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  • 我的北京日记(漫游随想录)2017秋


 
2017年10月某日、夕暮れの交通口北三条にて。
 

「2017秋、北京で師匠と再会する」の巻

 
 
今回は北京のベストシーズンである10月、こびとと北京入りした。10月17日からは、5年ごとに開催される党大会のため、北京市内は厳戒態勢になるであろうと見込んでいたため、17日に帰国するというスケジュールを組むことにした。ちょうど、JTBのウェブサイトで14日発、3泊4日のフリーツアーがあったので、それで行くことにした。

 
昨年あたりから、羽田発のフリーツアーが出てくるようになり、オフシーズンであれば北京には比較的良い条件で安く行けるようになった。今のところ、最もお得なフリーツアーは「往路午前羽田発、復路午後北京発」で、機材はJALの中型機であればラッキーなパターンだ。北京行きのフリーツアーで組まれるホテルは数種あるが、东直门で針を仕入れるのが目的ならば、店員が比較的外国人慣れしていて、フレンドリーで英語も通じる「北京旅居华侨饭店泊確定」なツアーが最もお勧めである。北京旅居华侨饭店北新桥三条胡同内に位置し、すごく綺麗なホテルではないけれど、朝食もまぁまぁ美味しいし、东直门駅、雍和宫駅、北新桥駅の3駅が利用できる約1キロ圏内にあり、それぞれの駅から徒歩10分くらいだ。地下鉄2号線、5号線、空港線に直接アクセスでき、大型書店のある王府井や西单にも行きやすい。
 
中国では未だに外国人旅行客が泊まれぬ宿泊施設が少なくないから、ホテルはフリーツアーでセットになった外国人向けのホテルを確保しておくのが無難だ。その上で、泊まりたいホテルなどがあれば、事前にC-tripなどで好きなホテルを予約して、現地入りするのがよろしい。冬場の北京は氷点下20度を下回ることが稀にあり、北京入りしてから泊まる場所が確保できないと、凍死する可能性もある。実際に、一昔前の北京では、厳冬の朝は凍死者がそこらじゅうに転がっていたらしいが、現在でも油断は出来ぬ。

 

出国前日(金曜日)

 


出国日前日は、蒲田にホテルを取って泊まることにした。午前9時発の飛行機に乗る場合は、蒲田に泊まって6時くらいには空港入りしておくのが無難だ。何せ東京では毎日のように電車の遅延があるから、念には念を入れて早めに行動しておかねばならない。

京急蒲田に泊まるか、JR蒲田に泊まるか迷ったが、JR蒲田で泊まったことがなかったので、今回はJRにしてみた。結果としては失敗だった。
 
京急蒲田駅は駅前に飲食店が少なく不便ではあるが、羽田空港までは電車で1本だ。ゆえに、大きなスーツケースを抱えていても、早朝であれば比較的空いていて、空港へアクセスしやすい。
 
一方、JR蒲田駅は駅前に飲食店が多く滞在時は非常に便利だけれども、早朝時の空港行きのバスはリムジンバスではなく通常の路線バスで本数も限られているから、乗客が沢山いた場合、あぶれる可能性が高い。しかも車内は狭いから、スーツケースを持ち込む乗客が多いと、定員オーバーで途端に乗れなくなることがある。シャトルバスとは言え、所詮は路線バスであるから、荷物はすべて狭い車内に持ち込まねばならぬし、運賃が格安であること以外、メリットがない。
 
JR蒲田駅周辺にはホテルが多く、羽田空港へ行く乗客が沢山いるのだから早急にリムジンバスを整備すべきと思うが、どうもそのような動きがみられないから、今後は京急蒲田に泊まろうと心に決めた。ちなみに、混雑時はバス停の屋根からはみ出した場所で並ばねばならぬから、豪雨の時などは持ち物が全て濡れる可能性がある。また、タクシーは確実に乗れるとは限らないから、京急蒲田のホームで濡れずに電車を待っている方がメリットが多いかもしれない。
 
 

出国日当日(土曜日)

 出国日当日は4時50分に起床し、5時10分発のバスに乗る予定だった。外は小雨が降っており、バス停には5分前に着いたものの、すでに10人くらい並んでいた。幸いにも、平日ゆえかサラリーマンらしき人がほとんどで、スーツケースを抱える乗客が少なかったから、狭い車内でも何とか乗り込むことができた。羽田空港は早朝ゆえかガラガラで、チェックインもスムーズに終わった。
 

羽田空港はかなり綺麗になった。しかし、どうも飲食店にいる店員は愛想のない輩が多く、白人が戸惑っている光景をよく見かけた。ここ1年くらいで、日本のコンビニでは驚くほど外国人の店員が増えたが、むしろ飽食な日本人よりも、ハングリーな外国人の方が、接客態度に非の打ちどころがなかったりするケースが多い。ある学者によれば、純日本人は将来少数民族になる可能性が高いらしいが、確かにこのままでは、平和ボケしている日本人は外国人や似非日本人、AIらに職を奪われ、路頭に迷うことになるかもしれない。

2階は人が多くて喧しかったので、1階に降りてしばし待つことにした。北京には必ずカリマーのバックパックを背負って行くのだが、今回は新たに新調したバックパックだったから楽だった。カリマーは他のメーカーよりも安価だが耐久性、機能性に優れており、自分の体に合っていている感じがして、愛用している。しかしながら、15年ほど前に購入したridge30はボトルを入れるサイドポケットの作りが杜撰で、構造上、しばらく使っているとゴムが伸びてボトルが落下するような仕様になっていたから困っていた。新製品はその部分が改良されており、今のところ特に大きな不満は見当たらないから気に入っている。機内持ち込み可能なサイズだと、ridge30が限界だ。新作のridge30はベルト部分のポケットの容量が増えた上に、ベルクロからジッパーになって非常に便利になった。バックパック底面にはレインカバーが入っているから、雨天も安心だ。北京では滅多に雨は降らないけれど、出国時や帰国時に日本で雨になることがよくあるからレインカバーはあった方が良い。
 
しばらくすると、今回の機材が到着した。どうやらまたボーイング788のようだった。ここ最近はずっとこの中型機でラッキーだな、と思った。外はすでに雨が止み、午後には晴れそうな空模様だった。

乗客が少なかったためか、チェックイン時にカウンターの係員が、我々の座席をプレミアムエコノミーにグレードアップしてくれていた。しかし実際に座ってみると、構造上、モニターが座席よりも数センチほど右にずれていて、快適では無かった。確かに座席間隔は広いから座るだけなら楽だったけれども、私のような経絡敏感人にとっては、モニターと座席の僅かな誤差が気になってどうしようもなかった。こびとが座る窓側の席は、比較的誤差が少ない様子だった。そういえば、毎回飛行機に乗って思うのだが、車内アナウンスに切り替わる時、イヤホンを通して聞こえる「ジッ」という機械音はどうにかならぬのだろうか。私のような聴覚敏感人にとっては、不快極まりない。とりあえず、オデッセイというアメリカ映画を観ることにした。なぜか日本語字幕が無かったが、内容は理解出来た。しかし、残念ながら駄作だった。

北京には、いつも通りほぼ定時で到着した。別棟をつなぐモノレール乗り場の看板が新調されていたが、やはり日本語がおかしかった。こういう場所くらい、日本語を使うのならちゃんと日本語ができる日本人に添削してもらうべきだと思うが、やはり中国人はツメが甘い。ちなみに、日本の交通機関でも最近は中国語の看板や広告をよく見かけるが、大半は誤字・誤用が多い。基本的に中国語に翻訳するなら簡体字を使うべきだが、部分的に繁体字になっていたりとか、日本人がやりがちな全くありえない言い回しの中国語が使われたりしていることがある。
 


土曜日ゆえか、北京空港内はかなり混んでいたが、入国手続きは30分もかからなかった。中国人は日本人と比べて合理的だし、面倒なことをいかに手早く済ませるかということに執心する傾向にあるから、出入国で行列ができていても、係員がバンバン人を仕分けるから、案外早く通過できることが多い。空港線乗り場も少し混んでいたが、すぐにチャージできた。日本のように機械でチャージできるようにすれば便利だと思うが、まだ窓口でチャージするしかない。とりあえず200元チャージした。
 

东直门駅前にあったレンタルバイクは無くなったのかと思ったが、駅からすぐ近くの高架下に、新しいバイク置き場ができていた。おそらく、市内に散らばっているバイクを定位置に戻す業者のオペレーション上の都合で、三輪車が入りやすい場所に変更されたのであろうな、と思った。
 
 

4月に来た時には工事中だった东直门内大街の歩道は、完成して綺麗になっていた。このあたりの歩道は広くて、とても歩きやすい。東京も人口が減って道が広くなれば、ストレスも事故も激減すると思うが、まず無理な話だろう。散歩という点に関して言えば、東京よりも北京市内を歩いている方が楽だ。
 

とりあえず、いつも通りホテルへ行く前にセブンイレブンに寄っておくことにした。以前、試しに買ったスマホ用充電ケーブルがあまりにも使い勝手が良かったので、スペアを買っておくことにした。長さが1mしかないのが不満なくらいで、アマゾンですぐに壊れる怪しい類似品を買うなら、39元(約660円)でこれを買った方が良いかもしれない。ついでにアップル純正品をパクッたようなイヤホンが売っていたので試しに買ってみたが、音が酷すぎてすぐに捨ててしまった。カナル型は違和感が強く好きではないから、アイフォン純正イヤホンを好んで使っているけれど、今のところこれに勝るイヤホンを知らない。
 
市販で似たようなタイプが売られていて色々試したが、僅かにサイズが大きすぎたり、音質が悪かったりして、結局無駄金に終わった。ちなみに、未だヤフオクやアマゾンで純正品を謳う類似品が多数出品されているが、大半はパチモンであるから、アップルストアで買うのが安全だ。アマゾンなどでは本物の写真を使っていたり、ショップ名がそれらしい名称になっていたりするから、注意が必要だ。大体発送に2週間以上かかる場合は、中国からEMSで送られてくる可能性が高い。最近はアマゾンが直接返品を受け付けないという悪質なやり方が増えているから、なるべくアマゾンは使わないようにしている。店内には東京で流行っていた、マイナス4℃コカコーラの販売機が設置されていた。
 

东直门内大街をしばらく歩くと、雍和宫大街との交差点に至る。ホテルはこの交差点を右折してすぐの場所にある。中国では電動バイクの規制がゆるいから、傘を差しながらバイクを運転しているジジイを見かけることなど珍しくない。もちろんほとんどはノーヘルであるが、中にはヘルメットを被っている人もいる。中国の南方にある某都市では、電動バイクで走行中の女性が見知らぬ男に蹴りを入れられ、転倒して頭蓋骨を骨折するなど重傷を負った事件があったが、この事件以来、この街の人々は乗車時にヘルメットを被るようになったそうだ。北京は比較的治安が良いからか、ヘルメットの装着率は極めて低い。 
 

とりあえずホテルにチェックインし、いつもの針灸用具店へ行くことにした。この針屋は中国中医科学院針灸医院のすぐ横にある。中国中医科学院針灸医院は外国人VIPやら外国人見学者を積極的に受け入れているそうで、実際に外国人が入口付近でたむろしているのをよく見かける。
 

針灸用具店で定做な針を2万本ほど注文し、「あとで日本から送金する」と言って、用件が済んだ。店員には日本で買った高級菓子を渡しておいた。中国では、人から何かもらう時は断りつつ受け取るのが礼儀だと聞いたことがあるが、確かにここの店員はいつも「要らない要らない」と言いつつ、嬉しそうに受け取るのが常だ。外に出ると、いつの間にかいなくなっていた店員の男が、セグウェイに乗って公衆便所へ行くのが見えた。どうやら中国では公道でセグウェイを走らせても問題ないらしい。ちなみに、セグウェイは中国語で电动平衡车と言う。
 
そういえば以前、某地方都市の幹線道路で、愛馬に跨っていたジジイが落馬し、馬が暴走して車と衝突する事故があった。その馬の飼い主であるジジイは、「马路(馬路)を馬が走って何が悪いんじゃ!」などと叫んだらしい。確かに中国では、未だ幹線道路のことを马路と呼ぶことがある。それに比べればセグウェイなんて可愛いものだ。

店員は私が写真を撮っているのを見ると近寄って来て、「乗ってみなよ」と言った。ハンドルが無い台座だけのタイプで、重心を前に移動させると前進するらしかった。1日あたり2元でレンタルしているらしい。道の広い中国では確かに便利な乗り物だな、と思った。

雨が降ってきそうだったので、一端ホテルへ戻り、折り畳み傘を取りに行くことにした。ホテルを出たあとは、北京中医薬大学の中医薬博物館へ行く予定だった。しかし、閉館時間が16:30で間に合いそうもなかったので止めにして、东直门内大街にある中国工商銀行で外貨両替することにした。

ここの中国工商銀行は、乾元酒店というホテルの敷地内にあるのだが、行員がみな親切で、比較的待ち時間も少ない。両替が終わったあと、ついでに口座開設できるかどうか聞いてみると、旅行者でも可能だとのことで、所定の用紙に必要事項を記入して、整理券の番号が呼ばれるまで待つことにした。いつもは空いているのだが、この日は客が多く、皆待たされているようで、目の前に座っているBBAが今にも暴発しそうな雰囲気を醸し出していた。BBAはずっと行員のいる窓口を睨んでいた。
 


 行員が事務処理をしている間、斜め向かいに座っていたBBAが、奇妙なスニーカーを履いていることに気が付いた。ニューバランスのスニーカーかと思ったら、Nを反転させたロゴになっていた。全くややこしい靴だな、これはニューバランスと間違えさせて買わせる作戦なのだろうな、と思った。
 
結局、口座開設は15分くらいで終わった。試しに、行内に設置されていたATMで入出金してみたが、問題なく使うことができた。上海に出向していた友人S氏に聞いていたとおり、北京の中国工商銀行も口座開設は容易かった。しかし、2年前くらいから、6か月間口座内で動きがないと一時的に口座が凍結されたり、旅行者は口座開設しにくくなっているらしい。

銀行から外に出ると、ちょうどポツリポツリと雨が降りはじめた。傘を持ってきて正解だった。この日は王府井のapmというショッピングモールにある小大董という新規店で北京ダッグを食べることになっていたから、早速王府井へ行くことにした。北京市内にある大董という店がこの店の本店で、斬新な北京ダッグを出すかなりの人気店だということで、一度行ってみたいと思っていた。その前に王府井書店へ寄っておくことにした。 

 
王府井書店の前には、補助棒がついた中国特有の三輪車に乗った子供がいた。中国では未だに乳幼児の誘拐事件が頻繁に起こっているせいか、子供にペット用のリードを改良したような紐を付けて歩かせる光景が珍しくない。王府井書店のすぐ横にある交差点の信号機は、1本の支柱で四方の信号機をぶら下げていた。これはなかなか合理的な作りだった。
 
王府井書店の近くには、新たに巨大な商業施設がオープンする様子だった。新宿三丁目の伊勢丹の数倍の大きさはありそうだった。この通りを真っ直ぐ行くと、右手に小大董が入店しているapmが見えてくる。
 
小大董の前の椅子はほぼ埋まっていたが、半数以上は単に休憩しているだけのようだった。店舗は小ぶりだったが、内装は洒落ていた。テーブルや椅子、照明のセンスなどは中々良さそうだった。店内は小卓と呼ばれる2人がけのテーブルがほとんどで、この商業施設自体が若者向けであるから、きっと若いカップルをターゲットにした作りにしているのだろうな、と思った。
 
店頭の店員に「两位」と伝えると、整理券を渡された。どうやら4人待ちのようだった。超人気店になると土日は100人待ちなんて場合があるから、まぁツイているのかもしれないと思った。次々に現れる客を眺めていると、店頭に店員がいない時は、勝手に機械を操作して整理券を出しても問題ないらしかった。暇つぶしに、店頭に飾られていた写真を眺めることにした。ハリウッドで有名なスティーブン・ス〇ルバーグ監督やら、某国の大臣などが訪れたらしい。しかし、これはカッペを騙すための陰謀かもしれぬから、安心できぬな、と思った。
 
15分ほど待つと、店内に通された。メニューは最近流行りのタイプで、プロのカメラマンが撮ったような、食欲をそそる美しい写真集のようだった。日本の飲食店もこんな風にメニューを作りゃあ客単価も上がるんじゃなかろうかと思うが、こういう点は中国の方が遥かに先を行っている。どれも非常に美味そうな料理で、実際にはクソ不味い品が運ばれてくる、というのは中国ではよくあることだ。
 
隣の席には30代と思しき女が独りで座っており、北京ダックなどを寂しそうに食していた。最近は中国でも独身の若者が増えていると聞いたが、確かに北京の飲食店でも若いお独り様をよく見かけるようになった。 
 
とりあえず定番の北京ダッグと、他は適当に注文することにした。最初にレモン入りのぬるい水と、北京ダッグの付け合せが運ばれてきた。奥のテーブル席には、疲れた顔で片付けをするオバハン店員がいた。オバハンはアルコールが入ったらしきボトルを左手に持ち、それをテーブルに吹き付けたあと、異なる布で2度拭きしていた。最近はこういう感じで片付ける店が増えていて、日本よりも衛生管理を徹底しているような店が案外多い。確かに、日本で報道されているような危険な店も存在するが、日本のマスメディアは偏向報道が酷いゆえに中国の飲食店はヤバい店がほとんどだと信じ込んでいる日本人が多いけれど、実情はかなり異なっている。特に日本のメディアは某国寄りで都合の良いようにしか報道しないから、実際に現地へ行って自分の目で確かめないと真実はわからないだろうと思う。
 
北京ダッグを待っている間に前菜らしき小鉢が運ばれてきたが、これは美味くなかった。冷蔵庫に作り置きしていたような冷たい常備菜みたいなもんで、食えたものではなかった。 白身魚を揚げた料理はまるで油の塊のようで、マヨネーズらしきつけ汁も不味くて完食できなかった。 スープもダメだった。小龍包は冷凍なのか美味くなかった。 こりゃ北京ダッグも期待できぬな、と思っていたが、その通りだった。もしかしたら本店の料理は美味いのかもしれないが、とにかくここで2度目はないだろうな、と思った。やはり鳥は鶏が一番臭みがなくて美味い。アヒルは皮にも独特の臭みがあり、高い金を払ってまで食うものではないなと感じた。最後は何故か、デザートに綿あめが運ばれてきた。手早く綿あめを食べて会計を済まし、店を出た。
 
小大董の隣のエリアは盛況だった。吉野家をパクッたような若者向けのしゃぶしゃぶ屋と、老舗のしゃぶしゃぶ屋である东来顺はどちらも混んでいた。 东来顺の向かいにはとんかつを売りにする日本料理屋が新規オープンしていた。「ようこそブンブンへいらっしゃいました。貴重品はご自身で保管してください」という謎の日本語アナウンスが、数分おきに流されていた。店頭にいた店員は熱心に客引きをしていた。このショッピングモールの飲食店街には日系の飯屋が1割くらい入店しているが、どの店も比較的客入りは良いようだった。 
 
夕食を終えたあとは、什刹海皮影文化主题酒店という、皮影戏(影絵劇)を売りにしたホテルに行かねばならなかった。以前、CCTVの「外国人在中国」という、中国が好きで中国に居ついた中国在住の外国人にスポットを当てた番組で、このホテルが出ていたのを観て、一度泊まってみたいと思っていた。このホテルでは週3回ほど、朝晩2回、宿泊者向けに伝統的な皮影戏を上演している。宿泊者は無料、宿泊していない者でも100元払うと観ることができるようになっている。
 
今回はこのホテルで皮影戏を観るためにスケジュールを調整してツアーを組んだもんだから、何としても20時の上映開始時間までにホテルへ辿り着かねばならなかった。ホテルの店員が、事前にメールでホテルまでの経路を書いた画像を送っておいてくれたのだが、画像の解像度が低すぎな上に路地が省略されすぎていて、もはや地図の役割を成していなかった。事前に日本でGoogle Mapの経路をプリントアウトしておいたが、グーグルの示す中国地図は信頼できぬし、現地では何故かVPN接続ができなかったから、街の随所にある看板を頼りにホテルを目指すしかなかった。
 
ホテルの最寄駅は地下鉄6号線の北海北駅だ。駅には19:30頃に着いたが、構内にあった地図は路地が省略されていたうえに、A出口の表示がなく、右左どちらへ行けば良いかわからなかった。仕方がないので、大通りを右に見てしばし歩くことにした。途中、歩道に警察官が立っていたので、地図を見せ、「このホテルへ行きたいが、この道を真っ直ぐ行けばいいのか」と聞くと、警察官になったばかりらしき若い男は「そうだ、真っ直ぐだ」と答えた。
 
しかし、男に告げられたとおり歩くと、しばらくして真逆に向かっていることに気が付いた。故意でなくても、中国人が違う道を教えることはよくあることだ、と思いながら再び駅まで戻ることにした。駅を過ぎると歩道が狭くなったが、レズビアンらしき女がイチャついていた。
 
駅から200mくらい歩くと、平安大街と德胜门大街の交差点にさしかかり、周辺図を掲げた看板が見えた。看板と、ホテルから送られた地図の画像を照らし合わせると、おおよその位置がつかめた。どうやら、右折して旌勇里(jingyongli)胡同をひたすら直進すれば、ホテルが左に見えるはずだった。ちなみに、中国語では路地のことを一般的に小巷子とか小巷道とか言うが、北方では胡同、南方では弄堂と言うことが多いようだ。
 
警察官に誤った道を教わったせいで、すでに20時を過ぎていた。しかし、道を間違えずに行けば、途中からでも皮影戏を観ることができるかもしれぬと思い、先を急いだ。ネット上の口コミのとおり、この辺りの路地はかなり暗かった。真っ暗というほど暗くはなかったが、薄暗い街灯がわずかに点在しているだけだった。とは言っても、暗い路地を和気藹々と楽しげに散歩している家族がチラホラいたりして、そんなに危ない雰囲気はあまり強くなかった。出稼ぎ労働者が集まる北京市南部は、比較的治安が悪いと言われているが、特に中心部は警察がそこらじゅうに配備されているせいか、日本よりも治安が良いように感じる。
 
