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  • 我的北京日记(漫游随想录)2013


北京市内中心部、 西单北大街 を懐かしそうに歩く師匠の図。
 
 

毒霧舞う北京へ

 
3年の島根出張を終え、三鷹の治療院を引き継いでやっと落ち着いた11月、また北京に行くことにした。去年は尖閣諸島の騒ぎがあったが、今回はPM2.5の騒ぎでまだまだ北京に行くのはアホと思われる今日この頃である。去年乗ったパキ○タン航空は出発が3時間以上も遅れたし、アホな客とCA(乗務員)とのどつき合いがあって墜落しそうな雰囲気だったので、今回はA○Aにした。安心便利なA○Aマイレージクラブ会員限定ツアーである。A○Aは全てのサービスにおいて不満が少なく、パーフェクトに近いツアーであった。
 

 
 

1日目

17:25分成田発の飛行機だったが、万が一に備えて早めに空港につくように出発した。14:20頃には空港に着いたので、先にチェックインを済ませてから空港内を徘徊することにした。愛用していたスーツケースは去年北京空港で破壊されていたため、成田空港で新たなスーツケースを購入しなければならなかった。成田空港の第一ターミナルでスーツケースが売っているのは一店舗だけだった。空港だからさぞや高いのだろうなと覚悟していたが、そんなに馬鹿高いというわけではなかった。店員が言うにはスーツケースはチャック式でないとゆがむ可能性が高いとのことで、今回はチャック式を購入した。色は荷物受取の時に目立つ黄色にした。スーツケースにくっつけられる手提げ袋も一緒に購入。何だかんだでスーツケース選びに夢中になり、うちのこびと(嫁)に「一時間もみてたよ。」と文句を言われてしまった。
 
この日は出発ギリギリまで治療していて飯を食う暇がなかったので、空港内で何か食べようと決めていた。プリプリしているこびとの怒りをおさめるため、寿司屋で昼飯を食うことにした。5Fにあり、滑走路が見渡せる眺めの良い店である。しかし、他のウイングにある回転寿司屋と同様、すさまじく店員が無愛想だったので少し気分を悪くした。自分の向こう隣りに座る白人は日本語が全くしゃべれないらしく、注文するたびパウチされたメニューを指さして、店員が振り向くのを待っていた。HEYとか何とか言って店員を振り向かせれば良いのに、毎回無言にてメニューを指差している。店員も無愛想かつアホだからか、白人が指差しても気がつくまでにしばらく時間がかかっていた。何とも哀れな白人であった。寿司は大して美味くはなかったが、ハマチやらサーモンやらを平らげて、最後に味噌汁を注文した。いつもなら味噌汁は先に注文するのであるが、アホな店ゆえメニューに載っていなかったので、後々他の客が頼んでいるのに気がついて注文したのであった。味噌汁の具はあおさと言う海藻のみで、味は薄く、汁だけが異様に多くてこれも美味くはなかった。
 
成田空港はいわば日本の玄関であるし、寿司を日本の名物だと思って大枚叩いて食ってみようという外国人観光客も多くいるはずである。帰国する前に1回だけ寿司を食ってみたいと思って入店する客もいるであろう。想像力があれば、そういう客に対してもっと美味い寿司を食わせてやろうとか、より質の高いサービスを提供しようとか考えて実行するはずである。先日飲食業界で急成長している坂東太郎のドキュメンタリー番組をTVで観たが、成田空港のサービスはまだまだ坂東太郎の足元にも及ばぬように思える。そんな成田空港の現況を鑑みると、外国人が日本へ抱くイメージを悪化させている部分が大いにあるな、などと考えつつ店をあとにした。
 
16時を過ぎた頃、やっと師匠が成田に到着したので、4Fで合流することにした。師匠はいつも通り土壇場的に出発して来たので、せかせかして落ち着きがなかった。本当は私と同様午前中で治療を切り上げてくる予定だったらしいが、わけのわからぬ手違いで出発ぎりぎりまで治療をしていて遅れたらしい。しかも、ウイングを間違えていたらしく、かなり興奮していた。私がA○Aから送られてきていた旅行日程表を事前に渡しておいたのに、全く見ていない様子であった。
 
こびとは師匠が小さなリュックサック1つと小さな空のスーツケースしか持っていないのを見て「荷物少ないんですね。」と言うと、師匠は「まぁ4日だからねぇ。着替えなくても良いし。」と言った。師匠は荷物が多いのを嫌うから、基本的に捨てても良いような服を着て行って、特に下着などはホテルに捨てて来るという習性がある。ゆえに厚着になる冬場に北京へ行くのも嫌がる。
 
