葉。前述した「本来空」とほぼ同義で、全てのものは「空(くう)」であるという教え。本文後半の抽象的な表現は、この「諸法空相」、「本来空」によるものであると思われる。この文章からも、南北翁が海常導師(真言密教の僧侶と思われる人物)の影響を強く受けている事がわかる。
*三十二相…仏陀(悟りを得た者)が具えるとされる、三十二の優れた相(身体的特徴)の事。足安平(≒偏平足)、足千輻輪、手指繊長、手足柔軟、手足縵網、足跟満足、足趺高好、腨如鹿王、手過膝(玄徳が有名)、馬隠蔵、身縦広、毛孔生青色、身毛上靡、身金色、身光面各一丈、皮膚細滑、七処平満、両腋満、身如獅子、身端直、肩円満、四十歯、歯白斉密、四牙白浄、頬車如獅子、咽中津液得上味、広長舌、梵音深遠、眼色如金精、眼睫如牛王、眉間白毫、頂成肉髻頂髻相:頭頂が凸っとしている相。仏像で言うと「如来(真如から来る者)」が該当する。ちなみに孔子は「あなのこ」という名前の通り、頭頂が凹んでいたと言われている。よって、頭頂が凹んでいる相も吉相である。)。
*八十四合…八十種好(はちじゅっしゅごう)の事だと思われる。八十随形とも言う。仏陀の身に備わるとされる八十種の荘厳な特徴の事。八十四合の読みは「はちじゅっしごう」であり、八十種合の読み、「はちじゅっしゅごう」とほとんど変わらないため、南北翁の口述を誤って聞き取り、記述していたのではないかと推察される。『南北相法』の編集方法は不明であるが、このようないわば「聞き取りミス」と思われる個所が、他にもいくつか散見されるので、特に質疑応答の部分については、南北翁が語った内容がそのまま書き残されている可能性が極めて高いと思われる。「聞き取りミス」?と思われる該当個所で特に多いのが、「心気(しんき)」と「神気(しんき)」の使い分けで、明確な使い分けがなされていないため、混乱しやすい。
 
また答える
観相というものは、漠然と「観る」ものではない。最も重要なことは、月(隠れている部分)を明らかにすることである。またこれが、「無相」を観る、ということである。ゆえに、私に「師」は存在しない。観相する時はその「骨格」ではなく、法界(=真理、心裏)の音声によって、その人の天(=運命)を観抜くのである。
*骨格…人相術における「骨格」とは、簡単に言えば眼、鼻、耳、口などの「形」の事。ちなみに、手相において重要な事も、手の「形」や掌の「線」の状態などではなく、手の放つ神気(雰囲気)や、掌に現れる気色、血色などである。よって、人相術(手相は人相の一部)においても、手相術においても、「骨格(=形、掌線)」のみに囚われていると、真の相を観抜く事は不可能である。
*月…原文には「明月」とある。月は陰であり、日(太陽)は陽である。つまり、観相における陰とは神気や血色、気色、画相(=一般的には観えない相)であり、陽とは骨格(=誰が観ても明らかな相)である。先にも述べたように、観相においては、「骨格」に囚われてしまうと、隠れている真の相を観逃してしまう。よって、ここでは、「月(陰に隠れた相、無相)を明らかにする」事の重要性を説いているのである。
 
今、ここに記した相法問答は、修行が足らないうちは読まず、本文を要(かなめ)として用いなさい。相法問答においては、主として意心の二つについて論じている。よって、十のうち二つか三つは理解し難い部分があるかもしれない。また、私が未熟な状態で編集したため、趣旨が難解になっている部分もあるやもしれぬ。世の中には、明哲の相者もいるであろう。わからない事があれば彼らに従い、教えを請いなさい。願わくば、「意」と「心」の違いが理解できるまで、研鑽を積んでもらいたい。まず、相法の第一は、意心の二つに集中することである。
 

南北相法巻ノ五 終
 
-東京つばめ鍼灸-
Copyright © 2015 Tokyo Tsubame Shinkyu. All rights reserved.