 
何とかホテルに辿りついたものの、すでに20:30を過ぎていた。こりゃ皮影戏は終わってるな、と思いながら、ホテルの外観の写真を撮ることにした。確かにネットの口コミのとおり、かなりわかりにくい場所にあるホテルだった。ホテルの手前には小さなスーパーマーケットと、銭湯らしき建物があった。どうやらホテルの周囲にはそれ以外の商店は無い様子だった。
 
江戸城の門を家庭用にあつらえたような小さな門を開け、狭い階段を下りると、すぐ右手にロビーがあった。数人の白人観光客がロビーでお茶を飲みながらくつろいだり、皮影戏で使う道具の色付け作業を楽しんでいた。舞台の横では皮影職人が片付けをしていて、ちょうど数分前に終演した、というような雰囲気であった。こびとと肩を落としながらフロントへ行くと、眼鏡をかけた主任らしき小太りの男と、东北人風の大柄な女が立っていた。欧米人向けのホテルらしく、押金(デポジット)はクレジットカードで払ってくれと言うので、女にカードを渡した。女が処理をしている間に、私が「駅からここまでの経路がわかりにくくて道に迷った」と皮肉めいて言うと、女はいつものことだと言うような具合に、慣れた手つきで特製の地図を差し出した。  
 
什刹海を中心に描いた、このホテルお手製の地図らしく、ホテルまでの経路が詳しく記されていた。地図の裏面には北京の主要な観光スポットと、それらにかかるおおよその費用、地下鉄の路線図が英語と中国語で記されていた。小規模なホテルではあったが、色々と創意工夫してサービスに努めている様子であった。
 

割り当てられた部屋は2階だった。ドアを開けるとロビーが真下に見える部屋で、ウェブサイトで見た写真よりもかなりチープな作りだった。廊下には皮影戏で使われる道具が額に入れられ、飾ってあった。
 
ロビーには小さなテーブルが10個ほど置いてあり、白人のカップルが2組、白人家族が1組いた。白人のカップルは皮影の色付けを楽しんでおり、小太りの主任男に「あなた達もやる?」と聞かれた。しかし、あまり面白くなさそうだったので断った。ロビー中央のテーブル席に座ると、主任男が「何か飲む?」と言って、B5の紙をパウチしただけの小さなメニューを差し出した。とりあえず、バナナミルクジュースとやらを2つ注文した。

しばらくすると、主任男が得意げな顔で、透明のグラスに入ったバナナミルクジュースを運んできた。驚いたことに、グラスには氷が1つも入っておらず、甘みのない、生ぬるいバナナミルクだった。何が悪いのかわからなかったが、今まで飲んだバナナミルクで一番の不味さだった。

隣のテーブルに座っていた白人家族を見やると、おぼつかぬ箸さばきで、不味そうな中華料理を食べていた。実際に不味いのか、白人家族は終始不機嫌で、まるで通夜振る舞いの時間を過ごしているように見えた。フロント奥にある厨房では料理を作っている気配がなかったから、おそらくレンジを駆使した料理なのであろうな、と想像した。
 
斜め向かいに座っていた白人カップルは既に酔いがまわっているのか、白人家族とは対照的に楽しげで、グラスに注がれた赤ワインを傾けてイチャついていた。我々は皮影が飾られたディスプレイを一通り眺めたあと、部屋へ戻ることにした。どうやら皮影はロバの皮で作られているらしく、ディスプレイの中には乾燥させた皮が丸めて置かれていた。フロントの横には、明日の朝食で使う食器などが準備されていた。

このホテルは旅館の形態に近く、ロビーはまるで他人の家のリビングのようで、落ち着かなかった。部屋へ戻る前に、主任男に聞いておきたいことが1つあった。このホテルは中国で規制されているはずのフェイスブックを用いて、頻繁にホテル内でのイベントを更新していた。だから、きっとホテル内のワイファイはVPNを介してフェイスブックを観ることができるのだろうなと思い、主任男に「このホテルではフェイスブックをみることができるのか?」と聞いた。すると、主任男は引きつった顔で「ここではFacebookもGoogleも使えないヨ」と言った。おそらく、この男は当局へのタレこみを恐れ、嘘をついている様子だった。 

部屋はかなり寒かった。暖房がちゃんと効いてないのと、部屋の断熱効果が悪いのが原因らしかった。これまで北京市内で泊まったホテルでは最も寒いな、と思いつつ、薄い布団にくるまって目を閉じた。
 
 

2日目(日曜日)

昨日は夜中まで、別の部屋の外国人が騒いでいて中々寝付けなかったが、いつの間にか寝ていたようだった。中国人は小汚い部屋でも、客を集めるために美しく撮影することに長けているから、これまで何度もされた。とにかく胡同の粗末な家で過ごしているような気分で、睡眠の質も浅く、目覚めがよろしくなかった。
 
部屋から出てロビーを見ると、すでに朝食にありついている白人がいた。昨晩チェックインした時にはわからなかったが、天井から朝日が差し込むような作りになっていた。
 

 

朝食はビュッフェ形式だったが、これまで泊まったホテルで最も質素だった。手早く食事を済ませ、部屋へ戻ってチェックアウトすることにした。ロビーの座席は限りがあり、朝食時は長居できるような雰囲気ではなかった。
 
 
ウェブ上で見た時は、かなり洒落たホテルだと思った。まぁ確かに実際見回しても、センスの良さはそれなりに感じられた。建築や内装を学んでいる人にとっては、得られるものがあるかもしれない。しかし、それぞれのパーツは良くても、最も重要な居住性に関してはかなりスポイルされているようで、残念だった。
 
最寄駅からホテルまでは、歩いて15分はかかるし、近くにバス停もなければタクシーも拾えぬから、ロケーションという点に関しては決して便利とは言えないホテルだ。僻地にあるのだから、最低限の居住性を備えたシェルターであれば、静かで、満足できたかもしれない。何より、今回は最も楽しみにしていた皮影戏を見逃したことが、満足度を下げる大きな要因となった。主任男は今日の午前10時から皮影戏をやるから観ないかと言ってくれたが、午前中は颐和园へ行く予定だったから、8時くらいにはチェックアウトしなくてはならなかった。
 
外に出ると、党大会を控えているせいか、入口に真紅の国旗が掲げられていた。やはりこのホテルは当局が禁止しているフェイスブックを、秘密裏に用いているから、国旗を掲げることで当局の目から逃れようと画策しているのであろうな、と思った。こびとがホテルの前で写真を撮ってくれと言うので、真紅の国旗とタクシーが入る構図でシャッターを押した。2年ほど前、北京で良い写真を撮るためにキャノンのEOS Kissを購入したのだが、世界最小最軽量を謳う一眼レフであっても、スマホのコンパクトさには敵わず、使わなくなってしまった。やはりカメラを持ち歩くなら、小さくて写りの良いiPhoneが最高だ。
 
ホテルの隣には小さなスーパーと、「浴」と書かれた店があった。昨晩見た時は暗くてわからなかったが、「浴」の店は2階にあるようだった。「浴」というのはいわば銭湯みたいな場所のことで、中国語では「洗浴(xiyu)する場所」の意味で、「浴池(yuchi)」と言う。最近は日本のスーパー銭湯のように豪華な休憩所を備えた浴池もあるらしいが、裏メニューで怪しいマッサージをする小姐がいることもあるらしいから危険だ。中国でも売春は違法で、CCTVの今日说法という番組では、警察官が現場に突入して「别动,别动!」などと叫びつつ、老板小姐らを拘束する場面が頻繁に放送されている。基本的にどんな犯罪も日本より遥かに量刑が重いから、危なそうな場所には近寄らぬのが賢明だ。
 
銭湯の入っているビルの1階は小さな超市(スーパーマーケット)だった。海南島のバナナが500g1.99元(約34円)、パイナップルは1個10元(約170円)だった。
 
 
三輪車に乗って、什刹海方面へ急いでいるオッサンがいた。どうやらこのあたりの胡同に住み、三輪車で通勤しているようだった。数年前に什刹海へ行った時、三輪車のジジイにボったくられたことがあるから、彼らには全く良いイメージがない。日本のアホなガイドブックには「什刹海へ行ったら三輪車に乗って観光することをおススメする」なんて偉そうに書かれているが、私はお勧めしない。
 
最近は胡同のような路地にも、至る所に監視カメラが設置されている。特に北京では、官公庁エリア、観光エリア、学区域などに優先してカメラが設置されているようだ。最近は日本も外国人が増えて物騒になっているから、公道の監視カメラを増やした方が良いのかもしれない。しかし、最近流行りのネットワーク環境を利用した、ワイヤレスの監視カメラは容易にハッキングされる危険性があるから、有線でつないだ方が安全だろうと思う。
 
 このあたりの胡同は北京市内でもかなり綺麗な部類だった。基本的に胡同は下水やゴミの臭いが強く、道路も舗装されておらず、歩くと靴底が砂まみれになることが多い。 北京市内は、“城市的美容师”と呼ばれる清洁工人(清掃員)がほぼ24時間体制で、市内をくまなく清掃している。特に外国人が多く訪れるエリアなどは、他のエリアよりもゴミが少なく、整然としている。
 
最近は、携帯電話が普及したせいで公衆電話を使う人はほとんどいないようだが、それでも北京市内では所々に黄色い電話が残っていた。
 
まだ9時前だったが、恭王府の前にはかなりの行列ができていた。恭王府は清朝最大の王府で、和珅という商人や、乾隆帝の息子である爱新觉罗·永璘の邸宅として使われていたそうだ。王府というのは、王族が住む敷地のことで、恭王府は6万㎡もあるらしいから、東京ドームより一回り大きい感じだ。ちなみに、北京を代表するショッピングエリアで有名な王府井は、その名の通り、王族が使用していた井戸があった場所だ。

 

恭王府の前を通り過ぎると、次第に土産物店や商店が増えてくる。大きな柳の木が見えてくると、だいたい湖が近い証拠だ。もう少し向こう側へ歩けば、左に后海、右に前海が見えてくる。このあたりは観光客が多く、三輪車、タクシーの営業が喧しかった。 商店を構えている人もいれば、こんなもん誰が買うんだろうと思しきハンドメイド品を売っている人もいた。 

 


しばらく歩くと、高校生らしき集団が集まっていた。数人の女子が何故か壁を背にスマホで自撮りしていた。左の街路樹の枝には、果樹のように丸い監視カメラがぶら下げられていた。
 

騒がしい高校生の向こう側に、何かを手売りしているオッサンが見えた。近づいてみると、オッサンは鮮やかなブルーのジャンバーを(まと)い、肩から沢山のひょうたんをぶら下げていた。私は、心の中で密かにオッサンを「ブル夫(ぶるお)」と命名することにした。
 
ブル夫の横には、白い文字で「陈赫」と刺繍された謎の黒いキャップを被った、黒ずくめのオッサンがいて、何やら会話していた。このオッサンは「ヘイラオトウ(黒老头)」と名付けることにした。老头というのはいわばスラングで、日本語で言えば「ジジイ」の意味だから、ここでは「クロジジイ」という意味になる。本来、見知らぬオッサンには老先生という呼称を用いるのが適当であるから、実際に「嘿,老头!(おい、ジジイ!)」などと叫んだら、菜刀(中華包丁)片手に追いかけられる可能性があるから、あくまで心のなかで叫ぶことをお勧めしておく。ちなみに、老头儿とか老头子もジジイの意味だ。
 

ブル夫は中々のキャラクターの持ち主であろうと察したが、ヘイラオトウもさぞや、と思わせる雰囲気を漂わせていた。私はヘイラオトウの被るキャップの刺繍の意味が気になって仕様がなかった。「陈赫」がアイドルの名前なのか、ヘイラオトウの本名なのかはわからなかった。ヘイラオトウはひょうたんを1つ購入した。ひょうたんは加工してあり、雲南民族楽器である葫芦丝(hulusi)のようだった。ヘイラオトウは買ったばかりの葫芦丝に夢中で、早く音を出してみたい、という具合で、葫芦丝を見つめたまま前も見ずに、別の胡同へ向かってフラフラと歩き出した。
 
すると、我々に気が付いたブル夫が近寄ってきて、中国語で「あんたら何人(なにじん)だ」と聞いてきた。我々が「日本人だ」と言うと、ブル夫は「私は日本語を知っている」と言い、「イッコウセンエン!イッコウセンエン」と叫びだした。
 
ブル夫の叫ぶ「イッコウ」が古〇一行を意味しているのか、はたまたI〇KOを意味しているのかは不明であった。初対面の日本人に1000円で人身売買を勧めてくるとは、もしやブル夫はマフィアの如き市井(しせい)の徒であろうか、と想像した。

しかし、よくよく聞いてみると、どうやらブル夫は「1個1000円です」と言っていることがわかった。こびとが「センエン!?」と日本語で叫ぶと、周りにいた中国人が一斉に振り向いた。どうやら聞いたことのない言葉が聞こえて、みな驚いたらしかった。

値段交渉しようにも、ブル夫は「イッコウセンエン!」の一点張りだった。いや、一点張りというより、単にブル夫の日本語能力が低すぎて、その一言しか発せぬようであった。

こびとが再び、見習い魔道士のように「タイグイラ!(太贵了!)」と下手くそな中国語で叫ぶと、ブル夫は「なんぼなら買うんじゃ!」と中国語で聞いてきた。ひょうたんと言えども、一応、これは葫芦丝と称される伝統工芸品である。1個1000円が妥当な値段なのかわからなかったが、中国の物価を考えると高いような気がした。


しかし、そんなことよりも、私はブル夫が全てのひょうたんを咥えたことによる、試し吹き細菌感染を恐れていた。ゆえに、値段の話は後回しにして適当にあしらい、ブル夫の敬意を表して写真を撮り、インスタグラムで宣伝してやることにした。ブル夫は元々ひょうきんな人間なのか、カメラを向けても動じず、ひょうたんをえておどけたポーズを取った。葫芦丝を吹き鳴らしつつ、Forever製という謎のメーカーの自転車にるブル夫は、中々良い絵になっていた。
 

 
ブル夫に別れを告げ、先へ進むと、隣の胡同で今まさに生まれて初めてひょうたんをえようとしている、ヘイラオトウを発見した。私が瞬時にカメラを構えた数秒後、ヘイラオトウはプーッと葫芦丝を鳴らし始めた。ヘイラオトウの様子があまりにも滑稽だったので、私とこびとがクスクスと笑っていると、隣にいた商店のジジイもつられて大笑いし始めた。ヘイラオトウは周りの観光客が笑っていることには全く気が付いていない様子で、満足そうに葫芦丝を吹いていた。真紅の国旗がたなびく胡同で、ヘイラオトウが葫芦丝を吹き鳴らす姿を眺め、心の底から笑っていると、ストレスフルな日本では感じることができない、偽り無き平和を共有できた気がした。
 
ちなみに、中国では中国国旗のことを五星红旗と呼んでいる。赤色は革命の色、大きな黄色の星は共産党、残りの小さな星は労働者、農民、プチブル、ブルジョワジーを表していると言われている。
 
イベントが発生した場所から200mほど歩くと、北海北駅が見えてきた。駅前の商店街にある店のほとんどは、まだシャッターが下りていた。この日は朝から颐和园へ行く予定だった。颐和园の最寄駅は西苑駅か北宫门駅なのだが、チケット売り場は西苑駅で降りた方が近いようだった。北宫门駅は颐和园のいわば裏口に位置する。 

中国では古代から「坐北朝南」とか、「圣人南面」という言葉があるように、皇帝(圣人、圣子、天子)は北を背に、南を向いてす慣習がある。ゆえに、颐和园も故宮と同様、南向きに作られており、今でも一般的な入口は南方に位置し、チケット売り場も西苑駅近くに設置されている。

中国がある北半球では日本と同様、一日の日照時間が最長であるのは基本的に南向きの部屋だ。日に当たる時間が長ければ部屋も暖かく、病害虫の類も発生しにくい。また、古代人は太陽の光に人智が及ばぬ様々な効用があると考えていたかもしれない。ゆえに、昔の中国人は、家屋は南方に向けて構えた方が、住人は健康になりやすいと考えたらしい。

周易(易経)」から始まったとされる陰陽二元論五行八卦説によれば、北は陰(北为阴)、南は陽(南为阳)、山北水南は陰(山北水南为阴)、山南水北は陽(山南水北为阳)に属するという。まだ科学が発達していなかった古代中国では、単に北風を避け、採光を求めるだけではなく、北方から侵入するとされた風水的な邪気を避けるため、北方に白虎を模した人造の山をこしらえてみたり、良い気を留めるため、南方に人工の湖を作ったりしたようだ。特に自然、天の道理に適うような住居にすることが最も重視されたのだろう。

また、地上の生物は太陽光に依存しており、太陽がもたらす恵みを享受しようと無意識に行動する傾向がある。そのため、皇帝が常時、民衆や臣下よりも北方に位置することで、自らが太陽の権化となり、天下を治めやすくする意図があったのかもしれない。ちなみに、皇帝は龍の化身であるとされ、皇帝が着用する礼服である龙袍の黄色は五行で中央を意味する「土」に基づいている。

ちなみに、中国には、「炎黄子孙」という言葉があり、炎帝と黄帝が中国人の始祖であり、中国文化および技術の始祖であると言われている。日本には、黄帝内経などの中医経典を中国語で読める鍼灸師が皆無に近いせいか、「黄帝内経の『黄帝』は1人しかおらんのじゃ!」などと偉そうに叫んでいる自称ゴッドハンドの鍼灸師が少なくないようだが、実際には、『黄帝』は複数人存在し、黄帝族のことを指していると考えた方がつじつまが合うようだ。
 
伝説によれば、炎帝または黄帝の臣下、つまりは炎帝および黄帝一族が古代の多くの技術を発明したとされ、黄帝と岐伯の医学談義を記した「黄帝内经」や、中国古代的四大发明である紙、羅針盤、火薬、印刷術でさえも、彼らの末裔が発明したのではないかと言われている。特に多くの発明をしたのは黄帝族で、車輪の技術や舟、鍋、鏡、弓も発明したと言われている。
 
また、黄帝は史官であった仓颉(cangjie)に文字を作らせたと言われている。仓颉は龍のような長い顔をしており、異様に大きな口と光を放つ4つの目を備えていたと言うから、もはやヒトでは無い存在だったのかもしれない。彼に関しては、《淮南子·本经训》の“昔者苍颉作书,而天雨粟、鬼夜哭。(古代中国語の“雨”は「降らせる」という意味で動詞としても使われていたから、この文章では声調は4声となる)”という言葉が有名だ。これはつまり、仓颉が文字を創出したことで天の父なる神が大いに喜び、餓えた民衆を助けるために粟(小米)の雨を降らせた一方で、文字が発明され民衆の知能が向上し、自らの存在が暴露され、脅かされることを恐れた魑魅魍魎の類(鬼)が泣いた、という意味だ。ちなみに、仓颉の4つの目は、文字を創り出すにあたり、観察眼が鋭かったことを意味していると言われている。
 
日本では、「ムー」などで、中国人の祖先は龍蛇族(龍神系宇宙人、レプティリアン)であるなどと言われているが、黄帝族も炎帝族も、もしかすると宇宙人だったのかもしれない。始皇帝の命令で不老不死の仙薬を求め、日本に来た徐福も実は宇宙人で、そのまま居座って神武天皇になったと言われているが、もちろん真相など知る由もない。ちなみに、中国人が最初に発明したとされる火薬は、秦始皇が道家に不老長寿の薬を研究させていた過程で発見された、副産物の1つだと言われている。
 
元々、古代中国には黄帝族と炎帝族、九黎族がいたとされる。この3つの部族は離れて住んでいたが、ある時、黄河流域の肥沃な土地を炎帝族と九黎族が奪い合う戦争が起こり、この戦争で炎帝族が惨敗したものの、黄帝族が救援に来たことで、炎帝族と黄帝族は1つの部族として合併することになった。その後、中国では黄帝族が力を増し、現在の中国の多くの民族の祖先となった。これが、中国人が自らを“炎黄子孙”と称することになった所以(ゆえん)だ。何故に、黄帝族が炎帝族を助けたのかわからぬが、もしかしたら、同じ惑星からやってきた同郷の宇宙人だったのかもしれない。
 
そもそも、人間の起源はアフリカにあったと言われているが、猿人からヒトへの進化には飛躍がありすぎるし、ミッシングリンクについては現在も解明されていないから、確かに宇宙人が祖先であるという話は何となく面白味がある。

そんなわけで、古代中国では「南面」は皇帝の尊称となったが、一方でいつからか「北面」は卑称とされるようになった。中国語では言葉が同音である場合、同じ意味を含むとみなすことがままあるが、「北(běi)」と「背(bèi)」がほぼ同音であること、「背」には背を向けて「(そむく)」の意味があることなどから、「北」は「败(bài)」の意味に等しいとされた。そのため、乘胜逐北、追奔逐北などの言葉が生まれたり、败北(敗北)という常用句が使われるようになったそうだ。
 
西苑駅前はかなり綺麗に整備されていた。颐和园が世界遺産に指定されて以来、駅前の改修に力を入れるようになったのだろう。歩道は広くて清潔感があり、吉野家やマクドナルドなどのファストフード店が軒を連ねていた。
 
 
駅前のホットドッグ屋の前には数人の客が並んでいて、リードにつながれた子供がいた。最近中国で流行っている子供用のリードだ。中国では数年前にやっと一人っ子政策が終わったわけだが、慣習上、親は子供に面倒を見てもらうのが通例となっているため、結婚して男の子が生まれないと、妻が強く非難されることが珍しくない。
 
 
そのため、子供欲しさに人身売買や誘拐によって無理矢理養子にする事件が数えきれない起こっていたそうだ。現在は子作り制限が解除されたものの、特に地方都市では子供の誘拐事件が未だに起こっているそうだから、腕白な子供にはリードでもつけておかないと、危険なのかもしれない。そういえば、中国では2014年に、打拐(誘拐犯罪取り締まり)を題材にした《亲爱的》という映画が公開されている。これはなかなかよくできた映画だった。
 
ちなみに、中国ではこのリードのことを儿童安全绳とか、遛娃神器などと呼んでいる。しかし、最近は、子供同士でこのリードを付けていたことによって、地下鉄の改札を通過する際に前の子供が強く引っ張りすぎて後ろの子供が転倒したとか、前の子供が先に電車に乗ったものの、後ろの子供が乗り遅れて電車に引きずられそうになって電車が緊急停車したとか、エレベーターの扉にリードが挟まったとか、各地で事故が起きているらしい。それゆえ、「夺命绳(命を奪う縄)」とも呼ばれている。鍵付きに加え、リードの内部がステンレス線材で構成されているものもあるから、緊急時にリードを切断しようと思っても、素手では不可能だろう。
 