せっかくなので、師匠とうちのこびとと三人で少しお茶でもしようかと考えていたが、出発時間がギリギリまで迫っていたので、こびととはチェックインカウンターの前でお別れすることにした。去年は持ち物検査で何もないのに引っかかったが、今回はほぼ同じ装備なのにスンナリ通った。全く意味がわからん。後ろめたいことは何もないのに、とりあえず毎回荷物検査が終わるとホッとする。
 

出発まで30分ほどあったので、カウンターから少し離れた場所にある長椅子に座って、師匠と与太話でもすることにした。師匠は空港に着いてからずっと「不安だ、不安だ。胸騒ぎがする。」と騒いでいたが、いつものことなので適当に聞き流しておいた。A○A955便、この日の北京行きの飛行機の乗客はかなり少なくて、優先搭乗する人もほとんどおらず、スンナリ乗ることが出来た。この機種は比較的新しくて、機内設備も中々充実していて、映画鑑賞するにもまぁ快適で良かった。今回の席は主翼の少し後ろ側で、師匠には師匠の好きな窓側を指定しておいた。乗客が少ないためか、CAには余裕があるように見えた。出発の準備が整うとA○Aお決まりの安全確認体操が始まり、ほぼ定時で出発した。

 
成田→北京は偏西風に逆らいながら飛ぶため、到着まで4時間くらいかかる。4時間あると映画を2本観れる感じだが、さすがに備え付けのチープなヘッドフォンだと装着感が悪くてだんだん気持ちが悪くなってくるから、せいぜい1本観るのが限界である。今回も大して面白そうな映画はなかったので、何となく「スーパーマン誕生秘話」だとかを描いたらしい映画を観た。予想した通りにかなりの駄作ではあったが、とりあえずエンドロールが流れるまで観た。師匠は日本映画を観ていたようだ。機内食を食べてしばらくすると眠気が襲ってきたので、しばらく仮眠した。
 
北京にはほぼ定時で到着した。すでに外は真っ暗である。しかも、噂通りに毒霧が酷い。去年からi-phoneの海外設定をオンにしていたままだったので、北京空港に着いたとたんに“中国電通”に切り替わってしまった。今回は一日あたり3000円も通信料をとられるのがアホらしいので、データローミングはオフにしておいた。

 
入国審査の時、所定の用紙に必要事項を記入するわけだが、北京空港に備えてあるボールペンは片っ端からパクられていることが多いので、ボールペンは日本から数本持参しておいた。パ〇スタン航空の時は機内で用紙をくれなかったが、今回は機内で用紙をもらえたので、スムーズに入国出来た。

 
北京空港内では、意外にもマスクをしている人は少なかった。去年に比べれば装着率は若干上がっている様子はあったが、9割方は装着していないように見えた。ちなみに、A○Aの日本人乗務員は北京に入ったとたんに、全員マスクを装着していた。私は日本を発つ前に、大気汚染に備えてアマゾンで『【3M社正規品】【全国送料無料(メール便)】N95 9010 防護マスク 10枚セット』なるマスクを購入していたのだが、日本の3M社製かと思ったら、実は上海製であった(説明書きに小さく中国製と書かれていただけだった。)。大体「正規品」と書いてあれば3Mジャパンのモノか米国の3Mのものかと思うのが普通の感覚だと思うが、全て中国語で書かれたパッケージなもんだから、これは騙されたな、と思った。とにかく日本の会社が中国に作らせた製品ならまだ安心出来るが、中国の3M?製らしかったから、本当は返品したかった。しかし、今回は新たに注文する暇もなかったので、嫌々ながら使うことになってしまった。もう二度とアマゾンで 『【3M社正規品】【全国送料無料(メール便)】N95 9010 防護マスク 10枚セット(上海製)』を買うまい、と心に強く誓った。ちなみに、師匠には出発前にこのマスクをプレゼントしておいた。

 
 
無事入国審査を終え、預けておいたスーツケースを受け取って空港出口に向かうと、「A○Aツアー」と書かれた青と白のチャンチャンコみたいな服を着た、明らかに現地人的オバ半がニコニコしながら立っているのが目に入った。オバ半は私と師匠の名前がカタカナで書かれたホワイトボードを掲げていたゆえ、すぐにツアコンの担当者であると気がついた。
 
今回は3泊4日の完全フリーツアーで、往路だけはツアーの担当者がホテルから専用車で迎えに来てくれることになっていた。オプションで復路も送ってもらうことは出来たが、一人あたり8000円UPになるらしくアホらしいのでやめた。北京は数年前に地下鉄が完成したので、現在はホテルのある建国門駅から北京空港までは27元(460円くらい)で行けるようになった。地下鉄だと30分もあれば着くので、高速道路を車で飛ばすよりも確実で早い。中国では地下鉄だろうがハイヤーだろうがタクシーだろうが、とりあえず安全面では似たり寄ったりなので、安くて早いのを選ぶのが賢明である。まぁ、タクシーの運転手とトラブる可能性もあるので、個人的には電車を利用するのが無難だと思う。

 
オバ半がハイヤーまで案内すると言ってきたので、ついて行くことにした。オバ半は案内係としてはかなり慣れた感じで、場の雰囲気を和らげるためか、色々と親しげに話しかけてきた。日本語は北京の学校(おそらく語言学院を卒業しているのだろう)で習ったらしく、かなり流暢であった。年齢は46歳だかで、師匠は「若いな~、若いな~。」と連呼していたが、私にはどうみても ババアご婦人という感じにしか見えなかった。「今回は旅行ですか?」、「北京は初めてですか?」などと矢継ぎ早に質問してきて面倒だったので、対応は師匠に全部任せて、私は空港内で面白い写真をとるためにiPhoneを構えながら歩くことにした。「どんどん写真を撮って下さい。」などとわけのわからぬことをオバ半に言われつつ、空港内を出口に向かってしばし歩いた。とりあえず少しは会話をしておこうと思い、私が「北京には鍼灸の本などを買いにきました。」と言うと、「そうですか。それはすごいですね。お医者さんですか?」とオバ半が聞いてきた。中国では医者が鍼灸をするようになっているから、中国人は鍼灸をやる人はみな医者であると、即座に勘違いをしてしまうようであった。オバ半も例に漏れず、即座に我々を大夫(daifu)とか医生(yisheng)だと思い込んだようだった。私は日本における医師と鍼灸師の違いを説明するのも面倒なので、「まぁそんな感じの職業です。」と適当に答えておいた。

 
やっと空港の出口へ辿り着くと、出口のすぐ目の前にホテルの専用車が陣取っていた。車の前では無愛想なジジイがやっと来たかという感じでダルそうに待っていて、我々が近づくと中国語で「荷物をトランクに入れろ。」とつぶやくように言った。我々はオバ半にせかされるようにしてトランクに荷物を入れ、サッと後部座席に乗り込んだ。ドアを閉めると車はすぐに発進して、高速道路をぐんぐん飛ばしていった。車は中華製の左ハンドル車で、観た目はクラウンみたいなセダンタイプだった。走行中、運転手はずっと無言で、案内係りのオバ半だけがひたすらしゃべっていた。車はウインカーを全く出さずに暴走し、時間を惜しむかのようにホテルへ急いだ。

 
しばらく走っていると、オバ半がまるで頃合いを見計らったかのように「もう両替はされましたか?」と切り出してきた。私はまた始まったな、と思いつつ「いやまだですけど。」と切り返すと、「ホテルの自動両替機だと20元の手数料が取られますが、私が両替する場合は手数料は要りません。一万円で583元ですよ、どうですか。」と控えめを装いつつ、「何かあったら私の携帯電話に電話下さい。」とまくし立ててきた。返答せずにしばらく黙っていると、オバ半はいてもたってもいられぬ感じで、自分の携帯電話の番号を書いた紙を無理矢理渡してきた。北京には未だ個人の両替屋が沢山いて、大手銀行や五つ星ホテル内で堂々と違法に個人両替しているあたりは、さすが中国だな、と思わせてくれる。とにかく、個人両替だと偽札をつかまされることもあるらしいから、注意しなければいけない。ちなみに中国の某空港の両替機では過去にニセ札が出てきたことがあるらしいから、両替機だとは言っても油断は出来ぬ。
 
そうそう、北京空港にある銀行では両替しない方が良い。試しに今回両替してみたが、一万円あたり350元であった。王府井の中国銀行では581元であったから、空港での両替がいかにぼったくりかがわかる。空港では手数料が高い上にレートが悪いのである。この時は一元約17円であったので、おおよそ231元(3927円)損することになる。日本円にすると一見大した金額ではない。しかし、2元(約34円)で地下鉄に乗れたり、10元(約170円)でチャーハンが食える感覚からすると、北京の現在の物価は日本の1/5くらいであると推察され、231元の損失は日本円で二万円近い損失になるゆえ、馬鹿には出来ない。
 
ホテルに向かう途中、運転手はずっと無言であった。日本語を解していないようでもあった。30分くらい暴走して、ホテルオー〇ラ、中国名で言う長〇宮飯店に到着した。チェックインはA○Aのオバ半がやってくれて、すぐに21Fのエグゼクティブフロアに通された。オバ半は片言の日本語で「今回は特別にVIPルームにお泊めします。」などと言うので、我々を医者だと勘違いしているゆえかと思ったが、実際は違った。我々は21FにあるVIP用の待合室みたいなところで少し待たされただけで、結局は22Fにある一般客用の部屋を割り当てられた。要するに、特別にVIPフロアに通してやる、という意味のことを言いたかったらしいが、オバ半は明らかに単語の選択を間違えていたようだった。