日本では誘拐事件など滅多にないけれど、外国人が増えてくれば中国のようになる可能性もある。しかし、子供にリードを付けておいたほうがいいのかどうかはわからない。まぁ、遺伝子異常ゆえかどうかはわからないが、近年増殖しているモンスターペアレンツが産んだような、公衆の場で発狂するのが常態化しているようなDQNな子供などに関しては、それなりのリードを付けておく必要はあるかもしれない。いや、むしろ、(しつけ)や叱(しか)ることをしない、目撃DQNな親を真っ先にリードで縛って管理しておくべきかもしれないな、などと考えたりした。
 
颐和园は、駅から500mくらいの場所にある。駅から出て、観光客らしき人々について歩けば、颐和园に着くだろうな、と予想した。しばらく歩くと、スターバックスの前に何某かの銅像があり、記念写真を撮っている人がいた。北京にはこの手の銅像が沢山ある。
 
最近、スターバックスコーヒーの「bucks」は「dollar」を意味していて、金が星の数ほど集まるよう、starbucksという言霊的な屋号にしたのではないか、などと考えたりした。かつてのロゴには、ユダヤの象徴である「目」が組み込まれていたらしいが、とにかくシンボルカラーのグリーンはドルを連想させるし、バックスも同様にドルを連想させる。成功しているアメリカ人の中には、「Green makes money.」と言って日頃から緑色を好む人もいる。まぁグリーンは悪魔の色だと言う人もいるけれど、そのあたりのことはよくわからない。
 
中国では金色や黄色が金の象徴だけれど、アメリカでは緑色が金を集める色らしい。何が功を奏したのかわからぬが、もはや北京でもスターバックスはサードプレイスとして、確固たる地位を築いている。観光地や歓楽街へ行けば、必ずスタバがあるほどだ。短期間にあれほどのブランド力をつけるとは、余程創業者が優秀な人だったのだろう。
 
5分ほど直進すると、右手に「颐和园」と書かれた看板が見えた。野犬らしき犬が歩いていた。 

 


颐和园の近くには、レンタルサイクル置き場があった。駐車場の入口は渋滞していて、警備員らしきオッサンが交通整理していた。 結局、駅から歩いて10分くらいでチケット売り場に到着した。沢山の観光客が集まっていてにぎやかだった。
 
正門広場の中央では、奇抜なカラーリングでミニオンズを彷彿(ほうふつ)とさせるジャージを着たオバハン集団が、記念撮影をしていた。中国だと、あんな目がチカチカするようなジャージを着ているBBAがわんさかいても違和感がない。 チケット売り場は比較的空いており、ほとんど待たずに買えた。
 

チケット売り場の向かい側には、「颐和园食品部」という看板が掲げられた建物があった。入口のすぐ横には長机が並べられており、地元民らしき人々がボランティアで道案内をしていた。
 
建物の中では土産物と軽食が売られていたが、右側に併設された写真コーナーが強烈なオーラを放っていた。左側の壁には「古装照相(古装撮影)」、「请勿自拍(自撮は御遠慮下さい)」 という貼り紙があった。撮影は1枚30元で、ちょうど龙袍に仮装した農民らしき夫婦が撮影するところだった。この夫婦は皇帝の雰囲気とは程遠い風貌であったが、嬉しそうに座っていた。ちなみに、オーラと言っても、某霊能者が番組スタッフの事前調査によって見えたフリをして大金をせしめる類のオーラのことではなく、要するに雰囲気のことだ。私が撮影待ちで座っているジジババの自宅の間取りを透視したとか、ジジイの前世が皇帝であることを見抜いたとか、そういうことではない。
 
 
とりあえず、店内の土産を冷かすことにした。ナイキのパチもんスニーカーがあった。いや、スニーカーというより、スリップオンと内联升的な布鞋の中間の履物のようだった。何故かロゴの下には「fashion」と書かれていた。しかし、数多外国人が訪れる世界遺産で、平然とパクリ商品が並べられているのをみると、中国の発展途上国的な一面を垣間見た気になる。デジタルアプリケーションやAIの分野で世界一になっていても、こういうあたりはまだまだ中国という感じだ。きっと日本のメディアがこれを見つけたら、ここぞとばかりに中国叩きをするだろう。アホな庶民は洗脳されて、これが中国のすべてであると思い込んでしまうかもしれない。
 

怪しい靴の横には、ミニオンズらしき小物が売られていた。頭部と下半身にウニのような棘が付いていたが、用途は不明だった。とりあえず、売店でペットボトルの水を2本買った。最近はスタバの影響か、中国でもコーヒー文化が浸透してきた様子で、ここでもカップコーヒーが売られていた。外の案内板によれば、スマホに颐和园のアプリを入れれば、チケットレスになり、園内のガイダンスを聞けて、土産を通販で自宅に送ってもらえるようだった。
 

土産物屋で怪しい土産を見たあとは、入口近くにあった地図を見てから、園内を巡ることにした。まともに回ったら、半日はかかりそうだったから、ショートカットして、有名なポイントだけ見て回ることにした。門には満州語らしき文字が書かれていたが、意味はわからなかった。大した人出でないと高をくくっていたら、門の中に人ごみができているのが見えた。 園内の所々に奇岩が据えられており、中国人が写真を撮りまくっていた。ガイド付きのツアー客ばかりだった。 
 

特に見るべきものがなかったので、次のエリアへ行くことにした。石畳の上でジジイが集まり、大きな筆で詩を書いていた。この種のジジイは北京の公園でよく見かけるが、ここの通路は石の表面がフラットで書きやすそうだった。日本では達筆とも芸術とも書道とも呼べぬような某書道家が、マスゴミの操作によって持て囃されているけれど、北京の公園にいる一般ジジイの方がよっぽど巧く、気持ちの良い文字をサラリと書き上げる。流石に漢字の国だけあって、日本の自称書道家よりも遥かに達筆な字を書くジジイがゴロゴロいる。
 
ジジイは一体何を書いているのだろうかと近寄ってみると、毛沢東の詩を書いていた。「风雨送春归,飞雪迎春到。已是悬崖百丈冰,犹有花枝俏。俏也不争春,只把春来报。待到山花烂漫时,她在丛中笑。」とは、1962年12月に詠んだ詩だそうだ。
 


隣にいたジジイは絵を描くのがお好きなようで、暇そうな通行人を呼び止めては、似顔絵を描いていた。ジジイは描き終えると、お世辞なのか、必ず顔の下に「美人(meiren)」と書いていた。横から我々が眺めていると、ジジイがこびとを呼び、似顔絵を描き出した。確かに似ていたが、先ほどの御婦人の似顔絵にも似ていた。
 

ジジイは詩よりもお絵かきが好きらしく、ウサギの絵も描いていた。ウサギの絵が完成すると、絵の下に「和睦(仲良し)」と書いた。左側から見ていた観光客が絵を指さして「これは何だ?」と聞いた。ジジイは「兔子(ウサギ)だよ」と言った。どうみてもウサギにしか見えなかったが、観光客のジジイはウサギを知らぬのだろうか、と思った。
 
橋の上では、万寿山昆明湖を背景に記念撮影している人が沢山いた。どうやら、北海公園と同様に、仏香閣なる建造物をフレームインさせて撮るのが定番らしかった。 
 

頤和園は杭州の西湖をモデルに造られ、遼金時代は王室の遊楽地、明清朝期には皇家园林(いわゆる「御苑」)となったらしい。光绪十四年(1888年)、慈禧(西太后)が軍費を流用して修復、颐和园と改称し、自らの避暑用別邸としたそうだ。また、拙政园(江苏省苏州市)、避暑山庄(河北省承德市)、留园(江苏省苏州市)と並び、中国四大庭園の1つに数えられているらしい。1998年には世界遺産に登録され、2009年には、中国に現存する最大の皇家园林と認定されている。確かに湖岸に立ってみると、以前行った西湖に似ていた。

頤和園が再建された数年後、北京に連合国が入ってくるわけだが、再建に多額の戦費を流用していたため、これが清朝滅亡の原因の1つになったと言われている。昆明湖は人造湖で、この湖を作る時に掘り出された土を盛り上げ、万寿山としたそうだ。ギザのピラミッドを作り上げた労力も途方もないレベルだろうが、こんな広い湖を人力で作ろうと思ったら、気が狂いそうだ。掘るのは簡単としても、残土を積み上げてゆくのが大変そうだ。
 
中国の大建造物と言えば、世界的に著名な万里の長城以外にも、北京-杭州間、約2,500キロを繋いだ京杭大運河もあるし、最近ではドイツ・デュースブルク-中国・重慶間、約11,000キロを結んだ、中欧班列と呼ばれる国際鉄道がある。日本なら本州横断でやっと1,500キロ程度だから、スケールが圧倒的に違う。
 

毎年1月を過ぎた頃になると、昆明湖の湖面は完全に凍るため、颐和园はスケート場として開放されている。何せ北京では氷点下10℃を下回る日なんてザラだから、昆明湖が70万㎡以上の広さであっても、完全に凍てついてしまうのだろう。
 
しかし、観光地にいる中国人は本当に幸せそうにしている人が多い。みなニコニコしている。中国人は普段は無愛想でムッツリしているから、かなりのギャップを感じる。

昆明湖を左へ見ながら、経路どおり進むことにした。今回も色々と行きたい場所があったため、颐和园での滞在時間は1時間以内を予定していた。壁を丸くくり抜いた門があった。中国ではよく見られる建造物であるが、中国語で何と呼ばれているかは知らぬ。
 


しばらく歩くと、長廊と呼ばれる屋根付きの回廊があった。皇帝が雨に濡れずに歩けるよう配慮されたいわばアーケードだ。このあたりに来ると、かなり混んでいた。この長廊は乾隆帝の1750年に作られ、光緒帝の1886年に再建され、現在では全長728mあり、中国御苑の中では最長らしい。天井の装飾が中々面白かったが、驚嘆するほどの芸術性は感じられなかった。長廊には柵というか、低い手すりのようなものが設けられていることが多いが、観光客の多くはこれに腰掛けて休憩するのが定番だ。
 

こびとがトイレへ行きたいと言った。あたりを見回すと、建設現場にあるような仮設トイレが見えた。私は基本的に潔癖症であるから、このようなトイレはなるべく避けるようにしている。ビッグウェンズデイのようなビッグウェイブが来たような止むを得ない状況に限り、利用することにしている。
 
こういうドアはドアノブに触れることが不潔であるから、基本的にはまだドアのない街中のニーハオトイレの方が我慢できる。こびとによれば、中はかなりケイオスな状況だったらしい。内部にトイレットペーパーは設置されておらず、右端の個体に設置された共用のトイレットペーパーを必要なだけちぎり、用を足すことになっているらしい。合理的と言えば、合理的なシステムだが、日本の公衆トイレを使う感覚で内部へ入り、途中でトイレットペーパーが無いことに気が付いたら手遅れだ。
 
ここは世界遺産であるのだから、なるべく園内には手を加えないようにしておこうという意図があるのか、法律上、手を加えてはならぬのかは不明だが、とりあえずトイレくらいは清潔なタイプにしていおいて欲しいものだ。沢山の人が訪れるのに、こんな仮設トイレだと、う〇こがあふれて洪水が起こる可能性も否定できない。キバっている最中に北朝鮮の核実験による大地震などでトイレが倒れたら、実録漫画太郎になってしまうだろう。
 
しばらく歩くと、東屋があった。東屋は中国語で亭子と言う。大した装飾では無かったが、一応写真を撮っておいた。東屋の先では、かつて、ここで使われていたという古い電話が展示されていた。あまり人気がないようで、ほとんどの人が軽く眺めて通過していた。
 

排雲門の前では、記念撮影する人が沢山いた。ここから奥にある排雲殿佛香阁が一番の見所らしく、かなり混雑していた。我々はタイムリミットが近づいていたため、佛香阁へは上らず、退園することにした。
 

結局、北宫门から出たが、周囲は閑散としていて、観光客はおろか、地元民さえも歩いていなかった。これは出口を誤ったな、と思った。地図ではここから歩いて5分くらいで北宫门駅に行けるはずだったが、駅を示す看板さえ見当たらなかった。何故か通信状態が悪く、百度地図のアプリが使えぬため、仕方なく野生の感に従い、左方向へ歩いてみることにした。川を左手に見ながら10分ほど歩いたが、右側にみすぼらしいホテルが1つ2つあるくらいで、駅がありそうな雰囲気は全くなかった。道路は整備されておらず、車が通るたびに黄色い砂煙が舞った。世界遺産の北側がこんなに寂れているとは思わなかった。

これ以上歩いても埒が明かぬと判断し、ホテルの横にある小さな商店で出入りしていた店主らしきオバハンに道を尋ねることにした。私が「このあたりに駅はありますか?」と問うと、オバハンは「ここから歩いたら10分以上はかかる。隣のホテルの前に三輪車が待機しているからそれに乗って行け。駅まで15元だよ」と言った。

オバハンに礼を言い、すぐ隣の速8酒店の前へ行くと、小さな三輪車が停車していた。運転席でヒマそうに座っていたオッサンに「最寄りの駅までいくら?」と聞くと、オバハンの言った通りオッサンは「15元」と答えた。

狭い後部座席に乗り込むと、オッサンは「あんたら何人?」と言った。私が「日本人だ」と答えると、オッサンは「日本でも漢字を使っているらしいな」と言い、私は首を縦に振りながら、「繁体字を使っている」と答えた。オッサンはポケットから煙草を取り出し、私に勧めてきた。煙草は一切吸わぬから断った。オッサンは「中国は広大だろう」と言った。私が頷くと、オッサンは満足そうな表情をした。
 
オッサンは「あんたは中国語が上手いな。中国に何年住んでいるんだ」と聞いてきた。私が「旅行で何回か来ただけで住んだことはない」と答えると、オッサンは「ふーん」というような顔をした。三輪車の中は狭かったが、案外快適だった。10分ほど幹線道路を走り、駅に着いた。オッサンにちょうど15元を支払い、お礼を言って外へ出た。オッサンはボッタくることもなく、終始機嫌が良かった。やはり、言葉がある程度流暢になって現地人に溶け込んでくると、ボッタくられる確率は減るのだろうな、と思った。
 

 

右も左もわからぬまま、三輪車で運ばれてきたのは、地下鉄4号線の最北端にある安河桥北駅だった。乗車地点からの最寄駅は北宫门かと思っていたが、どうやら違うようだった。とりあえず、わけのわからぬ僻地から駅に辿り着くことができてホッとした。北京市内と言えども、郊外へ行けばタクシーさえまともに走っていないような場所もザラにあるから、注意しながら移動しなければならない。別れ際、私が写真を撮るためiPhoneを三輪車に向けると、オッサンは照れくさそうな顔をした。
 


時刻は11:20を過ぎたところだった。何故か、ホームの上に設置されたモニターでは、サッカーの試合の中継が流されていた。とりあえず西单駅まで行き、駅前の北京图书大厦で中医関係の本を漁り、その後、昼食を食べることにした。
 
 

西单駅に無事に着いたものの、こびとのICカードが壊れたらしく、改札を通過することが出来なかった。仕方がないので駅員のいる切符売り場まで行って「壊れている」と言うと、極めて無愛想な男の駅員が「どこから乗ったんだ」と聞いてきた。私が「安河桥北駅からだ」と言うと、駅員は無言でICカードを操作し、投げ返してきた。どうやら直ったようで改札を通過できた。西单駅を出てすぐの場所にある北京图书大厦は、北京市最大の国有書店で、4階建て約16,000㎡の店内に約33万種の書籍を詰め込んでいるそうだ。店員は比較的親切で、欲しい本が見つからなければすぐに探してくれる。9時~21時まで営業しているのも非常によろしい。

 
医药保健関係は4階にある。いつの間にかテーブルと椅子が置かれており、地元民らしき人々がくつろいでいた。最近は北京でもブックカフェ的な業態が流行っている。まぁ北京の本屋では通路にベタ座りして長時間読書する客が多いから、椅子を置くことでそういう輩を1か所に集める効果を狙っているのかもしれない。
 

知らぬ間にカフェができていた。天井から本の形をした照明がぶら下がっていて面白かった。私は早速本を漁りたかったが、こびとが何か飲みたいと言うので、お金を渡して自分で買ってくるように言った。
 

とりあえずは中医の教科書シリーズを漁ることにした。欲しいものはすでに購入してあるが、いつも、念のため目を通すことにしている。日本の鍼灸学校では中国の教科書を翻訳して使うべきだと思うが、そもそも日本の鍼灸師の大半はこういう本の存在自体を知らぬから話にならない。日本鍼灸は素晴らしいと根拠なく信じているオツムがお花畑な鍼灸師こそ読むべきと思うが、そういう鍼灸師はIQが低いゆえか、客観的に物事を判断する能力が乏しく、善悪の区別さえつかぬ有様であるから、カルトな思想に洗脳されてしまうと、救済は極めて困難である。そういう鍼灸師を救おうにも徒労に終わることがほとんどであるから、関わるだけ無駄になるかもしれない。
 

鍼灸書も毎年沢山の新刊が並べられる。大半は中医師向けの専門書ではあるが、素人向けの本も多いから、子持ちの母親が小児用の家庭版鍼灸本を手に取って立ち読みする姿も珍しくない。日本では江戸期から、針灸技術が渡来して少なくとも300年以上は経過しているが、未だに鍼灸が普及していない。その1つの要因としては、流通している鍼灸書の少なさが挙げられる。また、中国の鍼灸書と日本の鍼灸書を見比べればわかるのだが、とにかく日本の鍼灸師が書いた本は中国のそれに比べて稚拙で、読むに堪えぬ内容の本が少なくない。
 
さらには、日本の鍼灸師はこういった客観的事実や批判を素直に受け入れられぬ傾向にあるから、何百年経っても中国針灸に追いつけぬようだ。まずは自己批判して己の状態を俯瞰的に見つめ、他人から批判されることがあれば何が悪いのか教えを乞うという謙虚な姿勢が成長を促すわけだが、レベルの低い鍼灸師ほど、他人の批評に耳を傾けることができないようだ。

教科書シリーズのほかにも、中医関係の本は沢山ある。中医小児科や中医婦人科、中医経典など、科目別に棚が分けられていて、非常に選びやすい。だいたいこのあたりで立ち読みしているのは、医者か医学生らしき人が多い。
 

壁側には人体模型や桂图(ポスター)が並べられている。ツボのポスターが欲しければ、ここで探すのがよろしい。棚の隙間には人が座れる隙間があり、去年までは誰かしら座っていたものだが、とうとう「座らないでください」と書かれた貼り紙があった。

中医書を翻訳する際に必要な古代汉语词典を所有していなかったので、1冊購入した。日本で買えば倍額以上とられる本も、たったの120元(約2000円)で手に入る。私は日本で買うのはアホらしいから、常に中国でまとめて買うことにしている。

こびとがHSKの参考書を欲しいと言うので、店員に売り場を教えてもらった。基本的に中国人は英字に馴染みがないから、HSKと言っても通じないことが多い。だから「汉语水平考试の本はどこにありますか?」と聞くのが無難だ。中国中央电视台のことをCCTVと言ったり、人类非物质文化遗产をUNESCOと言っても通じにくいのと同じだ。

店内では家電や文房具、幼児用玩具なども売られていた。HUAWEIのスマホで良さそうなのがあったら買おうかと思ったが、あまり品揃えが良くなかった。そういえば、最近、ラジオを聞いている時に何気なく手持ちのHUAWEIを近づけてみたら、電波が電子レンジに近づけた時のように激しく乱れて驚いた。試しにアイフォンを近づけてみたが、電波の乱れは軽微だった。一応、日本でも総務省が電波の強さを電波法で規制しているらしいが、やはり福島原発はアンダーコントロールだとか大嘘をついたアベ氏のように、日本の役人は信用できぬから、自分でコントロールして自衛するしかない。ロシアが原発事故の起こった地域を立ち入り禁止にしたり、アメリカが活断層の上に家を建てることを禁止したり、米軍基地がHUAWEIのスマホの販売・使用を禁止にしたりしているのに、日本は何でもかんでも許可している。
 
とにかく、日本の政治屋は呼吸をするかの如く虚言を吐く習性が多くみられるようだ。政治屋が公然で嘘をついた場合は、ハラキリの刑に処すということにすれば憲法9条を改正せずとも平和が実現しやすいかもしれない。しかし、法律というものは基本的に政治屋や一部の特権階級の都合の良いようにコントロールされているものだから、なかなか一般大衆の望み通りにはゆかぬ。
 

日本の文房具も売っていたが、価格は日本より2~2.5倍くらい高かった。どうやら、中国語で「ぺんてる」は「派通」と言うらしい。

最近は中国でもドライブレコーダー(行车记录仪)が人気らしい。中国の幹線道路は日本の数倍広いから、事故も比較的回避しやすいようだけれど、やはり中国にもDQNな運転をする輩はいるわけで、ドライブレコーダーはあった方が良いらしい。日本でもDQNは増加傾向にあるから、車に乗るならドライブレコーダーは必須だ。
 
本を買ったあとは、地下鉄に乗って一端ホテルへ戻り、本を置いてくることにした。電車の中には小さな中国国旗を持っている子供がいた。ほとんどの乗客がスマホを見ていた。中国ではネットゲームが大流行しており、ゲームにのめり込み過ぎて精神的にも経済的にも狂ってしまう人が少なくないらしい。電車でもスマホのゲームに夢中になっている人を沢山見かける。
 

北新桥駅周辺の工事は一段落したようだったが、また新たに何か作っているようだった。中国はすでにバブルが崩壊したとか、数年前から日本のメディアが騒いでいるが、一带一路が始まってからは、むしろ勢いに拍車がかかっている感じだ。実際にはどうなっているのか知らぬが、特に景気が悪いという感じは全くなく、むしろずっと景気が上向いているような感じがある。
 

駅前ではデリバリーサービスの店員が休憩しており、何やら楽しそうに会話していた。中国では日本と異なり、飲食デリバリーの専門業者が存在する。彼らは格安で飲食の宅配を請け負っており、大気汚染の影響もあって、急成長を遂げている。特に、2009年に上海で創業した饿了么は飲食デリバリーの最大手で、最近は北京でもよく見かけるようになった。荷台の青いカバーが饿了么の目印だ。現在、饿了么に加盟している飲食店は中国全土で18万店舗を超え、1日あたりの平均注文数は100万回以上、ドライバー1人が1日に届ける平均注文数は35件以上らしい。1日10時間労働としたら、5分程度で1件配り終えなければならない感じだから、かなりキツそうだ。
 