 
22Fの部屋はまぁまぁな雰囲気だった。清掃は隅々まで行き届いていて、去年泊まったボータイ酒店に比べると遥かに綺麗であった。バスルームにあるシャンプーなどは全てロクシタンと書いてあって、こりゃ高級だな、と思ったのも束の間、裏面をみると上海製と書いてあった。ホントにロクシタンかいな、とツッコミたかったが、ツッコム相手もいないので、この出来事は私の心の中にだけしまっておくことにした。

 
とりあえず荷物を置いて、ヨドバシカメラで買っておいた海外対応の充電器でiPhoneを充電した。そしてしばらく休憩した後、師匠と夜の北京を散歩することにした。北京は11月になると外気温が氷点下まで下がる日がほとんどらしい。ゆえに、師匠は出発するまで「冬の北京は寒いから嫌だ。」と騒いでいたのだが、温暖化の影響か、この日は夜でも10℃くらいあって、全く寒くなかった。この時期の島根の方がよっぽど寒いくらいであった。事前に成田空港内のユニクロでヒートテックの下着を上下揃えて北京入りしたわけだが、この日の北京を歩いていると、少し汗ばむくらいだった。去年泊まったホテルはクソ寒かったが、長富宮ホテルは窓が厚めである程度ちゃんと作られているせいか、室内なら半袖でも過ごせるくらい暖かく快適だった。

 
外に出て改めて空を見上げてみると、その毒霧の酷さに唖然とした。この時初めて、ああマスクを買っておいて正解だったな、と実感した。そういえば、A○Aのオバ半はこの大気汚染に関して「全然ヘイキ、ヘイキですよ。」と嘯(うそぶ)いていた。確かに「平気」ではないが、PM2.5が中国の新たな「兵器」であることは間違いないかもしれないな、と独りでガッテンした。とにかく、オバ半が本当に日本語を理解しているのかは謎だった。1988年から北京に留学していて、ある程度北京を知っているはずの師匠も道がよくわからないらしく、しばらくホテル周辺をテクテクと歩いた。結局わけがわからないので、長富宮ホテル駐車場入口の小屋に待機している警備員的青年に、この辺りにコンビニ(方便商店、便利店)があるかどうかを聞いてみた。青年はかなり親切に教えてくれたのだがセブンイレブンでない方便商店に行く地図を描いてもらったためか、昔ながらの商店に着いてしまった。商店の横には刀削面の店があり、2人とも腹が減っていたので飯でも食うかという話になった。北京の飯屋は案外遅くまでやっていて、22時過ぎてもチョコチョコと常連が入ってきて、メニューを見もせず料理の名前を一言叫んで席につく、という感じだった。私は香菜(xiangcai、コリアンダー)と牛肉が入った刀削面、師匠はトマトと卵の炒め物(西紅柿炒蛋)が入った刀削面を注文した。私も西紅柿炒蛋は好きだが、どちらかと言えば炒めたままの方が好きである。ここの刀削面は刀削というよりも、日本のホウトウやキシメンに近い、中途半端なモノだった。味はまぁまぁ。
 
とにかく、中華は基本的にどの料理も早く出てくるのが良い。早さで言えばマッ〇とモ〇バーガーくらいの差がある。モ〇バーガーでドライブスルーすると本当に遅くてイライラする。松江にあるモ〇バーガーのドライブスルーは暇そうなのに10分以上待たされることが良くあって、ババアどもなにをしとるんじゃボケ」「この御婦人達は一体何をなさっているのでしょうか」とよくイライラしたものだった。それに比べて、マッ〇はどこの店舗も早いから素晴らしい。たいてい2分以内には出てくる。モ〇バーガーはこれ以上早く出せないなら、ファストフードのフリはやめて、「(時間が)オスバーガー」とか「(時間が)マスバーガー」などに改称した方がよいと思う。
 
ちなみに、今は素材や添加物のレベルが山〇パンと同様にかなりヤバいことを実体験したので、マッ〇もモ〇も食べないようにしている。ついでに言えば、恐ろしいくらいに蕁麻疹が出て丸2日も地獄を見たY崎パン製の苺ケーキは私の経験では未だ最凶レベルであり、これを超えるブツには北京でも遭遇していない。

 
食後は刀削面隣りの方便商店を物色した。方便商店とはいわばコンビニみたいな昔ながらの雑貨屋である。日本にも昭和期においては、こんな店が沢山あったからか、入ってみると初めてなのに何だか懐かしい感じがした。いつもは燕京啤酒(北京で有名な地ビール)を飲みながら束の間の余暇を楽しむのであるが、師匠が結石を患っているとのことで自分一人だけ飲むのも悪いので酒は控えることにした。とりあえず、うちのこびとから「何か面白いモノを買ってきて。」と頼まれていたので、目ぼしいモノを探してみることにした。特段面白いモノはなかったが、リラッ〇マらしき絵柄の手提げ袋と、怪しげな小熊餅(コ〇ラのマーチ)の草莓口味(イチゴ味)と、力保健(リポ〇タンD)、百力滋(プリッ〇)の白脱味(黄油味、=バター味)を購入した。小熊餅は2つ買って、試しに一箱開けて食ってみたが、クッキー本体に印字されているコアラのインクが濃すぎて、コアラが何を持っているかわからないものがほとんどで、割れているものも3割くらいあった。しかも、割れた欠片が袋の中に存在しないあたりが、さすがはチャイナ品質だなと感動した。師匠は袋に入った奇妙な牛乳と、怪げなピスタチオ(开心果)買っていた。とりあえず買い物を済ませると、ホテルへ戻って部屋でおやつを食べながらマッタリ過ごすことにした。
 
ホテルの部屋へ戻ると、師匠は部屋に用意されていた無料サービスのティーバッグをおもむろに漁り、「マリファナ茶でも飲みますか。」と独り言のようにつぶやいた。師匠は電気ポットに水を入れながら、「あなたもなんか飲む?」と聞いてきたので、「お茶ありますか?」と答えた。
 
ホテルのサービスにマリファナ茶を置いているとはさすが北京の4つ星ホテルだなと私は大いに感動して、師匠が開封してテーブルの上に投げてあるティーバッグの袋を見てみた。しかし何のことはない、それはただのジャスミン茶だった。
 
中国語ではジャスミン茶のことを「茉莉花茶(molihuacha)」と呼ぶのだが、「茉莉花茶」は日本語だと「まりはなちゃ」と読めるから、ジョークで「マリファナ茶を飲む」とつぶやいたらしかった。さすがに中国でもマリファナ茶を飲むどころか、手に持っただけで極刑になってしまうから、そもそもホテルにそんなものが置いてあるはずがない。
 
師匠が言うには、以前、師匠が御両親を北京へ招待した時、ホテルに置いてあったジャスミン茶のティーバッグを見たお母さんが、「北京にはマリファナ茶が置いてあるのね。すごいわー。」と真面目に語っていたとのことだった。そんなことがあって、師匠はマリファナ茶云々と言っていたのだった。
 
 
師匠はお茶を入れると、椅子に座りながらマリファナ茶と怪しげな牛乳を飲みながら、これまた怪しげなピスタチオ( 开心果)をムシャムシャと食べ始めた。しばらくすると、中国メイカーのピスタチオは相当に不味かったらしく、「 不开心、不开心(不愉快だ、不愉快だ)」と、中国人しかわからぬようなギャグを言っていた。

 
その後、師匠がテレビを観ようと言い出したのだが、いくらリモコンをいじってもテレビが反応しないらしく困っていた。「じゃあ私がやってみましょう。」ということでいじってみたのだが、どのようにリモコンを押しても同様に反応がない。リモコンに入っている電池が怪しいのではないかと思い、日本国製の高級電池を入れてみたが、全く変化はなかった。テレビの主電源は入っているようなのに反応しないから、私も困ってしまった。しかし、色々いじっていたら、結局はベッドサイドのテーブル壁面に埋め込まれた部屋の一部の通電システムのボタンを押さないと、コンセントへの電源が供給されない仕組みになっているようであった。全く意味がわからん配線である。部屋のほとんどの電気はカードキーで有効になるのに、テレビの電源だけは別になっているのであった。まぁ、テレビの電気消費量が高いから、別の経路で電源供給しているのかもしれない。
 
だらだらとテレビをみていると、今度は風呂に入ろうということになった。師匠は私に先に入れと言う。とりあえず、潔癖で慎重な私は持参した自前のタオルを出しておいてからシャワーを浴びることにした。ホテルのサービスで置いてあった上海製のロクシタンシャンプーは、確かに香りは本物と同じような感じではあったが、本国製のものとの明確な違いはよくわからなかった。ちなみに、私が初めてロクシタンを知ったのは、去年松江の北京堂の常連であったHさんに「北京に行くなら空港でロクシタンのシャンプー買ってきてよ。」と言われたのがキッカケであった。だいたい私は薬局で売っているような中級シャンプーしか使わない庶民派ゆえ、ロクシタンと言われても知らなかったのだが、Hさんは「免税店なら4割引きくらいで買えるはずだから。」と、出国前に試供品らしき小袋のシャンプー持ってきて、「使ってみて。」と私に手渡したのであった。Hさんはシャンプー、コンディショナー、ヘアオイルの3つを買ってきてくれと言いつつ、「重かったら買ってこなくてもいいけん。」とも言っていたが、実際には「絶対買ってこい。」と言わんばかりの目をしていた。ロクシタンは香りも品質も素晴らしいのだが、とにかく、ロクシタンというとHさんの顔が浮かんで来るので、使っている時の心境はハッキリ言ってあまり宜しくない。
 