2015年からは、タクシーの配車アプリを定番化させた滴滴出行と提携して、タクシーを使った配送も始めているそうだ。日本ではヒマなのか、駐禁のエリアに長時間路駐して、歩行者や車の通行を妨害しているタクシーが少なくないし、客を拾ったら拾ったで暴走するタクシーも沢山いる。Amazonの影響で配送会社が悲鳴を上げているのだから、暇なタクシーに配送を分担させ、貧しい運転手は小銭を稼げばよろしいと思うが、やはり中国人やアメリカ人に比べ保守的で、合理的かつ柔軟な発想が劣る日本人とっては、饿了么のような業態を実現させることは難しいのかもしれない。
 
中国人は自分や他人の所得を公共の電波でけ出すことをわない民族であるから、日本人よりも遥かに金に対する執着心が強く、仕事においてもハングリーであるから、入る余地の無さそうな市場においても、新たな業態で参入したりすることが珍しくない。ユダヤ人も商売がいが、中国ユダヤと呼ばれる客家や華僑も抜きん出ている。日本のメディアは基本的に某国寄りだから、中国の現況に関しては正しく報道されていない部分が多々あるけれど、実際に中国へ行くと、日本よりも進んでいる部分を垣間見ることができる。
 

昼食は胡大で食べることにした。3号店の店頭には、若い女性店員が独りで立っていて、「ここはまだ改装中だから、アッチの新しい店に行ってくれ」と言われた。どうやら去年から続いていた外壁の改装は終わったようだったが、まだ内装は真っ最中だった。そういえば、去年来た時は、外壁に足場が設置されている状態で店内へ案内された。きっと胡大の外装と新規店の内外装を完了させてから、顧客を新店に移動させ、胡大の内装に取り掛かる、という手筈だったのだろうな、と想像した。
 
北京に来ると必ず1回は胡大で食べるようにしていたから残念だったが、数件隣りにオープンした红巷子という姉妹店なら、まぁまぁ美味いものを出してくれるだろうな、と思った。 

ちなみに、胡大は簋街で最も人気がある店で、週末になると100人待ちなんてのは珍しくない。中国人は基本的にミーハーだから、長蛇の列に並んででも人気店に入りたい、と思うらしい。だから、中国で商売をやる場合、毎日サクラを雇って店頭に並ばせておけば、かなり儲けることができるかもしれない。ちなみに、胡大は簋街に3店舗ほどあるけれど、北新桥駅最寄りの3号店が最もマトモで、サービスも味も良い。あとの2店舗は店員がウ〇コ同然だから、基本的には入店をお勧めしない。

红巷子の前には、風呂場で使う椅子を一回り大きくしたような、茶色いプラスチックの椅子が8個置かれており、ジジババが数人座っていた。ジジババは红巷子が用意している椅子に勝手に座って休憩しているだけらしく、店に入る気は微塵もない様子で、店の入口に背を向けておしゃべりしていた。そういえば、新宿の某高級アパレルショップの店員が「中国人と大阪人は値切ろうとするから困る」とボヤいていたが、確かに中国人の図太さは日本人を超越している。
 
とりあえず、店頭に立っていた男の店員に整理券をもらい、ジジババの横に座って待つことにした。店頭には予備の椅子が30個ほど積み上げてあった。確かに、プリンの容器を逆さまにしたような形状の椅子であれば、軽くて安定しているし、かさばらず収納も楽だろう。それに、プラスチック成型だから一般的な椅子に比べて安いに違いない。やはり中国人は合理的だな、と思った。

党大会を控えているためか、この店の壁にも国旗が掲げられていた。10分ほど待つと、店内に案内された。すでに14:50を過ぎていたから、空いてきているようだったが、それでも店内は満席のようだった。
 

店内は中々おしゃれな作りで、胡大本店の店員らしき、見覚えのある人々が働いていた。制服は変わっていないようだった。とりあえず、雪碧(スプライト)2本と炸馒头片を注文した。北京では缶ジュースはと数えるけれど、と言っても通じる。基本的に適切な量詞がわからなければ、を使えば良い。
 
炸馒头片は小麦粉を上げたようなもので、練乳を付けて食べるようになっていた。揚げパンと言えども油条のようなクドい感じは無く、中々美味かった。どちらかと言えば、お菓子という感じだった。しかし、空腹時に、雪碧炸馒头片を同時に食べると急激に血糖値が上がって危なそうだから、食後のデザートにした方が良かったなと思ったが、腹が減っていたのでパクパクと食べてしまった。
 

こびとが担担面を食べたいと言ったので1つ注文した。思ったよりも小さかったが、洗練されている感じで中々美味かった。どうやら基本的なメニューは、胡大とほぼ同じようだった。ちなみに北京では麺のことを面と表示するから、担担麺ではなく、担担面となる。
 

こびとが回鍋肉も食べたいと言うので、川渝回锅肉を注文した。回鍋肉は四川省の家庭料理で有名だが、四川省の右隣に位置する重慶市も有名だ。「川(Chuan)」は四川の略称、「(Yu)」は重慶の略称だから、これは四川重慶風回鍋肉と言った具合だろう。そもそも簋街と名付けられた、この通り自体が四川料理店の集まりだから、基本的にどの店も四川風だ。ちなみに重慶北東部は略称で「(Ba)」と呼ばれ、主に四川省に隣接する重慶西部を「(Yu)」と略称している。古代、重慶北部に実在した国を「巴国」、嘉陵江の合流地点を「渝水」と呼んだのが起源だそうだ。重慶の略称では、これをまとめて「巴渝」とも言う。この場合は共に2文字であるから、略称とは言わず、別称と言うべきかもしれない。この回鍋肉は何度か食べたことがあるが、何度食べても还可以という感じだった。
 
昔、師匠と初めて北京に来た時、適当に入った店で食べた回鍋肉は本当に美味かった。大きな白い平皿に汚い白米と回鍋肉が無造作に盛り付けてあって、傷だらけになった蓮華ですくって食べた。あの日は11月だったが、外はかなり寒くて、師匠とホテルまでの道に迷いつつ、かなりの空腹に耐えてやっと見つけた店だった。空腹だったのと、中国入りして初めて食べた四川料理ということもあって、余計に美味く感じたのかもしれない。
 
店のあった場所は忘れてしまったが、博泰酒店に辿り着く途中だったから、北新桥駅から张自忠路駅までのエリアにあったと思う。あの辺りだと兄弟川菜という店かもしれない。今度ヒマな時にでも探してみよう。この時に撮った写真は誤って全て消去してしまったから、2012年にウェブ上にアップした、上の2枚だけが手がかりだ。今見ても美味そうな回鍋肉だ。師匠は大好きな北京ビールを、私は砂糖入りのお茶を飲みながら、ご飯を張った。中国のペットボトルの緑茶に砂糖が入っていることに衝撃を受けたものだが、辛い回鍋肉にはピッタリだったように思う。
 
そういえば、当時、北京にいる外国人は窃盗などで狙われやすいと聞いていたため、純朴な私は犯罪に遭わぬように、予めボサボサの長髪に破れたジーンズを穿いて北京入りした。しかし、私は中国人よりもみすぼらしい身なりをしていたから、師匠が「まるで乞食に飯を喰わせてやっているみたいだな」と言ったのを今でも覚えている。結局、哀れに見えたのか、ここの飯は師匠がおごってくれた。

 

 

メニューの写真が美味そうだったので、知味虾も注文した。「知味」は知道味道の略なのか知らぬが、それほど美味くなかった。デザートには上海へ行った時に時間がなくて食べることができなかった四川汤圆を注文した。ほんのり甘いスープにクコの実と黒ゴマ入りの団子が入っている中国传统小吃の1つだ。一般的には元宵节(元宵節)に食される慣習があるが、中国南方では春节(春節)に饺子(水餃子)ではなく汤圆儿を食べる地域もあるそうだ。豚の脂であるラードと黒ゴマが使われているため、独特の風味がある。「汤圆」の「」には「团圆(団らん)」とか「圆满(円満)」の意味があるため、祝祭日に家族で汤圆を食べることは、家族の平和や幸福を願う意味もあるらしい。
 
結局、何だかんだで1時間過ごしたが食べきれず、残った分をテイクアウトすることにした。中国では残した料理はテイクアウトするのが普通だ。テイクアウトする時は、「服务员,请打包!」と言えばよろしい。比較的ちゃんとした店だと打包盒と呼ばれるテイクアウト用の容器を有料で用意していて、それに入れてくれることが多い。容器はだいたい1つ1元(約17円)だから、中国の物価にしてはちょっと高い。中国では食事の前に配られる使い捨てのお手拭きタオルも1人1元くらい取られるのが普通だ。
 

店を出たあとは、东直门駅まで歩くことにした。歩道が整備されており、前よりかなり広くなっていて歩きやすかった。

东直门駅近くのセブンイレブンで、水を買うことにした。日本では売っていないバームロールのミルク味といちご味があったから、とりあえず買ってみた。しかし、残念なことに全く美味くなかった。どうやらポッキーと同様、中国で売っている日本メーカーの菓子は、日本で売っている菓子とは味が全く異なるケースがほとんどのようだ。言葉では表現しがたいのだが、チョコの品質が悪くて、中国独特の味がするのだ。日本にはないバージョンだからと言っても、味は他人に勧められたモノではないから、お土産には買わぬ方が良いかもしれない。
 

东直门駅周辺では、何やら大工事をしていた。どうやら駅の拡張工事らしかった。こびとと駅前の交差点で信号待ちをしていると、後ろから歩いてきた農民風の中国人老夫婦に「东直门駅にはどうやって行くんじゃ!」と聞かれた。「この信号を渡って真っ直ぐ行くと駅ですよ」と答えると、「ありがとう。あんたら何人かね?」とお婆さんが聞いてきた。「日本人ですよ」と答えると、老夫婦はニコニコしながら礼を言った。
 
中国人はわからぬことがあると躊躇なく他人に話しかける傾向にあるが、中には诈骗犯もいたりするから、注意せねばならぬ。特に「ワタシハニホンガスキデス」とか「ワタシハニホンゴワカリマス」などと片言の日本語で話しかけてくる輩は危ない。
 
ドイツでは引っ越し代をケチるために、2人掛けのソファーを電車で運んでいたアホがいたそうだが、中国でも迷惑を顧みず、大荷物を抱えて満員電車に乗り込んでくる労働者が少なくない。比較的車内が空いていれば、15キロ程度の果物や、クーラーボックスに詰めたアメリカザリガニなどを運ぶのは可愛いものだ。
 

地下鉄車内で、何気なく他の乗客の足元を眺めていたこびとが、「またゼットバランスの靴を履いてる人がいる」と耳打ちした。確かに、紅いコートを着た女が、昨日工商銀行で見かけたロゴと同じロゴのスニーカーを履いていた。ニューバランスではないようだが、Zでもないようだった。NとZを反転させた文字だから、脳は何と読むのか判別できぬし、単なる記号として認識するしかない。こびとが「どこで売っているんだろう。欲しい」と言ったから、王府井で探すことにした。所ジョージが「にゅ」と記したスニーカーを発売しているのだから、中国人が存在しない文字をロゴにしても商標的には問題無さそうだがどうなのだろうか、と考えた。偽ブランド品を買ってしまったら税関で没収されるが、このようなややこしいスニーカーだと気が付かれずに通過できてしまうかもしれない。
 
 
こびとの隣に座っていたオバハンはうつらうつら居眠りしていたが、突然「东西駅はもう通過した!?」と聞いてきた。本当に中国人は見ず知らずの他人でも気軽に話しかけてくるなと思ったが、「通過しましたよ」と教えてやった。オバハンはそれを聞いて、次の駅で慌てて降りて行った。
 
東京の満員電車なんかでは、電車が駅に着いてドアが開いた時に「降りますぅ~!降りますぅ~!」なんて叫ぶのが普通だ。しかし、北京では駅に着く前、ちょうど「次は〇〇駅に到着します。下車される方は準備してください」というアナウンスが流れたあたりで、自分の前を塞いでいる人に「下吗?(降りる?)」と聞くケースが圧倒的に多い。ちなみに乗客を押しのけて降りたい時は、「下车!下车!」とか、「让一下!」、「让开!」などと叫べば良い。
 

王府井駅に着いて地上へ出ると、まだ地下鉄駅の工事をしていた。建設速度が異様に早い中国でも、もう2年は経つから、かなり難儀な工事なのかもしれないな、と思った。何気なく、工事区域を覆う壁を見ると、赤い文字で「共产党好・百姓乐」「社会主义好・百子乐中华」と書かれたポスターが貼ってあるのを発見した。こういうプロパガンダを見ると、中国という国の現実を目の当たりにした感じで得体の知れぬ寒気がするが、街の中にはこういうメッセージがさりげなく点在しているから、サブリミナル的に洗脳されそうで怖い。

とりあえず、いつも通りに张一元で、おかんに頼まれていたジャスミン茶を買うことにした。その前に、隣のビルを少し冷かすことにした。
 

1階のエントランスにはアメコミやら日本のアニメを随所にパクッたと思しき謎の人形が据えられていた。特に見るべきものがないので、张一元へ行くことにした。张一元の店内に入ると、去年と同じオバハンと、新入りらしきオッサンが立っていた。おかんに小さなやつを数個買ってきてくれと頼まれていたので、中級のジャスミン茶を8缶買った。

お土産を買ったあとは、北京にある唯一のagnesb.へ行き、暗くなる前までに北京南駅へ行く予定だった。北京南駅周辺には南方からの出稼ぎ労働者が集まっているため、北京市内でも比較的治安が悪いから、なるべく夜は近寄らないようにしている。

王府井駅の荷物検査はいつも以上に行列ができて、渋滞していた。どうやら5年に1度の党大会を控え、ボディチェックと荷物のX線検査が厳重になっている様子だった。5分ほど並ぶと我々の順番がきた。手際良く荷物をベルトコンベヤーの上に放り投げ、ボディチェックを受けたあと、荷物を受け取るために、機械の出口に立った。
 
お茶は私が2缶、こびとが6缶持っていて、偉そうに座っていた女の検査官が私の茶缶を取り上げ、「これは何だ。開けて良いか?」と早口で言いながら、私の許可を得ないうちに茶缶のフタを捻った。大そうせっかちな検査官ゆえ、ほんの数秒の間の出来事で静止する間もなかったが、私が「ダメだ!開けるな!」と叫ぶと、女の検査官は手を止めた。すでに茶缶の封は切られてしまったため、私が続けて「それは礼物(liwu、お土産)だ!」と激昂して叫ぶと、女の検査官は申し訳なさそうにして、茶缶をこちら側へ戻した。女の検査官は3人並んで立っていたが、茶缶を開けた検査官の両隣にいた女どもは「私は無関係です」という素振りでソッポを向いていた。だいたいX線を通しているんだから開けなくても中身を確認できたはずだが、女の検査官はヒステリー気質なのか、ちゃんと見ていないようだった。
 
そんなこんなでやっとこさ安全検査を通過し、agnesb.がある国貿駅まで行くことにした。国貿駅からはE1出口へ向かい、中国国际贸易中心(中国国際貿易センター)というビルの地下に行けば、agnesb.北京店に到着するはずだった。
 

出口まで続く地下通路の壁一面には、毎年11月11日に恒例となった天猫全球狂欢节の広告が貼られていた。天猫はウェブ上に存在する世界最大級のショッピングモールだ。2011年から始まった、「双十一」と呼ばれる独身者向けの11月11日のバーゲンセールが有名で、2011年には開始後8分で交易額が1億元(約13億円)、1時間後には4.39億元(約57億円)を突破したそうだ。2017年には、交易額が1日で1682億元(約2兆8600億円)に達しているというから恐ろしい。

天猫は淘宝(taobao)の内部から分離したショッピングモールで、淘宝がいわゆる「c2c的网购模式(consumer to consumer、是个人对个人的、個人間電子商取引サイト)」であるのに対して、天猫(Tmall)は「b2c的网购模式(business to consumer 是商家对个人的、企業個人間電子商取引サイト)」だ。ちなみに阿里巴巴(Alibaba)は「b2b的网购模式(business to business、是企业间的、企業間電子商取引)」だ。

E1出口の手前には、中国国际贸易中心(中国国際貿易センター)の案内図を描いた看板があったのだが、agnesb.はすでに撤退したらしく、微塵も存在していなかった。agnesb.の公式ウェブサイトはフランス本社で管理しているそうだが、どうやら北京店の営業状況をちゃんと把握していないようだった。中国の代理店がクソだったのかはわからぬが、「営業してねぇならちゃんと消しておけよ!」とツッコみたいところだったが、突っ込むべき店舗がなかったので諦めることにした。ちなみに、中国のagnesb.は価格設定がお高めだそうで、中国人でagnesb.が好きな人は、わざわざ日本の店舗まで買いにくるらしい。

楽しみにしていたのに残念だと思いながら来た道を戻っていると、こびとが「あっ!」と叫んだ。どうやら王府井駅の荷物検査の時に、X線の機械の中に张一元で買った中級茶6缶すべてを取り忘れてきたらしかった。仕方がないので、再び王府井駅に戻ることにした。

王府井駅の安全検査はまだ混んでいたが、検査官の女に「さっき茶缶を取り忘れたが残っていないか」と聞くと、先ほど私がキレたことに対して懺悔しているつもりなのか、X線の機械周辺をくまなく探しだした。しかし、誰かに盗られたようで、すでに茶缶は消えていた。

仕方なく再び张一元へ行き、同じものを6缶買いなおすことにした。私が店員のオッサンに「さっき買ったやつは駅の保安検査の時に失くした」と言うと、オッサンは西川きよしばりに目をグリグリさせて、「丢了!?(失くしたって!?)」と叫んだ。オッサンは続けて「誰かが盗んで行ったのか?」と聞いてきたから「そうだ」と答えた。
 
だいたい北京の庶民は、未だ月に2000~3000元(約34000~51000円)程度しか稼げぬらしいから、数百元で買った茶葉を失くすのは相当な痛手なのだろう。しかし私が茶葉を買いなおすことで、オッサンの店は儲けが倍になるから、オッサンは哀れみと嬉しさが共存する複雑な心境で、「丢了!」と叫んだのかもしれないな、と思った。これを聞いたレジのオバハンは、1回目に買った時は茶缶を紙袋に無造作に詰め込んだだけだったが、2回目は茶缶をポリ袋に入れて厳重に封をしたあと、さらに紙袋に入れこして、「看好了!(気を付けてね!)」と言って手渡してくれた。
 

张一元の紅い紙袋を持って外へ出ると、目の前を通り過ぎた2人の中国人を見て、思わず「あっ!」と叫んでしまった。我々の前を通り過ぎた70歳くらいの杖をついた老婆と、その後ろを金魚の糞のようについて歩いていた50歳くらいの男は、いつも地下鉄1号線の車内で物乞いをしている2人に間違いないようだった。

この親子らしき2人は、毎週末になると観光客が多く利用する地下鉄1号線に乗り、車両の端から端までを練り歩いて乗客に金を無心するのであるが、その集金スタイルが異様であったため、私は数回見ただけで2人の顔をハッキリと覚えていたのだった。男は確かに、目を見開き、健常者と変わらぬ素振りで歩いていた。
 

いつも金を無心する役目は老婆だ。息子らしき男は無言のまま両目を閉じて全盲を装い、右手でアンプ付きのハーモニカを持ち、哀愁漂う音色を吹き鳴らす、という役目だ。そして左手は老婆に引かれ、あたかも母親が、全盲の哀れな息子を女手独りで養っている、というシチュエーションだ。

老婆の集金の仕方はかなり強引で、無視を決め込む乗客の手を無理矢理引っ張り、「どうか金を恵んでくだせぇ」と迫るのだ。慈悲心の強い外国人観光客などは、たまらず1元札やら10元札を手渡してしまうのだが、地元民は奴らが骗子(ペテン師)であることを見抜いているから、手を握られても完全無視で押し通す。上海ではこういう詐欺行為で小銭を集め、マンションを2つ買った輩がニュースになったそうだ。

この日は、数日後に5年に1度の共産党大会を控えており、北京市内の警備が厳重であったせいか、いつもいるはずの物乞いを1人も見かけなかった。それゆえ、この親子も物乞いができず、当てもなく王府井を徘徊していたのかもしれない。とにかく、インチキ親子を目撃DQNしつつ、ネタになりそうな容疑者親子を激写することができて、私は興奮していた。もし、こびとが茶缶を取り忘れていなかったら、我々は王府井には戻らず北京南駅へ向かっていたはずで、このような奇跡的瞬間を得ることができた喜びで、こびとに対する怒りはスッカリ消え失せてしまった。
 
王府井駅の出入り口付近まで行くと、野良犬が歩いているのが見えた。日本でいえば銀座のような場所である王府井に野良犬がいるとは、如何にも中国らしいな、と思った。しかし、私は犬よりも、振り返ってその犬に気をとられていた子供の奇抜なヘアースタイルに釘付けになった。

 
 


とりあえず、茶缶を再び失くさぬよう、袋を握りしめて、北京南駅へ向かった。北京滞在2日目は、運行し始めて間もない、世界最速を謳う复兴号と名付けられた高铁(高速列車)の始発便に乗るため、前日中に乗車券を発券しておく必要があった。北京南駅は想像していたよりも明るく、杭州南駅のようにだだっ広い感じだった。チケット売り場はすぐに見つかった。
 
乗車券は、出国する前に、Ctrip(携程旅行网)で予約しておいたから、その控えとパスポートを窓口で渡すだけで、すぐに発券された。何と便利な世の中なんだろう、と少し感動した。日本から予約して中国に来るまで、もしやCtripはフィッシング詐欺の一種ではないかと密かに疑っていたが、とりあえずデータのやり取りは無事に済んでいたようで安心した。明日は北京南駅7:00発のG5(复兴号)で天津南駅へ行き、電車で天津駅まで移動して天津市内を少し観光し、15:31発のC2060で北京南駅へ戻る予定だった。

中国の高速列車は乗車前に空港並みの安全検査があるため、少なくとも出発時刻の1時間前には行列に並んでおかねばならない。それゆえ、7:00発の列車であれば6:00前には構内に着いていなければならず、北京旅居华侨饭店からでは始発に乗ったとしても間に合わぬ可能性が高いから、北京南駅に隣接する速8酒店に泊まることにしたのだった。ホテルの予約も、日本を経つ前に、予めCtripで済ませておいた。
 

広い構内から地下のコンコースを通って地上へ上がれば、すぐにホテルがあるはずだった。とりあえず、ブラブラとコンコース内の店を冷かして歩くことにした。ミスタードーナツやカルビーポテトチップスのロゴで有名な原田治氏のデザインを明らかにパクッたような周黑鸭という店の看板を見つけた。他には喜多方ラーメンや吉野家、マクドナルドなどのファストフード店が軒を連ねていたが、どこも客入りはまばらだった。

ホテルは駅の真横にあったのだが、どこの出口が最寄なのかわからず、一番南側の出口から地上へ上がることにした。駅前は想像していたよりも閑散としていて、雰囲気は確かによろしくなかった。スケボーの練習をしている若者がいた。
 

ホテルはすぐに見つけることができた。確かに駅に隣接しており、ロケーションは良いようだった。確かこのホテルはアメリカだかの外資で、「super hotel」を「速8酒店」と音訳したはずだ。中国には未だ外国人が泊まれぬホテルが沢山あるが、外資ならば外国人でも受け入れているだろうと予想していた。とりあえず、Ctripでは予約できていたから、まぁ大丈夫だろうと思った。

ホテルの入口は簡素で、田舎の自宅を改装した宿、というような雰囲気だった。フロントには従業員らしき若い女2人と雇われ店長らしき男1人が立っていたが、我々が目の前に来ても挨拶さえせず、目も合わせぬので、こりゃヤバいホテルを選んでしまったな、と思った。パスポートと、Ctripで予約した証明となるコピーをフロントの台の上に置くと、店員男はパスポートには触れもせず、一瞥(いちべつ)しただけで、「外国人客はは泊めることができません」と言い放った。すでにウェブ上で予約は済んでいるのに泊められぬとはおかしい話だと思い、私が「は?空き部屋は無いんですか?」と言うと、店員男は「空室はあるけど泊められない」と言った。
 
泊められぬのにウェブ上で予約できたり、クレジットカードで引き落としも済んでしまうというのは詐欺に等しい話であるから、「すでにウェブ上で支払いも済んでるがどうするんだ!」と私が詰め寄ると、店員男は「自分で携程旅行网(Ctrip)に電話してくれ」と言った。外国人を泊められぬなら事前にウェブ上でその旨を記したり、何らかの制限をかけておくべきだし、すでにホテル側には何週間も前から私達が泊まるというデータがCtripを介して流れてきているはずで、我々が来るまでに断りの連絡を入れておくべきだろう、と思った。店員男の横にいた女店員の女2人は完全に無視を決め込んでいて、王府井駅にいた安全検査の女どもと同様に、「私は関わりたくありません」というような雰囲気をし出していた。
 
私は色々と納得が行かなかったため、思わず「还钱!(金返せ!)」と叫んでしまった。すると、それまでこちらを見ようともせず、帳簿に夢中になっている素振りをしていた女店員がビクッとして、我々の方へチラリと目を向けた。さすが、中国人は金に直結する話には敏感だな、と思った。が明かぬので、店員男に「接待不了外宾」と一筆書かせ、これを証拠としてCtripに提出し、自分で返金手続きを行うことにした。とりあえず、今回ツアーで指定されている北京旅居华侨饭店には泊まれるからまぁいいや、と自分を納得させ、速8酒店を出ることにした。

中国では未だに表沙汰にされていない宿泊施設のランク分けがあり、外国人を泊めるに相応しくない設備、英語が話せる従業員がいない宿泊施設は、国から外国人を泊める許可が下りないようになっているそうだ。また、一般的にこういう外国人非対応の宿泊施設は屋号に宾馆などと付けることが多く、酒店とか饭店などと称していれば安心なのだが、速8酒店のような例外もあるようだ。さらに、外国人に対応した宿泊施設は宿泊料金の設定が高めだから、異様に安いホテルを選ばなければ失敗する確率は低いのだが、今回は速8酒店のように料金設定が高めかつ外国人非対応のホテルもある、ということがわかって勉強になった。おそらく、速8酒店は南北京駅まで徒歩1分という好立地ゆえに、中国人のみの対応であっても価格設定が高いのかもしれないな、と考えた。


駅に戻ると、スターバックスコーヒーの横で、オレンジジュースの販売機にオレンジを補充しているジジイがいた。北京ではこの生絞りジュースの自動販売機をたまに見かけるが、衛生的にヤバそうだから、私は一度も買ったことがない。
 
こびとがスターバックスで、北京オリジナルのマグカップがあるかどうか見たいと言ったので、入ってみることにした。 店内の雰囲気は世界共通だが、中国のスタバ店員は明らかに態度が悪い場合が多い。まぁ日本のスタバ店員のように、客の態度も見極めずに馴れ馴れしく話しかけてくるのもどうかと思うが、とにかく中国のスタバはサービスがよろしくない。北京南駅構内には、2つのスタバがあったが、どちらにも北京オリジナルらしきモノが売っていなかったもんだから、とりあえず白い携帯用のボトルを1つ購入した。

予期せぬ展開でドッと疲れが出た感じがしたが、とりあえず終電が終わる前に东直门駅へ戻らねばならなかった。何故か駅の入口には警察犬がいた。

东直门駅には21:00に到着した。ここまでくればホテルには歩いて戻れるな、と思い、ホッとした。駅の地上出口にある看板をみたら、終電は上りも下りも22時過ぎまでだった。北京は遅くまで店が開いているわりに、東京にくらべると終電時間が随分早い。
 
とりあえず、駅前にそびえ建つ来福士というビルに入ることにした。来福士というのはRaffles Cityの音訳で、ショップと住居が一体化した複合施設のことだ。シンガポール発祥のRaffles Hotelの関連企業らしいが、詳しいことは知らぬ。シンガポールにもRaffles Cityがある。Rafflesとは、モダンシンガポールの基礎を作ったイギリス人、Thomas Stamford Rafflesに由来するそうだ。

本当は速8酒店にチェックインしたあと、 金宝街にある利苑酒家招牌菜冰燒三層肉を食す予定だったのだけれど、行く気力がなかったので、このビル内に入っている飯屋で簡単に済ませることにした。
 

来福士の1階ではPOLOのバーゲンが催されていた。本物かどうかはわからなかったが、かなり多くの人が群れていた。その他1階にはH&MやZARAなどの服飾店があった。
 

2階には西西弗书店というブックカフェがあった。最近、北京ではブックカフェが大人気で、お洒落な本屋が増えている。中でも有名な、蘇州猫的天空之城には一度行ってみたい。三里屯老书虫书吧朝阳北路单向街书店は今回行く予定だった。
 

個人的には全く興味がないが、東野圭吾の本を集めたコーナーが作られていた。日本でも売れっ子なのに、世界最大のマーケットである中国で中文版が山積みされているとなると、おそらく印税は赤川次郎や西村京太郎の比ではないのだろうな、と思った。現在では仕事柄、小説など読む時間など全くないが、高校生くらいまでは色んな小説を読んだものだ。東野圭吾の本に埋もれるようにして、「你的名字。」と書かれた本が数冊積まれていた。これは飛行機の中で映画を観たが、ハッキリ言って面白くなかった。まだ、秒速何とかメートルの方がマシだったと思う。しかし、あれはあれでサントラが良くなかった。
 

ビルの中心部にはコスタコーヒーとスターバックスコーヒーが入っていた。閉店間際だからか、ガラガラだった。
 

目ぼしい店がなかったので、最上階の多国籍料理店に入ることにした。看板には大きく「爵士屋」、その下には小さく「日本料理 洋食 コーヒー」と書いてあった。爵士juéshì)はknightの意味のほか、音訳でjazzの意味があるが、確かに店内ではジャズが流れており、店の雰囲気もjazzyな感じだった。客の半数以上は白人だったから、比較的入りやすかった。

我々は店内には入らず、店頭のテーブル席に座ることにした。この席は橋のような通路の上に位置しており、スリリングな感じで心地良くはなかった。店内は中々お洒落だった。店内の席にしときゃぁ良かったと後悔した。すぐにメニューが運ばれてきた。
 

メニューは洋食より日本食の方が多かった。寿司や刺身の盛り合わせ、焼き餃子、厚焼き玉子、揚げ出し豆腐、ラーメン、うどんなどがあった。全体的には無難な値段だったが、やはり寿司は高かった。だいたい日本の倍くらいの価格だが、まぁ中国ではこれくらいが相場だろうな、と思った。ハッキリ言って日本食にはうるさい純日本人としては期待していなかったが、とりあえず話のタネにサーモンの寿司と野菜うどん、肉うどん、コカコーラ、レモンジュースを注文した。メニューに載っていたうどんの写真はかなり不味そうだったから不安だったが、他に食べられそうなものがなかったから我慢することにした。
 

寿司はまぁ食えないことはなかったが、日本の寿司に比べると劣る感じだった。寿司につける醤油もワサビも量が多すぎて違和感があった。しかし、中国国内の店にしては検討している方かもしれないな、と思った。うどんも同様にまぁまぁだった。感覚的には高速道路のサービスエリアの食事をさらにワンランク下げたような味だった。うどんをすすりながら、何気なくメールをチェックすると、速8酒店に着く直前にCtripからメールが来ていたことに気が付いた。
 
「ホテル側より外国の方を接待する資格をもっていないため、ご予約を確定することができないといわれております。大変申しわけございませんが、ご予約を一旦キャンセルさせて頂きます。部屋料金はご利用のカードまでに返金致しました。また、一度お客様のご予約を確認してから、ご予約通りに部屋を提供できないことに対して、お詫び申しあげます。シートリップはお客様のお声を真摯に受け止め、サービスの改善、業務品質向上に活かし、お客様から信頼される旅行会社を目指しておりますので、今回の事態に招いて弊社の不手際について、反省の上責任を持って対応させていただきたいと考えられます。また、同じチェックイン日のホテルをご予約頂いた場合、ご宿泊後にて領収書の写真を弊社までご提供していただければ弊社より最大初日部屋料金620人民元に相当する差額をシーマネープラスの形でご利用のシートリップアカウントに弁償させて頂きます」
 
Ctripだけのことではないと思うが、大手の予約サイトであっても、中国国内のホテルをウェブ上で予約する場合、確実に外国人が泊まれるホテルを探さねばならない。しかし中国のホテルは、実際にチェックインしてみないと泊まれるかどうかわからないことがよくあるから、予め宿泊拒否をされる可能性があることを想定しておくべきかもしれない。真冬の北京は氷点下10度を下回ることが珍しくないから、慣れないうちは大手旅行会社のツアーを使うのが無難かもしれない。食事を終えて外に出ると、ビルの入口に大きな犬が座っていた。
 

ホテルへ戻るため东直门内大街を歩いていると、荷台にダンボールと空のペットボトルをうず高く積み上げた三輪車に乗った男が警察に捕まっているのが見えた。
 

东直门内大街の終点にある干果屋はいつも行列している。中国人はお茶うけにヒマワリの種などをバリバリと食べる習性があるから、この手の店は定番となっており客が途絶えることがない。
 

北京の観光名所の1つである簋街(guijie)は、去年からの大改修工事がほぼ終わり、要所要所に案内図を載せた看板が設置されていた。簋街のシンボルとなる新しいロゴも考えたらしく、通りには「」の字をデフォルメした誇らしげなロゴも点在していた。ちなみに、「」という文字は、古代中国で使われていた食器の一種に由来する、とCCTVの「遠方的家」という番組で紹介していた。本来は鬼街と称されていたが、鬼の字ではおどろおどろしい感じを与えたり縁起が悪いため、食べ物に関する文字で発音が似ているの文字を使うようになったそうだ。

ホテルに戻ると22時を過ぎていた。シャワーを浴び、さて寝ようかとベッド横の壁を見ると、誰かに叩(はた)かれて圧死した蚊が、そのまま貼り付いていた。最近は5つ星の高級ホテルでも、密かに便座のブラシで洗面台を洗ったり、バスタオルで便座やバスルームの床を拭き上げるDQNな従業員がいるそうだから、我々が泊まる中級ホテルの壁に装飾や押花の如く蚊が貼り付いていても、驚くほどのことではない。しかし、潔癖な私は完全に気にしないことはできぬから、壁から離れて眠りに就いた。
 
 

3日目(月曜日)

 


3日目は4:30に起床した。6時までに北京南駅へ着くためには、东直门駅5:14発の始発に乗らなければならなかった。ホテルからは东直门駅までは徒歩15分くらいだから、4:55までに出れば間に合うはずだった。まだ空は薄暗かったが、夜中に降った雨はすでに止んでいた。

この日は天津へ行くことになっていた。中国では2011年に起きた浙江省の鉄道事故以来、高速鉄道は時速300kmまでと制限されていた。しかし、今年(2017年)の6月に复兴号(復興号)という名を冠せられた新型車両をお披露目し、時速350kmでの運転を再開した。元々はドイツの高速列車であるICE3をベースにした、和谐号が最高時速380kmで営業運転していた。复兴号では車両の設計寿命を30年に延ばした上、最高時速を400kmに引き上げている。复兴号は、現状では世界最高速の鉄道だが、南车青岛四方机车车辆股份有限公司は2014年1月、新型和谐号の試験走行で時速605kmを叩き出すことに成功している。

一昔前は、典型的な発展途上国の様相を呈していた中国が、たった30年ほどで、アメリカや日本を凌ぐような技術大国になった事実は、大半の日本人は俄かには信じられぬかもしれない。そこで、私は実際に复兴号に乗り、その最新技術の一端を垣間見てやろうと考えた。
 
日本ではほとんど報道されることがないが、中国は欧州と陸続きであることもあって、一帯一路政策の影響で、欧州でのインフラ開発や中国製品の普及を加速させている。例えば、EUの基準値をクリアした純電動バスが、ブルガリアなどで既に実用化されており、未だハイブリッドなガソリン仕様のバスしか走っていない日本に比べると、EVの技術に関しては日本の先を行っている。実際に、2017年には、中国の蔚来汽车が開発したEVカーであるNIO蔚来(NIO EP9)が、世界最凶に過酷だと言われているニュルブルクリンクの北コースで、ポルシェ911GT2やランボルギーニ・ウラカン、パガーニ・ゾンダ、日産GT-Rなどの記録を破り、市販車として世界最速ラップタイムを記録した。これも日本ではほとんど報道されていない。
 

东直门内大街にある飲食店では、まだ5時を過ぎたばかりなのに、すでに朝食の準備をしており、所々で蒸篭(せいろ)から湯気が上っていた。北京の街の目覚めは本当に早い。こういう光景を見ると、あぁ中国にいるんだなぁと感じる。
 

东直门駅には5:10に到着した。何とか始発に間に合いそうで安心した。当然ながらラッシュはまだ始まっておらず、構内はガランとしていた。それゆえか、安全検査をする係員は器用にも立ち寝しており、無事に通過することができた。
 

定刻通りにやってきた電車に乗り込み、15分ほどで宣武门駅に到着した。4号線に乗り換える頃には、乗客がかなり増えていた。どうやら、みな北京南駅へ向かっているようだった。
 

北京南駅には5:45に到着した。东直门駅からちょうど30分くらいだった。発車スケジュールを表示した電子看板には、「G5 SHhongqiao 7:00 14 Waiting」と出ていた。Gは高铁(gaotie)の略で、数字が小さくなるほど速く、グレードが高い車両であることを示している。复兴号のような最速列車はまだ1日に数本しか走っていないため、チケットはすぐ売り切れになりやすい。SHは上海の略字でhongqiaoは虹桥の意味だ。7:00は発車時刻、14は搭乗口(ホーム)の番号だ。
 
とりあえず、早めに安全検査を済ませておくことにした。どうやら杭州東駅や上海虹桥駅と同様、一旦2階に上がり、ホームに通じるゲートが開くまで待つようになっているようだった。
 

安全検査はすぐに終わった。ファミリーマートで軽食を買っておくことにした。こびとがコーヒーを飲みたいと言ったので1つ買った。あとは水と包子を買った。包子は売れ筋商品なのか、什器にぎっしりと詰め込まれていた。日本の肉まんよりも一回り小さかったが、種類は豊富だった。コーヒーはセルフサービスではなく、店員がレジの後ろの機械でカップに入れてくれた。おそらく、日本のセブンイレブンのようにセルフサービスにしてしまうと、金を払わず好き放題にコーヒーを持ち逃げしたり、無料のコーヒーだと勘違いして水筒にれる輩が現れる危険性があるから、面倒でも店員がれるようにしてあるのだろう。そう考えると、やはり日本の商売は、今のところは、日本人という秩序の上に成り立っていると言えるかもしれない。
 

レジの左横には、コンドームと大人のおもちゃのコーナーが設けられていた。中国人が田舎へのお土産に買うのだろうか、と想像した。
 

駅の構造は杭州東駅に似ていた。中国ではお馴染みの麦当劳(マクドナルド)や、真功夫などのファストフード店が入っていた。待合所は杭州東駅を一回り小さくしたくらいの広さだった。それでも相当に広かった。東京駅の新幹線の待合所が犬小屋に思えるくらいの広さだった。ホームは23個あった。杭州東駅の30個に比べると確かに小さく感じた。ちなみに東京駅の新幹線のホームは10個あるが、待合所の大きさはこの1/100にさえ満たないかもしれない。東京駅では、みな発車時刻までどこかに座っていたいと思っているに違いない。しかし、東京駅構内は作りが複雑な上にベンチが少なく、飲食店も狭くどこも満席で、立って待たされることも珍しくない。
 
だいたいあんなにクソ高い乗車料金を取っているのだから、最低限、荷物のX線検査やボディチェックなどの、空港なみの安全検査を行って乗客の安全を確保すべきと思うが、平和ボケと儲け第一の過密なダイヤが相まって、今後も改善される余地はなさそうだ。乗客が焼身自殺を図ったり、台車に亀裂が見つかったり、線路上に不審者が侵入したり、日本の新幹線はすでに中国の高速列車を馬鹿にできぬレベルの、危うい乗り物になりつつある。ちなみに中国の高速列車の乗車料金は、日本の新幹線の1/2~1/4くらいだ。だいたい東京-熱海くらいの距離なら、2,000円もあれば往復できる。
 

出発30分前にゲートが開いた。どうやら駅によって開く時間が異なるらしい。とりあえず撮影のため、ホームの先まで歩いた。


すると、ホームの先頭に立っていた駅員らしきジジイが、これ以上先へ入るなとばかりに手を上げてジェスチャーしてきた。隣には旧式の和谐号が停車していた。やはり、デザインに関しては、日本の新幹線の方が優れていた。こびとが复兴号の前で写真を撮ってくれと言ったので、1枚撮ってやった。手振れで上手く撮れていなかったが、2枚目を撮る時間がなかった。
 

复兴号は定時で出発した。車内は清潔だった。和谐号に比べると、かなり高級感が増したように思えた。車内の質感は、ロマンスカーやスカイライナーよりは格上で、新幹線と比べてもデザインに野暮ったさがなく、洗練された感じだった。席番号などの表示は全てLEDになっており、識別が容易であった。
 
窓の横には安全锤(緊急脱出用のハンマー)が設置されていた。これは和谐号からの標準装備だ。ちなみに、中国では未だに置き引きが多いから、荷物棚に荷物を置く場合は、目の届く場所に置くのが賢明だ。可能であれば、手元に置いておくのがベストだ。特に中国南方では乗客が寝ている隙に背後から手を伸ばして荷物を取り、中身を抜いて戻す、という手口の犯罪が非常に多いそうだから、用心しておくのが賢明だ。
 

和谐号と同様、餐车(食堂車)もあった。日本の新幹線の食堂車は数年前に廃止されたと記憶しているが、食堂車を見ると、昔父親と乗った0系の新幹線を思い出して懐かしい感じがした。その他の設備には、开水(白湯)を飲むのが好きな中国人には必須の电茶炉(湯沸しボイラー)、感应端门(自動ドア)、内显(LEDディスプレイ)、电源插座(USBソケット)、大件行李存放处(スーツケース置き場)、厕所紧急呼叫按钮(トイレ緊急呼び出しボタン)、紧急制动手柄(緊急手動ブレーキ)、灭火器(消火器)、防火隔断门(防火扉)、应急梯(応急はしご)、防护网(防護網)、过渡板(アルミ製渡し板)などがあった。防护网は何に使うのかは不明だった。このように、一応、最低限の設備は整えられていたが、時速350km以上で走行中、乗客がいたずらで手動ブレーキを作動させる恐れはないのかと思ったりするが、実際のところはどうなのだろう。
 

北京から天津までは約30分だ。窓の外は曇りだったが、雲の合間から太陽が見え隠れしていた。暇つぶしに、シートのポケットに入っていた、服务指南と記された冊子を開いてみることにした。1ページ目は目次かと思ったら、「禁煙」とだけ、大きな文字で書かれていた。これは衝撃的な雑誌の展開だった。表紙をめくった途端、1ページ目に「禁煙」などと記された書など、一度もお目にかかったことがない。
 
2ページ目からは「文明乘车」と記された項目が図解入りで10ページほど展開していた。要するに乗車マナーに対する警告、啓発らしかった。中国では最近、TVCMでも文明という言葉を頻繁に使って国民のマナー向上を促している。まぁ確かに、以前に比べれば、公共における中国人のマナーは改善しているように感じられる。日本では、企業の金儲けが優先されているからか、ポポポポーンのようなマナーに関するCMなんて滅多に放映されない。本来、日本人はマナーが良かったけれど、今後DQNの遺伝子が増え続ければ、中国人よりもマナーが低下する可能性があるかもしれない。
 

冊子には禁止事項として、ドリアンを食べようとする子供の挿絵とともに「ヘビーな食品は食べないで下さい」とか、「車内設備を破壊しないで下さい」、「無賃乗車はお止め下さい」、「土足で座席に上がらないで下さい」、「食堂車での長時間の休憩はお止め下さい」、「iPad」を「Paid」と誤記したうえで「充電はしないで下さい」、「車両の上には上らないで下さい」、「尖ったもの、燃えやすいもの、爆発しやすいもの、放射性物質などは持ち込まないで下さい」、「線路内には侵入しないで下さい」、「停車時間はわずかですから、停車中に降りて煙草を吸ったり、写真撮影しないで下さい」などと記されていた。無賃乗車などは乗客に実害がないからまだいいけれど、流石にドリアンや放射性物質を持ち込まれたら最悪だが、中国人ならやりかねない。まぁ、やりかねないから書いてあるのだろうが。挿絵は下手くそだったが、中々面白かった。冊子をペロペロとめくりつつ、やはり私は文明人であるなと改めて再認識した。
 