今回は久々に欧米式のユニットバスに入ったゆえ、うっかり浴室のカーテンを外側に垂らしたまま豪快にシャワーを浴びてしまった。加えて、ホテルの設計がアホで、浴室と部屋を隔てる壁の下部に2cmくらいの隙間が空いていて、結構派手に水が漏れてしまった。そんなこんなでバスタブ周辺がびしょ濡れになった様子をみて、師匠は外で少し騒いでいた。風呂から上がった後はしばらく師匠とテレビをボーっと眺めて眠りについた。

 
 
 

2日目

いつも通りiPhoneの目覚まし時計が鳴り、6時頃に目が覚めた。しかし、師匠がまだいびきをかいて寝ていたので、もう少し寝ることにした。8時頃、師匠が目覚めたのを確認してから起きた。そして、師匠がトイレへ行っている間にカーテンを開け、昨日の夜には暗くて見えなかった街を眺めてみた。この日の朝は昨夜に比べて毒霧は少ないように思えた。

 
朝食はホテル1Fにあるレストランにて、無料で食べられることになっていた。完全フリーツアーと言えども、朝食だけはホテルで食べられるようになっていないと、かなりキツいものがある。毎日朝食タイムは9時までと決められていたので、チャッチャと支度を済ませてエレベーターに乗り込んだ。1Fにあるレストランの朝食は、例に漏れずバイキングだった。レストランは優に100席くらいは有りそうな広さで、入口付近の受付にいる女性に部屋番号を言って入店し、窓から少し離れたテーブル席についた。入店時間が少し遅かったためか、窓側の席は全て先客で埋まっていた。
 
レストランにいた客層は30~50代のモンゴロイド(黄色人)が6割、残りの4割が60代のコーケイジョン(白人)、というような塩梅だった。着席するとすぐに中国人のウェイターが近付いてきて、ぎこちない発音で「Tea or coffee?」と聞いてきた。どちらも欲しくなかったが、とりあえず「Coffee,please.」と答えた。師匠は中国語で「红茶(hongcha)」と答えた。
 
飲み物はウェイターが注いでくれるコーヒー、紅茶以外にも、レストラン中央に設置されたドリンクバーみたいな装置で自由に飲むことが出来た。他にも謎のジュースや牛乳のパックなどが無造作に置かれていた。食いものは2割くらいがパンやドーナツ、ソーセージ、サラダなどの洋食、1割くらいが謎の日本食、残りはほとんど中華料理だった。バイキングは色々選べて面白かったが、味はイマイチだった。一応は御三家の一つであるホテルオー〇ラ系列、公称は北京の5つ星ホテルだったゆえ、中華料理には大いに期待していたが、どれもパッとしない味でガッカリした。

 
朝食後は時間が惜しいので、すぐに買い物に出かけた。師匠はリュックの中に忍ばせていた、文化大革命以前に中国人が来ていたような中華風綿入りジャケットを取り出し、「寒いからこれを着ていきましょう」と言った。「これで日本人だとわからないでしょう」とつぶやきながらジャケットを羽織っていたが、今時あんな古いデザインの服を着ているのはテレビで漫談をしているお笑い芸人くらいだから、逆に目立ってしまって、外国人であることがばれてしまうだろうな、と思った。
 
いつもの如く、本屋で針灸関係の本を漁ることにした。日本と違い北京の本屋には毎年針灸関係の新刊が沢山置いてあるので、己の技術力向上と今後の研究のために買っておかねばならない。本場中国の針灸は日本のそれと違って日々進化しているので、私は毎年北京に行って勉強することが日本のイチ鍼灸師としての責務であると考えている。しかし、残念ながら日本の鍼灸界には政界同様多くの老害が蔓延っているゆえ、私のような考えを受け入れる鍼灸師はほとんど存在しないようである(2013年現在、北京堂でも中国語をちゃんと勉強している弟子は私だけらしい。)。日本の鍼灸界は未だ相変わらずで、いわゆる慰安的浅鍼治療や商業的美容鍼灸とやらを、ダラダラと惰性でやっているだけに思える。しかも、日本の鍼灸界は江戸期から延々と「鎖国」しているような具合で、わけのわからぬ「古典派」が跋扈し、最近になってようやくエビデンスエビデンスなどと叫ぶ鍼灸師も現れては来たが、実態は患者や医者に媚を売って業を成すだけの不勉強な輩ばかりで、どうにも手がつけられぬ状況を呈しているのである。
 