冊子には「テーブルの上に突っ伏すのは止めて下さい」と記されていたが、ふと左の座席に目をやると、禁止姿勢でスマホをいじるBBAがいた。この分だと、BBAが文明人になるのは先のことだろうな、と思った。きっとあの座席のテーブルは、ひん曲がって使い物にならないだろう。
 

乗務員は乗車券のチェックをしたり、棚からはみ出した荷物を整理したり、忙しく動いていた。見た目はキャビンアテンダントのようであった。残念ながらテーブルに全体重を預けていたBBAが注意されることはなかった。
 

服务指南を読み終えたので、さらに、冊子と一緒にシートポケットに入っていた雑誌を読むことにした。表紙には上海人とはほど遠いモデルが載っており、題字は「上海鉄道」と記されていた。鉄ヲタが興奮しそうな表紙だった。巻頭の特集記事は、やはり复兴号の営業開始に関してだった。2ページ目に写っていた駅員の女が体型に見合わぬ巨乳で、シリコンでも入れているんだろうか、と想像した。
 

AIでネイルをする機械が開発されたという記事があった。鉄道ネタとは全く関係ないのに何で載っているのかは不明だったが、中々面白い記事だった。ネイル自動機はAIを内蔵しているため、動作が緻密で、図案は1万種以上、人力だと1時間かかるがAIだと20秒で終わり、価格は1回1元(約17円)程度らしい。
 

中国のAI事業は、特許数ですでに世界トップのアメリカを凌いでいるとか、凌ぐ勢いだとか言われているけれども、きっとSpotMiniやビッグドッグのようなロボットが実用化されるのも時間の問題だろう。

走行を開始して10分ほどで、复兴号の時速は300kmを超えた。時速300kmを超えると、車内に凄まじい、ボワンボワンというハウリング音が響き始めた。さらに、時速350kmを超えると耐え難いほどで、大半の乗客は平気そうにしていたが、私は一刻でも早く降りたくてたまらなくなった。こびとは中国人と同様、平気そうであった。
 
基本的に中国人は、騒音に対する耐性が異常なほど強いから、何とも思わないのであろう。しかし、私のように充電器のコンデンサーの音さえも拾ってしまう聴覚過敏な人間にとっては、拷問のようであった。
 
きっと、線路や車輪、車体の形状に問題があるがゆえに、この不快なハウリング音が一定速度以上で起こるのであろうな、と想像した。日本のスカイライナーでも、一定区間で似たような現象が僅かに感じられるが、とにかく复兴号のそれは酷過ぎて、最短距離の切符にしておいて良かった、と思った。
 
私は気を紛らわせるため、アイフォンで外の風景を撮ることにした。しかし、シャッター音が気に喰わぬのか、前に座っていた中国人女が、ヒステリックに窓のシェードをバッと降ろした。女は寝入っている途中らしかったが、確かにアイフォンはアップデートしてからシャッター音がアホみたいにうるさくなったから、仕方がないな、と思った。

しばらくすると、乗務員の女性がポットとコーヒーを持って、車両の先頭から練り歩きだした。コーヒーは有料らしく、買う人はほとんどいなかった。天津南駅に着く手前になると、今度は乗務員がゴミを集め出した。これも和谐号と同じシステムだった。和谐号では青い垃圾袋(ゴミ袋)だったのに対し、复兴号ではカートタイプのゴミ箱だった。事前にゴミを集めておくことで、従業員の清掃の手間を軽減させることが目的なのだろう。合理的な中国人の考えそうなことだ。
 

天津付近はスモッグがかかっていた。往路を天津南駅、復路を天津駅までのチケットにしたのは、天津駅と天津南駅の両方を見ておきたかったからだった。天津南駅は予想通り、閑散としていた。降りる人もほとんどいなかった。ほとんどの人は途中下車せず、終点の上海まで向かうのかもしれない。たとえハウリング音が反響しようとも、复兴号は北京-上海間、約1,300kmを片道550元(約9350円)、4時間30分で結ぶのだから、多くの中国人は助かっているのだろうな、と思った。1,300kmというとだいたい青森から広島くらいまでの距離だ。
 

天津南駅で降りる人はほとんどおらず、駅付近には特に何もなかったので、地下鉄に乗って天津駅まで行くことにした。とりあえず、天津南駅がどんなもんか見ることが出来て満足した。
 

天津では一卡通が使えぬため、改めて切符を買わねばならなかった。券売機の仕様はほぼ北京や上海と同じだった。しかし、金を入れて出てきたのは緑色のコインだった。どうやらこれを改札に入れるらしかった。
 

一応、記念に天津地铁刷卡を買っておくことにした。特惠票と書かれていたから、恐らく日本のパスモと同様、現金よりもいくらか割引されるのだろう。
 

平日なのと観光地でないのとで、我々以外の乗客は全員、上班途中の本地人という雰囲気だった。みなスマホをいじっていた。デジタルアプリケーションが進んでいるせいか、車内を見回してみても、スマホ依存度は日本より酷い感じだった。
 
天津駅には8時過ぎに着いた。帰りの乗車券はすでに日本から予約しており、15:31天津発北京南行きのC2060に乗って北京へ戻る予定だった。しかし、明るいうちに三里屯へ行けるよう、もっと早い時間の乗車券を買いなおすことにした。中国では高速鉄道の乗車券は平日でもすぐに売り切れになってしまうから、一刻も早く窓口に並ばねばならなかった。面倒なことに、チケット売り場に行くためには、もう一度安全検査をしなければならず、行列に並ぶことになった。安全検査は2ヵ所しか設置されておらず、通勤客らしき人々で大渋滞していた。
 

行列の横では、いかにも中国人が考えたような清掃カーが走っており、BBAが地面に荷物を置いていた人々を蹴散らしながら床を磨いていた。
 

しばらくすると、行列に無理矢理横入りし、前へ進んで行くBBAの集団が見えた。BBA達は、列車の発車時刻が迫っているが何としてでも乗ってやるぞ、という雰囲気を放っていた。安全検査は荷物のX線検査と、金属探知機を使ったボディチェックがあるため、1人ずつしか通れないようになっている。それゆえ、行列の動きが緩慢で、BBA達は安全検査目前まで辿りついたものの、係員に阻まれ、イライラが頂点に達している様子であった。係員は尖端に「×」印がついた棒を持って通行をコントロールしていたが、とうとう、しびれを切らしたBBA達が検査を無視し、突入を開始した。若い男の係員は制止を試みたものの、BBA達の集団パワーには敵わず、あきらめた素振りを見せた。すると、他の乗客もここぞとばかりに、どさくさに紛れて、笑いながら、嬉しそうにゲートを突破し始めた。混乱はこうやって起きるんだなぁと思いながら傍観していたが、BBA達がいなくなって数分経つと、何事もなかったかのように行列に秩序が戻った。
 

平日だからか、窓口はそんなに混んでいなかった。無愛想な係員に一番早い時間の列車を頼むと、11:05発のC2028を提案された。発車時間まで2時間ほどあったが、とりあえず即決した。予想していたよりも早い時間の列車に乗ることができそうで、安心した。
 

改札から離れると、駅構内は比較的閑散としていて、まだ昼前だからか、飲食店もガラガラだった。扉に「服务第一(サービス第一)」と書かれた飯屋があったが、店員が客そっちのけで、のんびりと飯を喰っていた。
 

服务第二な飯屋の隣にはセブンイレブンらしき店があった。天津にもセブンイレブンがあるんか、ちょっと入ってみようかと思って近づいて見ると、明らかに偽セブンイレブンだった。看板には「86便利」と書いてあったから、8時~18時まで営業しているのかもしれない。
 

列車の発車時刻まで、外を散策することにした。構内から出ると、大きな広場があった。広場には習近平と共産党を称え、中華民族が大復活を遂げることが中国の夢である、というような文言が記された赤い横断幕が吊るされていた。横断幕の左端には地球連邦軍のような共産党の黄色いロゴがあった。月曜日の午前ゆえか、広場には清掃員のオバハンがいるだけで、ガランとしていた。とりあえず、構内から出て、駅の外観をカメラに収めることにした。
 

駅前の通りを少し歩いてみることにした。北京に比べると、拍子抜けするくらい人が少なかった。街自体は綺麗にリノベーションしたばかりのようで、汚らしい感じは無かった。
 
 
天津駅前にも、シェアリング用の自転車が沢山置いてあった。何気なくモーバイクのタイヤをみてみると、パンクしないタイプのタイヤになっている車両があった。日本でも最近はノーパンクタイヤが流行っているけれど、日本のメーカーのようにスポークもリムもアッセンブリーですべて交換しなければならないようなモノはより、中国メーカーのように既存のホイールに組み込めるタイプの方が遥かにスマートで経済的だ。日本では知られていないが、ルーマニアでは、10年ほど前に進出した中国の自転車メーカーであるDHSが成功を収めており、現在の製造技術のレベルは、アメリカ大手のメーカーをすでに凌いでいると言われている。

本当は、天津大胡同商業区や古文化街などを散策して、本場の天津甘栗や狗不理本店の包子を食べる予定だった。時間に余裕があれば、数年前に天津郊外で起きた、謎の大爆発の現場も徘徊するつもりだった。習近平を暗殺するためのテロだとか、アメリカが地球上空から新兵器を使ったとか密かに噂されていたほどの大穴が開いたそうだが、現在ではすでに、何事もなかったかのように芝生を敷き詰め公園にしてあるそうだ。
 
とりあえず、駅へ戻ってどこかで休憩することにした。そのまま来た道を戻るだけではつまらないので、大通りを渡って、反対側の歩道から駅へ戻ることにした。
 

横断歩道を渡ると、交差点に三輪車を停めている迷惑なBBAがいた。BBAは70歳を超えている感じで、ドアを開けっ放しにしたまま、地元民らしきジジイと立ち話をしていた。BBAは片手に包子を持ち、ムシャムシャと下品に喰らいついていたが、我々を見るや否や「あんたらどこへ行くんだ!三輪車に乗って行け!」と漫画太郎のババア風に叫んだ。BBAはかなり訛っている上に、口をモゴモゴさせた状態でしゃべるもんだから、半ば何を言っているかわからなかった。とにかく客を欲しがっていることだけはわかった。私とこびとは中国語がわからないフリをして、無視することにした。

駅構内には飲食店が10店舗ほど点在していたが、どこの店も似たり寄ったりで雰囲気がよろしくなかった。気軽に長居できそうなマクドナルドに入ることにした。日本のマックは店舗数がかなり減ってしまったが、中国では大きな駅なら必ずマックがあるような具合で、未だ健在だ。まぁ、原材料の如何は別として、お馴染みのモノが、同じような店内で食べられるのはよろしいことだ。何せ異国の地で怖いのは、わけのわからぬ飯が出てくることであって、外国でも既知の食べ物が食べられる安心感というのは、マックの強みなのかもしれない。店内のレジはほとんど機能しておらず、入口すぐ左にある機械で注文をするようになっていた。
 

機械の上には、「在此点餐(これで注文しろ)」と書かれた黄色い看板が据えられていた。どうやら何とかして客がレジへ来るのを阻止してやろう、という魂胆らしかった。仕方がないので画面をタッチすると、「堂吃(イートイン)」か「外带(テイクアウト)」かを選ばせる画面が出た。日本と同様、モーニングメニューがあり、サイドメニューも細かく選べるようになっていた。ハンバーガーはほとんどが中国オリジナルだった。
 
とりあえず適当に選んだ。サイドメニューに油条が含まれているのはいかにもな感じだった。中国北方人の好みに合わせているのだろう。ジュースも豆乳など中国オリジナルのものがあるが、基本的には日本と似ていた。中国の飲食店では基本的にいわゆる「お冷や」は出てこないから、飲み物を別で注文するのが普通だ。メニューを指さして「これをくれ」と言えば確実だけれども、ファストフード店ではレジの上にだけメニューが掲示されているだけの場合もあるから、中国へ行くなら基本的な飲み物の名前は暗記しておくのがよろしい。
 
例えば、芬达(fenda)は日本でもお馴染みファンタのことだ。ちなみに、中国では橙(オレンジ)、苹果(りんご)、葡萄(ぶどう)、青柠(ライム)、芒果(マンゴー)、水蜜桃(もも)、菠萝(パイナップル)、西瓜(すいか)などの味がある。拿铁(natie)はラテ、雪碧(xuebi)はスプライト、热朱古力(rezhuguli)はホットココアのことだ。
 
一般的に、普通话ではチョコレートのことは巧克力と言うけれど、広州、香港、澳门(マカオ)などの広東語圏では朱古力を使うことが多いそうだ。また、巧克力朱古力のほかにも巧古力、巧格力、朱古力、朱古律、查古律、查古列、诸古力などと言ったりするらしい。可可はカカオまたはココアの意味があるが、ホットココアは北方でも热朱古力と言ったりするからややこしい。
 
結局、何故か機械では正常に支払いが処理されず、「レジへ行け」という文言が画面上に出たので、レジへ行って支払うことにした。最初からレジにしろや、と思った。
 

厨房とレジには無愛想なオバハンが3人立っていたが、日本のマクドナルドと同様、注文したモノはすぐに出てきた。店内中央の大きなテーブルで食べることにした。味はまぁまぁだった。何気なく店内を見回すと、向かいの席に農民らしき風貌の浅黒いジジイが座っているのが見えた。ジジイのテーブルの上には何も置かれておらず、ただ休憩するためだけに店内に入ってきている様子だった。店内は広かったが、客は10人くらいしかおらず、静かで快適だった。そういえば、中国の飲食店では、発狂した子供を放置して会話に夢中になっているようなDQNを見かけることがほとんどない。日本も一昔前は、ある程度子供と言えども節度があったものだが、最近はキチ〇イみたいな親子が増えて、落ち着いて外食できる機会が極めて少なくなってきたように思う。


マクドナルドで30分ほど休憩し、早めに待合室へ移動しておくことにした。驚いたことに、天津駅では、高速鉄道に乗るために通る安全検査は2重になっていた。きっと、天津で謎の大爆発があったせいで、警備を強化しているのだろうな、と想像した。
 
2つめのブースでは、6人の係員がパスポートをチェックしていた。大半の乗客は中国人で、みな2つ目の検査をスンナリと通過していた。しかし、係員の男2人は我々を見るなり、「ちょっと待て!あんたら美国人(アメリカ人)か?」と聞いてきた。無事に通過できると思い込んでいたもんだから、急に止められて少し驚いたが、紅いパスポートを開いて「日本人ですが」と言うと、「なんだ日本人か」と言ってアッサリと通された。
 
だいたい、中国人はマスクをしていると日本人、サングラスをしているとアメリカ人、とみなす場合がよくある。この時は、私もこびともレイバンのサングラスにパタゴニアのジャケット、カリマーのバックパック、ナイキのスニーカーという欧米のバックパッカーのような格好をしていたから、チャイニーズアメリカンとでも思ったのかもしれないな、と想像した。
 

待合所には使われていないパトロールカーがあり、乗客の休憩所になっていた。確か杭州駅では、宣伝のために展示されている新車を休憩所がわりにしているDQNがいた。中国人はどこでも座る習性があるから、座られて困るような場所には「座るな」と貼り紙しておかねばならない。

待合所には土産店がいくつかあった。どこの店も天津名物である泥人形と甘栗、麻花を置いていた。店内には店員らしき超絶無愛想なBBAが2人いて、特にレジにいたBBAは前科がありそうな恐ろしい人相をしていた。
 

レジではガラス製のショーケースに入ったハーゲンダッツのアイスを売っていたが、あのBBAがアイスをすくう姿を想像すると、買う気にならなかった。それと、水に漬けていたアイスクリームディッシャー が不衛生な感じがした。鳥をモチーフにした小さな剪纸が売っていたので、院内の入口に置いたらいいなと思い、1つ購入した。泥人形はそれほど魅力的ではなかったから、天津名物の甘栗と麻花を買うことにした。
 

麻花というのは小麦粉を揚げた天津名物の菓子で、北京でも売っているが食べたことがなかった。天津甘栗は自分たちで食べる分を1つと、師匠一行にあげる分を4つ購入した。夜には北京市内で師匠一行と落ち合う予定になっていたから、天津土産としてあげたら喜ぶだろうな、と想像した。甘栗のパッケージには、「自然の甘さはヘルシーです」という怪しい日本語と、フランス語らしき謎の文言が記されていた。裏面には河北省産の甘栗が使用されていると記されていた。甘栗の栽培は、古くから河北平原北側の山山脈で行われているそうだ。甘栗の原料である栗は燕山板栗とか、板栗などと呼ばれていて、栄養豊富で不飽和脂肪酸も多く含まれているから、動脈硬化症などに有効らしい。
 
土産店を出たあとは、どこかに座ろうと思ったが、ベンチが空いていなかったので、立っていることにした。ふと横を見ると、左腋にダイエットコークのペットボトルを挟み、ノリノリで踊りながらポテトチップスを食べている太目の男がいた。ポテチ男は終始上機嫌であったが、あまりにも様子が滑稽であったため、こびとが笑い出した。こびとは笑いが止まらぬ様子なので放っておいたが、ポテチ男の横にいた別の男が、自分が笑われていると勘違いし、何故か喜び出すという、ややこしい状況になった。男はこびとが何故笑っているのかを知りたい様子で、ホームに降りるゲートが開くと、我々がエスカレーターに乗るや否や、後ろから近寄り話しかけてきた。


こびとには事前に、聞いてわからぬ時は「我听不懂」と言いなさいと教えておいたから、男が何か言った後、こびとが「ウォーティンブドン」と言った。男は訝しげな顔をしながら「聞いてもわからないと言うが、我听不懂という中国語をしゃべっているじゃないか」と文句を言った。とりあえず、面倒なので私も中国語がわからぬフリをして、男から離れることにした。
 

帰りの列車の席は1号車だった。二等座と呼ばれる普通車的なシートで、1人あたり54.5元(約927円)だった。北京-天津間は高速鉄道で30分だし、乗車料金も安いから、また気軽に来れるな、と思った。日本で言えば、東京-熱海間を移動しているような感じだった。ヘッドレスト部分のシートカバーに加え、車内の棚の下にも広告が貼ってあった。中国人はこういう合理性とドギツさを備えているがゆえに、たった30年で高度成長を遂げたのであろうな、と想像した。
 
上海も北京も天津も、高铁の車窓から眺める風景は似たようなものだな、と思った。基本的に中国では地震が少ないためか、住居棟は高層であることが多い。世界一人口密度の高い東京と比べれば、住居用ビルをこんなに高くする必要もないと思うが、中国人は効率性を重視して人を沢山詰め込むことに重きを置いているのかもしれない。
 
ちなみに、南京でも同様に住居ビルが高層化しているが、ほとんどのビルが1階に電動バイク用の駐輪場と充電設備を備えているため、過充電やバッテリーの違法改造による発火で大規模な火災が頻繁に起こり、社会問題になっている。確かにビルは高層化すれば沢山のモノや人を詰め込むことが出来るし、エレベーターによる垂直移動で体への負担も減るけれども、災害時のデメリットを考えると、とても住む気にはならない。日本でもウォーターフロントの億ションを買って喜んでいる人々がいるけれど、地震と地盤の脆さ、津波のリスクを考えると、安全な田舎にゆとりのある家を建てた方が良いと、個人的には思う。 アメリカでは活断層の上に家を建てることを法律で禁じているらしいが、国土自体が地震の巣にある日本では、基本的には国有地以外なら、どこでも立て放題だ。それゆえ、より安全な場所に住むためには、正しい知識と教養が必要になる。
 

北京南駅には、11:45に到着した。隣に复兴号が停車していたが、改めて実物を見て、ト〇タ並みに酷いデザインだな、と思った。やはり、高速列車のデザインは、日本の新幹線が最も美しい。

北京南駅からは地下鉄4号線で角门西駅まで行き、10号線に乗り換えて、团结湖駅へ向かうことにした。北京には何回も来ているが、三里屯へ行ったことがなかったから、1度くらい行っておこう、ということになった。
 

毎日時間に追われている東京とは異なり、北京の電車の中は暇だ。それゆえ、ベンチに座ると、どうしても向かい側に座っている乗客の足元に目が行ってしまう。ナイキとニューバランスをパクったような、ERKEというブランドのスニーカーを履いている男がいた。中国人は白マスクをしているか否かで日本人だと見なす傾向にあるらしいが、中国人かどうかを判別する場合は、履いている靴がヒントになることがある。ちなみに、私の隣に座っていた男は、皇帝カラーの、本物のオニツカタイガーを履いていた。
 
 

12時を過ぎると急に気温が上がってきて、上着1枚でないと暑いくらいだった。三里屯のある方向はわからなかったが、駅からしばらく歩くと、三里屯の位置を示す標識が見えた。一番下の標識は「」と「」の文字が微かに残っていたが、何故か消されていた。おそらく雅秀市场という文字が書かれていたのだろうな、と想像した。
 
雅秀市场というのは北京で最も有名な、ニセブランドを専門に扱うデパートで、一度入店しただけで、ドギツい店員たちの押し売りで嫌になるという噂を聞いていた。しかし、どんな感じの店が入店しているのか、一度話のタネに行ってみたいと思っていた。
 
三里屯雅秀市场は、同じ北京市内の长安街にある秀水街市场に対して、“小秀水”と呼ばれている。批发市场(卸売市場)だが、旅行者でも買うことができるらしい。ちなみに、秀水街市场は、かつて乔治·布什(ジョージ・ブッシュ)が、来中した際に娘を連れて練り歩き、刺繍入りの寝間着を6着買ったそうだ。北京に来たら“登长城、游故宫、吃烤鸭、逛秀水(万里の長城へ登り、故宮を観光し、北京ダッグを食べ、秀水街市場をぶらぶら歩く)”というのが定番らしいが、ブッシュはその通りにしたようだ。
 
三里屯に続く通りは比較的整備されていて歩きやすかった。13時になる頃であったから、昼食に出かけるサラリーマンと多くすれ違った。外国人観光客も沢山いたが、王府井ほど混み合っている感じはなく、ストレスは少なかった。歩道にはシェアサイクル置き場が随所にあり、ofo製の黄色い自転車が点在していた。mobikeはすでに福岡県に上陸しているが、とうとうofoも和歌山県に入ってくるそうだ。道路も歩道も狭い日本で中国ほどシェアサイクルが普及するとは思えぬが、自動車が減って環境が改善するならば、良いことなのかもしれない。
 

しばらく歩くと、右側にハラル料理を示す緑色の看板を掲げた、イラン料理のレストランが見えた。日本では見たことがない外観で面白かったので、あとで入ってみよう、ということになった。ハラル料理は一度も食べたことがなかったから、これも話のタネになるな、とほくそ笑んだ。
 

レストランの先の歩道には売店があった。中国語では书报亭とか报刊亭などと呼ばれている。书报亭は、90年代、労働者のために都市部に設置されるようになったが、最初は政府主導であったため、経営者の取り分は少なかったそうだ。しかし、市場経済が発展する2004年頃になると、地方からの出稼ぎ労働者が都市に大挙して押し寄せるようになったため、书报亭で取り扱う商品の種類も増加し、売り上げが激増したらしい。
 
また、この頃は携帯電話を持っている人は稀であったため、公衆電話を併設したことで、顧客が増えていったようだ。例えば、西安では、どの书报亭も月収が20000元を超えていたというから、かなり儲かっていたのだろう。今でさえ、中国では月に5000元稼げれば良い方なのに、当時の物価で20000元となれば、相当な金額だ。
 
しかし、2008年の北京オリンピック開催が決まると、道路工事拡張や通行障害、見た目の悪さなどを理由に、书报亭の強制撤去が始まった。これが、书报亭没落の第一波となった。2013年には郑州市(鄭州市)内全ての书报亭が撤去された。薄利多売のせいもあり、全国的に书报亭は消えつつあるようだ。最近はスマホが普及して、公衆電話を使う人も、新聞や雑誌を買う人も減っているし、無人コンビニなんかも現れているもんだから、书报亭が完全に無くなるのは時間の問題かもしれない。
 
三里屯での最初の目的地は、ロンリープラネット(Lonely Planet)という欧米系バックパッカー御用達の旅行ガイドブックで、「世界で最も魅力的な10大カフェ」の1つであると紹介されていた、老书虫书店というブックカフェだった。新宿あたりを歩いていると、ロンリープラネット片手に単独で行動している本当に孤独そうな欧米人を頻繁に見かけるが、そんな人気のある本であるから、老书虫书店はさぞや素晴らしいカフェなのであろう、と楽しみにしていた。
 

歩道橋を渡って反対側の歩道へ下りると、シェアサイクルが異様なくらい並んでいた。なんとなく、自動車よりも自転車が優位な、自転車大国オランダもこんな感じなんだろうか、と思った。
 

老书虫书店の場所は、事前に地図で調べておいたから、迷わず見つけることができた。まるで神田や神保町の路地にありそうな小ぶりなビルで、想像していたよりも味気ない外観だった。
 
店は2階にあり、当然ながら階段を上って中に入った。日本の店なら、「いらっしゃいませ」と店員が出迎えてくれるものだが、誰も出てこないので、適当に中を徘徊した。入口の先には、正方形のテーブルが数個と、バーのようなカウンターが見えた。メインの部屋の奥は左右2つの部屋に分かれていて、どちらの部屋も壁一面が本棚になっていた。本は洋書ばかりだった。
 
とりあえず、左側の部屋の真ん中にある、テーブル席に座ることにした。窓側の席には、アメリカ人らしき中年女性4人が向かい合って座っており、ケーキを食べながら何やら話していた。本棚近くの席にはお独り様らしき若い中国人が散らばっていて、それぞれマックブックやらスマホをいじってマッタリしていた。
 

椅子に腰かけるや否や、どこからともなく私服姿の女が現れ、英語で話しかけてきた。どうやら店員らしかった。このカフェは北京在住欧米人の溜まり場になっているためか、店員は英語を使い慣れている様子だった。何か飲み物を頼めというので、バナナミルクを2つ注文した。代金は先払いだった。こびとは注文したドリンクが来るまで、本棚に並べられた洋書を眺めていたが、面白そうな本は無さそうだった。
 
ほどなくしてバナナミルクが運ばれてきた。しかし、 什刹海皮影文化主题酒店で出されたモノと同様、氷が入っておらず、不味くて飲めたものではなかったが何とか飲み干した。全く中国人は、ミキサーにフレッシュなバナナと牛乳、氷を入れてクラッシュさせたあの美味さを知らぬのか、と思った。大して心地よくなかったので、すぐ店を出ることにした。
 
老板らしき小太りの男に、「このあたりの最寄り駅は团结湖駅だけか?」と問うと、男は「そうだ。团结湖駅が一番近い」と言った。三里屯ヴィレッジまで行ったら、帰りは駅まで15分くらい歩かねばならぬと思うと少し嫌になった。
 
カフェから三里屯ヴィレッジまでは、歩いて2分くらいだった。三里屯のランドマークとも言える、太古里と呼ばれるビルは、日本で有名な建築家である隈研吾氏の事務所がデザインしたそうだ。カラフルで、フラッシュアニメに出てきそうな外観は、中々面白かった。ちなみに、ここのユ〇クロは、2015年7月、女優を自称するアホな高校生の女と、DQNな19才歳の男が試着室 (试衣间)で猥褻な行為に及び、ネット上でその動画を公開して逮捕された事件の舞台になった、とウェブ上で語られている。そんなわけで、そういう裏事情を知っている人間がここへ来ると、隈研吾氏が手がけた芸術的な外観を眺めても、あの事件のアレが頭をかすめてしまい、純粋にアートとして鑑賞できぬかもしれない。
 

広場の中央には、なぜか天使の羽らしきオブジェが3つ設置されていた。ティーンエイジャーらしき女がそこでポーズをとるたびに、カメコらしきキモヲタな雰囲気の男たちが、密かにシャッターを押していた。リュックを背負い、首から一眼レフをぶら下げたキモ男は数人うろついていたが、露出度の高い女や可愛い女の子が歩いていると、すかさずカメラを構え、無許可でシャッターを押しまくる、という具合だった。中国では、露出度の高い美人を街中で盗撮する路人街拍という行為が、未だ放置されている。日本なら、自称フェミニストや、教室のゴミ箱でたむろしていたような女達が「盗撮だ!」とか「痴漢だ!」などと騒ぎ立てるかもしれない。ちなみに、路人街拍街拍とも言うが、どうもイケイケタイプの中国人女は、盗撮されることを密かに心待ちにしているようなフシがないでもない。
 
ちなみに、中国では日本と同様、出会い系サイトによる集金詐欺が流行っているが、その時にサクラが用いる美女の画像は、すべてウェブ上からの拾い物である、と犯人一味がCCTVで証言している。きっと、こうやって盗撮された美女の画像は勝手にウェブ上で売買されたり、犯罪に使われているのだろう。日本でも未だにSNSなどで自分の写真や親族、子供の写真を晒している哀れな人がいるが、無知とは本当に恐ろしいものである。
 

三里屯の奥にも飲食店や服屋が並んでいたが、どこも閑散としていた。
 

とりあえず、三里屯を離れ、裏道を通って大通りへ戻り、雅秀市场を探すことにした。大通りには高層ビルが林立していたが、このあたりはIT系の会社が多いそうだ。
 
雅秀市场のあるはずの場所へ行っても、それらしき看板が見当たらなかったので、近くを歩いていたオバハンに聞いてみることにした。すると、オバハン曰く、雅秀市场は閉店したばかりだ、とのことだった。オバハンが「雅秀市场はあの歩道橋を渡った向こう側にあったんだよ」と親切に教えてくれたので、とりあえず、行ってみることにした。
 

オバハンに言われたとおり、歩道橋に上ると、目の前に「雅秀」と書かれた茶色い建物が見えた。遠目に見ても、明らかに閉店していることがわかった。
 

ドアはすべて閉め切ってあり、中に入ることはできなかった。ドアには共産党を支持するような、怪しげなポスターが貼ってあった。党大会を控えていることもあり、外国人に悪いイメージを与える偽ブランド市場を一掃すべく、当局の手が及んだのであろうな、と想像した。北京市内ではこれまでと変わらず、そこら中で偽ブランド品が堂々と売られているが、ここまで肥大化した偽ブランド専門のショッピングモールは目立つため、建前上、殲滅させておく必要があったのだろう。しかし、生きるために日銭を稼がなければならぬ商人たちは、場所を変え、アノ手コノ手でこれまで同様、阿漕(あこぎ)な商売を続けているに違いない。
 

雅秀市场を見ることができず残念だったけれど、歩き回って腹が減っていたので、先ほど通り過ぎたハラル料理の店に入ることにした。すでに14時を過ぎていたためか、店内には数人の中東系人と、30代前後と思しき中国人女2人が席を埋めているだけだった。我々が窓側の席に座ると、店内の隅で暇そうに立っていた若い男の中国人店員が早速メニューを持ってきた。羊肉の素朴なメニューが中心であったが、中には烤羊宝(羊の睾丸焼き)や鸟舌头汤(鳥の舌のスープ)など、日本人が受け入れ難そうな料理数種があった。価格は結構お高めだった。何が美味いのか不味いのかわからなかったので、明らかにヤバそうなモノは避けて、無難そうなモノを注文することにした。
 

羊肉宝は羊ひき肉をパンに入れて焼いたもので、臭すぎて1口でダメだった。烤羊肝は羊のレバーを焼いたもので、何故か上にピザが載っていたが、レバーが異常に生臭く、これもダメ。烤四季客はフライドポテトの上に羊のソーセージが載っていたが、ドイツのソーセージとは対極にあるような強烈な生臭さで、結局肉類は一切食えなかった。すべて残したら料理人が包丁を持って追いかけてくるかもしれないと予想し、なんとかフライドポテトだけは完食した。柠檬薄荷汁(レモンミントジュース)も、伊让酸奶(イランラッシー)もイマイチだった。中国の羊肉串は美味いのに、なぜにここの羊の肉はこんなにも不味いのかと不可解に感じたが、手早く会計を済ませて外に出ることにした。とりあえず、口直しに何か飲みたかった。
 

駅前まで戻ると、ちょうど業者がレンタルバイクを整頓していた。
 

地下鉄に乗り、雍和宫へ行くことにした。16時に着いて、何とか16:30の閉門前に間に合った。チケットを購入し、門をくぐると、右手にある赠香处と書かれた小屋の前で、オッサン2人が無料の線香を1束ずつ配っていた。中国では昔から叩頭と呼ばれる、五体投地のような礼の仕方が見られるが、仏閣でも同様にして焼香するのがルールになっている。白人や黒人は見様見真似で焼香していたが、どうもぎこちなかった。日本人は比較的神社仏閣に馴染みがあるせいか、ぎこちなさが少ないようだった。珍しい光景のためか、他人が焼香している姿を、無許可で撮りまくっている白人系外国人が沢山いた。我々も何枚か撮られたようだった。
 

いくつかの仏閣を巡ったあと、土産屋へ入った。何故か黄帝内経の本が売られており、1冊購入した。日本では、昔から怪しい注釈書が数種売られているけれど、黄帝内経がどんなもんかとりあえず読んでみたいというならば、これを読むと良いかもしれない。図版が豊富で中々読みやすい本だ。
 

雍和宫を出たあとは、北新桥駅方面へ少し歩いた場所にある、沈香博物館へ行くことにした。ここは、確か2~3年くらい前にできた店で、博物館というよりは、上級のお香を扱う高級仏具店という感じだった。
 
本物の沈香は世界的にも希少価値が高く、日本では人工的な香料が入ったお香ばかりが流通しており入手が困難だけれど、中国では比較的良質なお香が手に入りやすい。この通りは観光地ということもあり、価格設定が高めで、徳川家康が好んだような最高級の沈香は、30本入りで数万円以上なんてのがザラだった。
 
人相の良い女店主は数種のお香を試させてくれて、結局、初めて買うものだから、30本入りで5000円のものを1箱買ってみることにした。これは確かに本物のだったようで、自宅で炊いてみたら、市販のお香とは別格の、嫌みのない優しい香りがした。中国の物価にしてみたら1本1000円以上はするお香だから、一部の富裕層しか買えないのだろうが、そうは言っても徳川家康が愛用していたお香を試せると思えば、安いものかもしれない。 
 

沈香博物館の向かい側の店では、曼荼羅を描いていた。中国では曼荼羅のことを卡(tangka)とか唐嘎、唐喀などと呼んでいるが、そもそも曼荼羅はチベット発祥だから、チベット語を音訳した言葉だ。唐卡はいわゆる宗教絵巻みたいなモノで、庶民が仏教教義を理解しやすいように視覚化したものだ。また、唐卡は装飾品としても人気があり、雍和宫の土産屋でも売っていたが、結構価格が高かった。唐卡には金、银(銀)、珍珠(真珠)、玛瑙(メノウ)、珊瑚(サンゴ)、松石(ターコイズ)、孔雀石(マラカイト)などの希少な鉱物系顔料や、藏红花(サフラン)、大黄(ダイオウ)、蓝靛(ランテン)などの植物性染料などが用いられているそうだ。また、小さなものでも1枚あたり半年、大きなものだと十数年以上の制作時間を要することなどが、唐卡の価格を引き上げざるを得ない要因のようだ。
 
ここで制作されていた热贡唐卡は、15世紀頃に青海省黄南チベット族自治州で始まった民間美術の1つで、数百年もの間、多くの作品を生み出し続けている。そのため、黄南チベット族自治州は“藏族画家之乡(チベット族画家の故郷)”と称され、热贡唐卡を含む热贡艺术は、国家級非物質文化遺産リスト入りしている。 
 

雍和宫大街の歩道には、将棋や麻雀をやっているジジイがいた。通行人が足を止めて眺めていたが、1人だけ、怪しげな欧米系老人の男がいた。こびとが男に英語で話しかけると、男は二言三言喋り、どこかへ行ってしまった。なぜか、男の左胸には北朝鮮の国旗のピンバッジが付いていた。
 

この日は師匠一行が北京入りする予定で、19時に东交民巷饭店のロビーで落ち合う約束をしていた。ちょうど17:30になったところで、まだ時間があったので、北新桥三条雍和宫大街の交差点にある商店を冷やかすことにした。ここは主に八百屋として機能しているが、米や中药材(生薬)、調味料、加工食品なども豊富で、いつも地元民で賑わっている。中国では、こういう街中の商店で漢方薬が簡単に手に入るから便利だ。
 

類は基本的に、昔ながらの方法で量り売りしていた。種類は豊富で、特に中国北方の人々が好むキビはよく売れているようだった。
 

商店を冷かしたあとは、北新桥三条を通り、一旦ホテルへ戻って少し休憩することにした。夕食時だからか、胡同の総菜屋にも人だかりができていた。
 

东交民巷饭店には19時ちょっとすぎに着いた。最寄り駅は王府井か崇文门だが、崇文门駅からの経路のほうがわかりやすかったので、崇文门駅から歩いた。今回、師匠一行が乗る飛行機はパキスタン航空で、定時では14:25発だったが、おそらく遅れて出発するだろうと予想していた。師匠は未だにガラケーで微信なども使えず、連絡が取れぬから、ひたすら待つしかなかった。
 
2010年に師匠と北京入りした時、成田空港からパキスタン航空を利用したことがある。往路では4時間遅れ、空港職員から渡された1000円分の食事券を使い、師匠と2階のレストランで時間をつぶした。往路の機体はボロく、機内で客とCAがどつき合うトラブルがあったし、復路も1時間ほど遅延したもんだから、師匠もPKは2度と利用することはないだろうと思っていた。
 
しかし、師匠は北京入りする際、基本的にホテルや飛行機の予約は他人任せにしているもんだから、今回、知らぬ間にパキスタン航空を予約されていたらしい。だいたい、党大会前で北京市内は厳戒態勢であるのに、毛沢東の遺体が安置されている毛主席記念堂からほど近い东交民巷饭店を予約するなんて、テロリストと間違われそうで私にはできない。まぁ中国は色々と特殊な事情があるから、中国に関する知識が乏しいと、トラブルに巻き込まれやすいのは事実だ。
 
とりあえず、ホテルのフロントへ行き、師匠一行がチェックインしているかどうかを確かめることにした。どうやら、まだチェックインしていないようだった。ホテルのロビーは狭く、椅子が4つ置かれているだけだった。壁際にある2つの椅子は、近所で警備員をしているらしき、制服姿のジジババが占拠していた。休憩中か出勤前なのだろうが、近場のホテルのロビーを利用して休憩するとはいかにも中国人らしいな、と思った。
 
 

しばらくホテルの向かい側にあるビルの下に座って待っていたが、肌寒いので、ロビーで待つことにした。党大会を明日に控えているせいか、ホテルの入口には携帯型の金属探知機を持ったスタッフが立っていた。しかし、金属探知機を持って当局の顔色を伺っているだけの様子で、宿泊客を装っていればチェックされることはなかった。
 
スマホでパキスタン航空の運航状況を調べようとしたが、何故か電波状況が悪く、繋がらなくて困ってしまった。おそらく、党大会前日ゆえに、当局が電波に規制をかけている様子だった。特にこの辺りは官公庁エリアだから、妨害電波などが強く出されているのだろうな、と思った。フロントの横にはデジタルサイネージだかIoTらしきモニターがあり、天気や観光情報のほか、飛行機の運航状況が調べられるようになっていた。一部の情報は規制がかかっているためか見ることができなかったが、何とか師匠一行が乗る飛行機はPK853であることを突き止め、到着時刻を調べることができた。
 
PK853は予定よりも1時間遅れで、18:13、北京空港に無事到着したようだった。何だかんだで入国審査を通過してここまで来るとなると、優に1時間はかかるだろう。とりあえず、無事飛行機が到着したことがわかり、ホッとした。この時、すでに空港線に乗っていた師匠は同行していたHさんに「メールでも送っておいた方が良いんじゃないの」と言い、Hさんが私にメールを送っていたらしい。しかし、電波状況が悪く見ることができなかった。
 
20時を過ぎた頃、やっと師匠一行がホテルに到着した。今回、師匠に同行していたのはHさん、Fさん、Yさんの男3人だった。基本的にホテルは2人部屋だから、偶数で北京入りすることになっている。Fさんとはすでに顔見知りであったが、HさんとYさんは初対面だった。Hさんは何故か落ち着きがなく、忙(せわ)しさと、ガツガツ前にでる感じがあったためか、師匠は露骨に嫌そうな顔をしていた。Yさんは対照的に落ち着いており、寡黙そうな感じだった。私は挨拶がてら、数時間前に天津で買っておいた甘栗を1人1人に手渡しした。
 
ホテルのチェックインはスムーズに終わり、部屋割りを決めることになったが、予想通り師匠はHさんを避け、Fさんとの相部屋を選んだ。
 
私は師匠一行に夕食をご馳走することになっていたから、彼らが一旦部屋に荷物を置いて来る間、フロントでタクシーを呼んでもらうことにした。
 
本当は王府井のapmというデパートの中にある、东来顺という老舗の火鍋屋へ行こうと考えていた。しかし、師匠一行が乗った飛行機が遅れて到着したため、残念ながら他の店を選ぶことにした。
 
基本的に、王府井の飲食店はどこも21~22時で閉店してしまうから、近場で遅くまでゆっくり会食できる場所といったら、簋街(guijie)しか思いつかなかった。簋街の飲食店はほぼ24時間営業だから、飛行機が遅れた場合はだいたい簋街で夕食をとることになる。
 
フロントの男は比較的親切で、嫌な顔1つせず、スマホの配車アプリを使ってタクシーを呼んでくれた。5分ほどで来るとのことだった。
 
中国語ができる師匠と私は、別々のタクシーに乗る必要があったため、先発タクシーに私とこびと、Fさん、後発タクシーに師匠、Hさん、Yさんが乗ることになった。私はタクシーに足早に乗り込みつつ、ホテルの入り口に向かって「东直门駅のA出口(chukou)ですよ!」と念を押すように叫ぶと、師匠が「A出口ね!わかった!」と答えた。
 
タクシーの運転手は40代くらいのオバハンで、不慣れなのか緊張しているのか、上半身を力ませながらステアリングを握っていた。すでにアプリで目的地は設定してあるから、我々は黙って座っているだけで、目的地に到着するはずだった。ホテルから东直门駅までは10分もあれば到着するはずだった。しかし、东直门駅付近には行けたものの、オバハンはA出口がどこにあるかわからないらしく、何度も同じ道を行ったり来たりしていた。私が「道に迷ったのか?」と聞くと、オバハンは「この辺りは道がわかりにくい云々」と言い訳した。
 
タクシーにはナビが付いていなかったが、スマホのアプリと連携しているタクシーだから、スマホをナビ替わりに使う事もできそうだが、なぜかそれさえしていなかった。さすがにオバハンは悪いと思ったのか、东直门駅付近の道を行ったり来たりしつつ、料金のメーターを30元ちょうどで停止させた。カタカタと音を立て、レシートが排出された。
 
今時ナビゲーションシステムを搭載していないとはイタイタクシーだな、これが中国版痛車だろうか、と思った。これ以上乗っていてもが明かない感じだったので、目的地から300mくらい離れた路地で停車させ、オバハンに30元渡してタクシーを降りた。すでに15分以上は経過していたから、きっと師匠がオロオロし始めているだろうなと思いながら走ると、案の定、A出口付近で落ち着きなくウロウロしている師匠が見えた。師匠は我々を見つけると、開口一番、「あんたら何してたの!」と叫んだ。
 
私が「運転手が道に迷ったんですよ」と言うと、師匠は「ウチのはナビが付いてたから簡単に着いたけど」と答えた。また、師匠はタクシーに乗ることが不満だったらしく、私に嫌みを込めて「20元も取られた」とぼやいた。確かに地下鉄に乗れば数元で済むが、ホテルから駅まで徒歩で行き、電車を乗り継いだら確実に30分以上はかかる。そもそも遅延が常態化しているパキスタン航空を選んだHさんを責めるべきだと思ったが、私は文句を言わず師匠に50元を差し出した。師匠は「帰りは深夜料金がかかるからなぁ云々…」などとボヤき続けていたが、とりあえずタクシー代が浮いて満足そうだった。
 