とにかく今の鍼灸業界においては、私のような存在は多勢に無勢で、カルトな鍼灸師は放っておいて地道に己が信じる道を貫くしかないと常日頃から考えている。 今後は積極的に中国語を勉強し、自ら中国鍼灸を研究しない鍼灸師は廃れていくであろうと、私は密かに確信している。今のところは私の恩師である浅野周先生が日本で唯一の中医翻訳家として中国の針灸本を数多翻訳しているわけだが、浅野先生亡き後は誰も翻訳する人間がいなくなる可能性があるわけで、将来的には中国の最新治療を日本で学ぶ機会はガクンと減ってしまうかもしれない。一応、私は中医翻訳家として世の鍼灸師のお役に立てるよう準備はしているが、多忙ゆえ主に独学で終わる可能性もある(今の状況では翻訳するヒマが全くない)ので、志の高い鍼灸師には是非とも中国語を独自に勉強して、本場中国の最新針灸を独自に勉強してもらいたいと思っている(私が何か翻訳したら、浅野先生が出版社を紹介してくれる手筈になってはいるが…)。

 
北京で大きな本屋と言えば、王府井(ワンフーチン)書店と北京図書ビルがある。どちらも中医や針灸関係の本が豊富に揃っているが、個人的には王府井書店が好きである。どうも北京図書ビルは治安が悪く、北京のD○Nが集まってきているような感じがするし、店員の対応も悪い。今年もクレジットカードをチラつかせているアホ野郎どもが医学書コーナー付近を数人でうろついていて、金を持っていそうな医者を狙っている感じであった。つまり、医者は高価な専門書を何冊も買うことがあるし、会計時の客単価も高いかもしれないから、そういう人を見定めては近寄ってきて「俺がカードで買うから本をよこせ」と言ってくるのである。そして、自分のクレジットカードを使って損をせずに現ナマをゲットしようという魂胆なのである。ちなみに、アホ野郎が善良な客から現金をせしめても店員は見て見ぬふりをしているのだから、救いようがない。こういう輩に出会ったら、当然ながら毅然たる態度で断り、無視するのが賢明である。

 
日本の書店の鍼灸コーナーといえば、多くが鍼灸書が数種だけ置いてあるくらいの散々たる低レベルであるが、北京では3ブロックくらいに渡って500冊以上の鍼灸・中医関連書がひしめいているゆえ、毎回本を選ぶのに数時間はかかる。今回の王府井書店では、師匠が「私の本の内容が無断盗用されています。」と騒いでいた。中国では他人の本で使用された図を堂々と流用したり、加工してパクったりするのは日常茶飯事である。例えば、ある本で使われていた長髪の女性モデルの写真をパクる場合、短髪加工してあたかも自前の写真であるかのように流用するのである。ちなみに、師匠の本の図をパクった疑惑がある『刺法灸法学』という本は、北京では教科書の一つとして売られていた。

 
何年も治療していて評判が上がってくると、患者から「うちの猫に鍼をしてもらえませんか?」とか、「うちのワンコ(ウ○コではない)に鍼をしてもらえませんか?」という相談がきたりする。しかし、現在の日本の法律においては、家畜(ペット)に鍼灸治療を施せるのは獣医師だけである。したがって、 獣医師免許を持たぬ 灸師が家畜に治療を施すのは有償無償に関わらず違法になるので、どうにも出来ないのが現状である。ちまたでは違法であるにも関わらず家畜に施術してボロ儲けしているアホ鍼灸師がいるようだが、国も放置しているアホな状況ゆえ、どうすることも出来ない。人間の解剖生理さえマトモに勉強せず、人間を治すことも出来ないのに、動物を治療してひと儲けしてやろうという輩が蔓延っている現状には怒りが込み上げてくる感じもするが、こればっかりはどうにもならんし、どうしようという気も起こらぬので仕方がない。そんなわけで、私は患者さんの要望に少しでも応えるべく、今回は家畜用の鍼灸書である「実用動物鍼灸手帳(中国農業出版社)」なる本を購入した。この本を参考にして、患者さんにペットへのお灸のやり方を教えて差し上げるのである。これなら合法かつ間接的に家畜を治療することが可能である。ちなみに、中国では家畜への鍼灸治療が盛んに行われているゆえか左様なテキストも売られているのであるが、日本では未だその土壌が出来ていないゆえ、いわゆる動物鍼灸を学ぶことが困難である。日本で違法に動物鍼灸を行い、暴利を貪っている鍼灸師は、一体どのようにしてその技術を習得しているのであろうか(私の予想ではテキトーにやってるのだと思う。あな恐ろし)。