師匠たちがホテルに戻りやすいように、东直门駅から近い場所で飯屋を探すことにした。しばらく东直门内大街を歩き、開店したばかりと思しき何とか兄弟という店に入った。6人全員が座れそうなテーブル席のある店だったが、店に入っても忙しいらしく、店員がやってこないので、他の店へ行くことにした。
 
結局、北新桥駅付近で飯屋を探すことにした。花家怡园を予約しておくことも考えていたのだけれど、師匠一行の飛行機がどの程度遅延するか予測がつかなかったので止めておいた。花家怡园は、食事をとりながら变脸などの中国的表演を無料で鑑賞できるため、特に外国人観光客に人気の店だ。週末だと、事前に席を確保しておかないと席を確保できぬらしい。仕方がないので、胡大へ行くことにした。胡大は簋街で最も人気のある四川料理店だが、平日だと待たされることはあまりない。支店が2つあり、これまで3号店にしかいったことがなかったが、師匠一行がホテルに戻りやすいよう、东直门駅に近い支店へ行くことにした。しかし、これは失敗だった。
 
適当に料理を注文した。師匠が燕京啤酒を1杯だけ飲みたいと言ったので、師匠一行用に燕京啤酒2本と、我々は雪碧(スプライト)を1本ずつ注文した。飲み物はすぐに運ばれてきた。とりあえず乾杯をして、与太話をしながら、運ばれてきた前菜1種をつまんだ。隣のテーブルの客は我々よりも後に来たのだが、料理が次々と運ばれてきており、我々の注文した料理は一向に運ばれてこなかった。これはおかしいな、と思った。
 
若い女の店員を呼び、まだ料理が来ないと言うと、女は確認すると言って戻っていった。注文を取った若い男は入り口付近で別の女店員とれており、10分ほど経っても料理は一向に運ばれてこなかった。テーブルの上には冷えた前菜と6つの白米が虚しく置かれており、みな別の話題に触れていたものの、料理が出てこないことに困惑している様子だった。仕方がないので再び女店員を呼びつけ、料理が来ないとキレ気味に言うと、女は震えた手でレシートを確認し、少々お待ちくださいと言って厨房へ消えた。
 
5分くらいすると、次から次に料理が運ばれてきた。みな空腹だったらしく、やっと温かい料理にありつけてホッとしたようだった。中国では、注文した料理が出てこないとか、頼んでいない料理がくるなんてのは日常茶飯事だが、胡大の3号店では滅多にそういうことがなかったから、他の支店も安心だろうと思い込んでいた。メニューも3号店とは異なり、あまり美味くなかった。食事に招待して不味い飯を食わせるとは悪いことをしたな、今度機会があったら、もっと良い店に案内しようと思った。
 
調子に乗って頼みすぎたせいで、料理が余ってしまった。中国ではテイクアウトするのは当たり前だから、「打包して明日の朝食にしてください」と言って、師匠一行のお土産にすることにした。師匠は初来中の連れに「中国では食べ残しをすると金持ちだと間違えられて襲われます」と言った。
 
最近はプラスチックの保存容器に打包してもらい、持ち帰るのが普通だ。しかし、先ほどまで入口で女の店員と戯れていたアホ店員は、残った料理を薄いビニール袋に直接入れようとした。私が店員の手を止めさせ、「プラスチック容器に入れてもらいましょう」と言うと、師匠は「プラスチック容器に入れると悪い物質が出るでしょ!」と言った。結局、残飯は男の店員にビニール袋に入れさせ、師匠にプレゼントした。師匠は袋を受け取ると、「明日の朝食にしましょう」と言った。どうやら師匠一行のフリーツアーは、航空券もホテルも別々に予約していたため、高くついた上に朝食がついていないらしかった。
 
会計は微信か現金かと女店員が聞いてきたので、現金で払うと言うと、こっちへ来てくれと言われ、店の奥に案内された。だいたい350元くらいだった。会計が終わったあとは、アホな男店員に写真を撮ってもらった。
 
食後は、師匠が、我々が泊まっているホテルがどこにあるか見ておきたいと言ったので、西側から北新桥三条に入り、暗い胡同をのんびり歩くことにした。胡同には所々に公衆トイレが設置されているが、北新桥三条の西端には、内部に仕切りのないトイレがある。私が「これがいわゆるニーハオトイレですよ」と言うと、Fさんがしそうにして写真を撮り始めた。中国では数年前から、観光地を中心に公衆トイレの改修を進めているらしいが、あと10年もしたら市民にお馴染みのニーハオトイレも無くなってしまうかもしれない。私のような潔癖症の人間にとっては喜ばしいことだ。
 
 

師匠は久しぶりに胡同を歩いて嬉しそうだった。かに道を照らす薄暗い街灯の下を5分ほど歩き、ホテルの前に到着した。師匠に「ここがいつも泊まってるホテルですよ」と言うと、「华侨饭店か。前に泊まったことがあるような気がするなぁ」と言った。
 
私が「ここは东直门駅からも北新桥駅からも近いし、朝食付きで部屋も中々良いですよ。フリーツアーだと飛行機は大抵JALですし」と言うと、師匠は嫌味を込めた口調で、「ちゃんと聞いておいて下さい」とHさんに向かって言った。師匠はとにかく、今回の飛行機とホテルの選別に不満があるらしかった。私は師匠に东直门駅のある方角を教え、一行とお別れした。このあと、師匠一行はなぜか深夜バスに乗り、北京駅まで行き、そこから徒歩でホテルへ戻ることになる。
 
 

4日目(火曜日)

 

4日目は、本当はこびとと早起きして、北京動物園へ行く予定だった。北京動物園は7:30から営業しているため、7時に出発すれば、ホテルをチェックアウトするまでに戻ってこれるだろうな、と予想していた。 しかし、前日の師匠の様子を見ていたら、色々と大変そうだったので、師匠一行の外貨両替など、ささやかなお手伝いをしてから、チェックアウトすることにした。
 
以前から師匠に、「あんたも誰か(鍼灸師を)北京に連れて行きなさいよ」と言われていたが、忙しくて中々その機会が作れなかったので、こういう時くらいは師匠の助けになろうと考えた。帰りの飛行機は夕方だから、昼前までにホテルへ戻ってきて、チェックアウトすれば間に合うはずだ。念のため、フロントに立っていた支配人らしき男にチェックアウトの時間を今一度ねると、男は不愛想な感じで「14点之前(14時までだ)」と言った。
 

ホテルで朝食を済ませたあとは、すぐに地下鉄に乗った。未だにガラケーを愛用している師匠とは、北京では連絡を取り合う術がないから、師匠たちが出発する前までにホテルに着かねばならなかった。時刻は8時すぎで、通勤ラッシュがまだ続いていた。ホームドアの付近には黄色い長袖を着た、係員らしきオバハンが立っており、乗客の出入りを見守っていた。
 

師匠一行が泊まっている东交民巷饭店には、8:50に到着した。ホテルのエレベーターはカードキーがなければ動かせないため、1階のレストランで朝食を食べ終えた宿泊客が現れるのを待ち、一緒に乗り込むことにした。しばらくすると、太目の白人男が現れ、エレベーターの前に立った。私は白人男よりも先にエレベーターに乗り込み、ポケットを探る仕草をした。すると、白人男は手に持っていたカードキーをセンサーにサッと当て、自分の部屋のある階の数字を押した。私も、何気ないフリをして、師匠一行が泊まっている5階のボタンを押した。
 
5階では、すでに従業員による部屋の清掃が始まっていた。師匠が泊まっている部屋の呼び鈴を押すと、すぐに師匠がでてきた。師匠は我々を見て少し驚いた様子だったが、私が「一緒に銀行まで行きましょう」と言うと、少し嬉しそうな顔をした。
 
部屋の中に入ると、師匠たちはちょうどスーパーカップらしき、ビッグサイズのカップラーメンを食べ終わったところだった。すると、師匠はおもむろに、スーツケースから2リットルの水が入ったペットボトルを取り出し、「これは1本38円でした」と自慢した。師匠が住んでいる足立区は、都内でも最も物価が安いエリアの1つだから、文字通り破格な食品が手に入るらしかった。きっと、コモディイイダかBigAで買ったのであろうな、と思った。ちなみに、師匠はこの2リットルのペットボトルを、4本持参していた。
 
師匠はその水で我々のためにお茶を入れてくれようとした。しかし、ホテルの備品であるポットが不衛生な感じがしたので、喉が渇いていないことにして、丁重にお断りした。すると師匠は、「あんたらもせっかく来たんだから、良いものをあげましょう」とお決まりのセリフを言って、昨晩、私があげたお土産の甘栗の食べかけを差し出した。こびとは無邪気に喜び、遠慮せず、甘栗をすべて食べた尽くした。
 
備え付けの小さな冷蔵庫には、昨夜打包した残飯が入っていたが、師匠は冷蔵庫の電源が入っていないことに気が付き、「あ!電源が入っていない!」と叫んだ。さらに師匠は、「どうもこの部屋おかしいんよ。何がおかしいかわかる?」と疑問を投げかけてきた。我々が返答に困っていると、師匠は間、髪を入れず、「窓がないんよ!窓が!」と叫んだ。
 
確かに、改めて部屋の中を見回すと、窓が1つもなく、まるで洞窟のような雰囲気だった。窓から見下ろしてはならぬ何かが、エリア51の如き政府の要塞が、ホテルの北側に存在するのであろうか、などと想像した。これまで中国の様々なホテルに泊まってきたが、窓のない部屋なんて滅多にお目にかかれない。あるとしたら、四合院をリノベーションしたホテルぐらいだろう。
 
そもそも、部屋に窓が無ければ換気ができぬし、日光が入らないから、ダニが繁殖しやすく不衛生だろう。いくら空気が干燥な北京とは言え、シャワーを浴びれば部屋の中に蒸気が充満するから、カビも生えやすくなるはずだ。そんな、北京の地下で生活している蟻族のような部屋は、外国人が泊まる客室には向かない。それに、万が一火災などがあった場合、部屋に窓が無ければ死ぬ可能性もあるわけで、日本なら消防法違反だろう。何故にHさんはこんなホテルを選んだのであろうか、と思った。通常、親切なホテルであれば、予約サイト上で、部屋の窓の有無を提示しているものだ。こんな部屋で束の間のバカンスを過ごさねばならぬとは哀れなことだと思ったが、どうにもできぬため、ホテルの話題には触れないことにした。
 
全員が集まったので、早速、王府井の中国銀行へ行くことになった。ホテルから銀行までの道中、師匠としゃべることにした。私が、昨晩、我々と別れたあと、どうやってホテルに戻ったのかを聞くと、師匠は「大変だったんよ」と、その一部始終を語りだした。
 
あのあと、師匠一行は帰り道にあったバス停から深夜バスに乗り、北京駅まで行ってしまったらしい。で、タクシー代を惜しいと思った師匠は、そこからホテルまで1時間以上かけて歩くことになった。しかし、党大会前日で街中が厳戒態勢の深夜に、怪しげな日本人男性4人が歩いていたせいか、突然、警察に捕まり、職務質問されたそうだ。その後、北京に初めてきたはずのHさんが道を知っていると出しゃばったため、あらぬ方向へ行って余計に時間を消費し、結局ホテルに戻ったのが深夜2時を過ぎていたと、恨めしそうに話した。
 
地下鉄はすでに終電が終わっていたはずだから仕方がないとしても、タクシーで戻れば20分かからぬホテルまでの道程を3時間近くかけて帰るとは、さすがは日本鍼灸界の異端児だな、と思った。まぁ、胡大を出て、胡同を歩き、お別れしたのが23:30頃だったから、タクシーはほとんど走っていなかったのかもしれない。
 

王府井の中国銀行は比較的空いていた。師匠が入口に立っていた行員男に、「换钱(両替)」と言うと、男は「両替はまとめてしろ」と高圧的な態度で言い放った。師匠一行は行員男に言われたまま、各人が所持していた日本円を差出し、合計金額を1枚の用紙にまとめて書いて、窓口に差し出した。すると、窓口の女は「外貨両替は上限があり、これだと上限金額を超えているから全額は両替できない」と言った。
 
要するに、個々人が各々の用紙に記入していれば、少額であるから問題なく両替できたのだが、入口に立っていたアホ行員が行員仲間の業務の手抜きを無理くり幇助しようとしたため、結局は用紙をわけて書き直さなければならなくなった。
 
師匠は中国語で窓口の店員とやり取りしていたが、時折Hさんが片言の英語で横槍を入れたため、行員も片言の英語で対応するなど、明らかに業務が混乱していた。女の行員は30代前半と思しき風貌であったが、鼻の下に産毛が密生していた。これを見たHさんは、すかさず日本語で、「なんであの女はヒゲが生えているんですか!」と叫んだ。普段から容姿に囚われがない師匠は、明らかに返答に困っていた。
 
中国では、ほとんどの一般大衆は未だ貧しく、日本のように普段から化粧をする習慣がない。ゆえに、ヒゲ女に出くわすのは珍しいことではない。私も師匠と初めて北京入りした当時、針の仕入れ先で店番をしていたうら若き美人の小姐が、フサフサとしたヒゲを人中にたくわえていて、軽いカルチャーショックを受けたものだ。まぁ個人的には、女性は貧しくとも、最低限ムダ毛処理はしていた方が、色んな意味でよろしいと考えている。
 

中国銀行へ行ったあとは、中国建設銀行へ行くことにした。私はATMで不要な人民元を預け入れするつもりだった。しかし、タイミング悪く、警備員がATMを修理しており、しばらく外で待たねばならなかった。ATMの前でボーッとしながら、師匠一行の方を見やると、師匠一行が目の前にある狗不理で写真撮影を始めていることに気が付いた。
 
師匠は、同じ島根県出身の自称ゴッドハンドで、老害とかカルトなどと2ちゃんねるで評され、会員商法やセミナー、講演会などで荒稼ぎしている某氏とは異なり、真に日本鍼灸界の功労者かつ重鎮であるから、人気者である。最近は、師匠とのツーショット写真を無理やり誰かに撮らせて、己の権威付けに使うという手法が密かなブームらしい。ちなみに私は、権威などに興味がないから、未だに師匠と2人きりで写真を撮ったことがない。
 
ATMがやっと使えるようになったので、並んで待つことにした。私の前には左手に札束を握りしめ、これからウェブマネーの補充をすると思しき太目のオッサン、その前の先頭には60代と思しき、先ほど人を殺(あや)めてきたような悪相のBBAが並んでいた。ATMに1番乗りの悪相BBAは、自分の後ろに行列ができているにも関わらずマイペースで、10分くらい操作していた。ATMは2台しかなく、行列はみるみる長蛇となり、みなイライラしはじめていた。悪相BBAは操作を終えたにも関わらず、ATMの前でスマホをいじり始め、まったく移動する気配がなかった。結局、しびれを切らしたオッサンが、「好了吗!(もういいか!)」と叫ぶと、悪相BBAは「あ゛ぁ!?」と切り返した。中国では、何か聞き返す時、「あ」の濁音で叫ぶのが普通だから、慣れていないとキレそうになるかもしれない。
 
こびとがみんなの記念写真を撮ってあげると言ったので、狗不理の前で何枚か写真を撮った。師匠は嬉しそうに笑っていた。集合写真を撮り終わると、Hさんが、私とこびとのツーショット写真を撮ってあげましょうと言ってくれたが、小恥ずかしいので、「自撮り棒がありますんで」とお断りした。
 

狗不理の前には「狗不理」という店名の由来を記した記念碑があった。師匠はしばらくこれを眺めたあと、「そういうことだったんか!」と少し感激した様子だった。優しい師匠は自分が理解した狗不理の由来について、中国語を解せぬ同行者のために概要を語ろうとした。しかし、師匠が言葉を発するや否や、すかさず興奮した様子のHさんが横から割り込み、師匠の語り部としての役割を妨害した。師匠がまだ語っていないのにも関わらず、中国語を解せぬはずのHさんは、あたかも記念碑の内容を理解したかのような素振りで、「そうなんですよね!これは〇〇という意味なんですよね!」と騒ぎ出した。師匠も、Fさんも、Yさんも、Hさんの突然の言動にウンザリした様子であった。私は、全く大変なツアーだなぁと傍観者になりつつも、すでに記念碑を読んで意味を理解できていたので、Hさんの暴走は、もはや大した問題ではなかった。「狗不理」とは、日本の一部のアホに言われているような、「犬も喰わぬ」というような意味ではない。
 
昔、河北省の農家に狗子という幼名だった少年がいた。狗子が14歳で作り始めた包子は素晴らしく美味く、瞬く間に評判となり、次から次に客が訪れるほど多忙になった。そんなわけで、狗子は客が話しかけてきても忙しすぎて、逐一客の相手をできぬようになった。その後、「狗子は話しかけても不理(返答せず)だ」と客に陰口を叩かれるようになり、《狗子不理》が「狗不理」となったらしい。
 
師匠はかつて、天津にある狗不理の本店で包子を食べたことがあり、確かに本店の包子は美味だったと言った。しかし、師匠が「この王府井店の包子は冷凍で美味くないでしょう」と言ったにも関わらず、同行者がどうしても食べたいと言ったため仕方なく入店したそうだ。後日、師匠は「高くて不味い包子を食わされました」と、師匠ハウスで愚痴っていた。
 
我々は帰国のフライト時間が迫っていたため、ここでお別れして、ホテルへ戻ることにした。師匠一行は別れ際、「それでは王府井書店へ行きましょう」と言った。
 

ホテルへ戻る前に、王府井でずっと気になっていた、ジャスミン茶のソフトクリームを食べることにした。ここはいつも行列ができており、確かに美味かった。日本ではジャスミン茶のアイスなんて見たことがないが、きっとこれを日本で売ったらバカ売れするのではなかろうか、と思った。
 

こびととソフトクリームをペロペロしながら、ふと右側を見ると、巨大かつ真紅なモニターに、共産党のスローガンの1つである「小康社会(最低限のゆとりがある社会)を実現することが中国の夢だ」と表示されていることに気が付いた。モニターが備え付けられたビルには、高級時計ブランドのLONGINESや、シルク専門店、ナイキの偽ブランドであるERKEなどが入店していたが、こうした中国の混沌とした現実を鑑みると、共産党の夢が本当に実現する日は来るのだろうか、などと考えた。
 
 
ホテルへ戻ると、いつの間にか「ここはホテルの庭じゃ!クソ犬をブラつかせるんじゃねぇ!」と書かれた貼り紙があった。確かに滞在中、毎朝ワンコを引き連れ、ホテルの敷地内でマーキングさせているジジイを目撃したが、これはあのジジイに向けた言葉なのだろうな、と思った。
 
いつも通り、ホテルは無事にチェックアウトできた。何度も泊まって常連になってくると、チェックアウト時の部屋のチェックが早くなるようだ。ちなみに中国では、宿泊者のデータはすべて当局に送信されるようになっているから、とにかく不審に思われそうな言動は慎んでおくのが無難だ。
 

空港は中秋に向けた装飾が施されていた。早いとこチェックインしてスーツケースを預け、安全検査と出国手続きを終え、昼飯を食べることにした。

そうそう、中国の空港で保安検査を受ける時は、なるべく中国人や日本人が多い列に並んだ方がよいかもしれない。なぜなら、人種によっては身ぐるみ剥がされるかの如く、体の細部まで厳重にチェックされるケースが珍しくないからだ。
 
実際に、アフリカ人の多い列に並んだ結果、通常なら15分くらいで保安検査を通過できるはずが1時間以上かかってしまい、飛行機に乗り遅れそうになったことがある。ちなみに中国は建前上、アフリカを一帯一路の良きパートナーとしており、「两国关系非常友好,亲如兄弟(両国の関係は親密で、兄弟のようだ)」などと公言している。
 
軽いボディチェックですんなり通される日本人を後目(しりめ)に、裸足にされて隅々までボディチェックされている人々を目の当たりにすると、実際には見たことがないのだけれど、奴隷制度があった頃のアメリカ植民地の光景がフラッシュバックするようで、何だか切ない気持ちになる。
 

北京空港のトイレには、これまではジェットタオルだけしかなかったが、最近はペーパータオルが設置されたようだった。ジェットタオルは細菌の温床になりやすく、ペーパータオルを使用することが衛生上最も安全であることは周知の事実であるから、中国でも今後、観光客向けのトイレには、ペーパータオルを備えるようになってくるかもしれない。盗難防止のため、ペーパータオルのには鍵がかけられていた。
 
そういえば、私が卒業した鍼灸学校には、日本鍼灸界で有名なS治療代表の右腕と呼ばれた男が教鞭を取っていたけれど、その男は自分の鍼灸院にジェットタオルを設置したと(しき)りに自慢していた。細菌だらけの手で業を成すとは、全く無知とは恐ろしいものだが、これが今の日本の鍼灸界の現実だ。
 
出国審査を終えたあとは、エアチャイナのファーストクラスラウンジで軽食をとり、出発までしばし休憩することにした。基本的にファーストクラスラウンジは、ファーストクラスの乗客しか利用できないようになっているけれども、最近はプライオリティパスがあれば利用できるようになっているから便利だ。
 
プライオリティパスはクレジットカードの付帯カードとして、クレジット会社に発行してもらえるのだが、カードによっては同行者はラウンジ使用に1回2000円程度請求されるようになっている。私は庶民であるから、こびとの分のラウンジ料金を支払わねばならなかったが、まぁ社会勉強だと思って一度は利用してみたかったので、2000円を惜しいと思わなかった。ちなみに、中国語でファーストクラスラウンジは头等舱休息室と言い、ビジネスクラスラウンジは公务舱休息室と言う。
 

設備は少しやつれていたけれど、係員は親切で、掃除も行き届いており、客が少なく、中々快適だった。料理は中級ホテルの朝食並みで、可もなく不可もなくという感じだった。どちらかと言えば、美味しい部類だった。ドリンクは中国独特のラインナップで、各所に据え付けられた冷蔵庫から、自由に取って飲めるようになっていた。
 
頭部がし気かつ窓際族的な日本人中年男性が、無料菓子コーナーで取った菓子を、万引きするかのような素振りで、次から次にポケットに放り込む姿を目撃した。ラウンジではあるあるな光景だな、と思った。
 
ベージュ色の本革ソファーに身を委(ゆだ)ね、冷蔵庫から取り出した冷たい缶ジュースをチビチビ飲んでいると、何だかこれからファーストクラスに招待されそうな気分になったが、気が付けば、いつも通りのエコノミークラスに座っていた。(終)
 
 
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