 
今年も本を沢山買いこんだので、とりあえずクソ重い荷物となる大量の本を一度ホテルに置いてから、街を再び散策することにした。その前に、王府井書店に来たついでに中国銀行で両替しておくことにした。前述した通り、北京には未だに個人両替している輩がワンサカいて、銀行内でも堂々と両替しているあたりは、さすが中国だな、と思わせる。だいたい偽札をつかまされるかもしれないし、個人の両替屋には関わらぬのが賢明である。日本に移住している中国人が北京へ来たとしても、基本的には関わらないのが常識らしい。

 
今年はアベノミクスの影響か、あまりレートは良くなかった。市内の中国銀行では、1万円が581元だったので、1元あたり約17円であった。去年は1万円あたり768元、1元約13円だったので、1年でかなり円安元高が進んでいるのがわかる。実際、200元の差は北京では相当に大きい。地下鉄は2元均一、バスは1元均一だから、円の感覚だと2万くらいを損した感じになる。そういえば、去年も同じ中国銀行で両替したのだが、滞在しているホテル名は聞かれても電話番号を聞かれることはなかった。セキュリティが厳しくなったのであろうか。今年は「ディエンホア、ディエンホア」と窓口の姐ちゃんがやかましかったが、A○Aツアーの冊子にちゃんとホテルの電話番号が書かれていたのでとても助かった。北京でも銀行に入ると、まず最初に機械が印字した整理券を渡されるのだが、毎回水単(=外国為替兌換計算書)を書いてる最中に呼ばれるもんだから、あたふたした感じで窓口に行くようになるのは宜しくない。しかし、なんで中国銀行の店員はあんなに無愛想なのか。中国人は全般的に無愛想ではあるが、中国銀行の店員には全く愛想というモノがない。あとは入口に立っている警備員が役に立たなそうな若者ばかりゆえ、かつて仙川の旧クイ○ンズ伊勢丹にいたヨボヨボの警備員と戦わせたら良い勝負になるのではないかと思ったりした。マトモに警備が出来なさそうな人間に警備させるのもどうかと思うが、まぁどうでもいいか。とりあえず、去年いた個人両替屋らしき ババアご婦人がいなくて良かった。

 
長富宮ホテルは建国門駅からほど近いので、王府井からは地下鉄で戻ることにした。もう昼をとうに過ぎていたので、いいかげんに腹が減っていた。早いとこホテルにクソ重い本を置いていきたいが、何だかんだで本屋からホテルまでは結構な距離があり、大荷物を抱えてでは、ゆっくりとしか歩けなかった。長富宮ホテルの入り口は、私にとっては懐かしい、新宿住○ビル(通称三角ビル)的な回転式の自動ドアであった。幼い頃、親に連れられて新宿○友ビルへ行く度、挟まれやしないかと毎回ヒヤヒヤしながら通ったものである。しかし、未だにこんな危険かつ前時代的自動ドアを採用しているとは、恐ろしいことである(ちなみに新宿住○ビルでも未だに採用している。)。実際に、師匠はドアの中から出るタイミングを誤り、野鳥の如くガラスに突っ込んでいたが、下手するとそのうち死人が出るかもしれない。
 
北京に来ると毎回観光そっちのけで、本やら針灸用具やらを大量に購入するので、手荷物が限界になったらその都度ホテルへ荷物を置きに戻らねばならない。多い時だと1日3回くらいは大きな荷物を抱えてホテルに戻るので、ホテルの従業員からみたらたいそう怪しい外国人にみえるであろうが、そんなことは気にしていない。金持ちそうな外国人が高級な雰囲気漂うロビーで高級なコーヒーなぞをすすっている横を、汚い格好をした日本人が大荷物を抱えて何度も行き来するのであるから、怪しいことこの上なし(北京ではなるべく目立たないように汚い身なりを心掛けている。ちなみに師匠は穴が開いて指が見えるスニーカーを履いていた)。

 
ホテルを再び出発した後は、行きつけの針灸用具店で灸などを大量に購入した。今年も白人が大量に買い付けに来ていて、流暢な中国語を喋っていた。しかし、どうも白人が中国語を話す姿には違和感を覚える。針灸用具店へ行く途中、犬の放し飼いに遭遇した。いやはや恐ろしい。狂犬病を持ってたら危ねぇじゃねぇかと言いたかったが、適当な中国語が即座に思い浮かばなかったので、止めておいた。

 
この日の昼食は、「北京の渋谷」と誰かが命名した西単(シーダン)の駅ビルで探すことにした。この駅ビルは2008年に完成したらしく、大悦城という地下2階から地上11階の複合ビルなのだが、東京人から見るといかにもな感じで、到底渋谷には及ばぬ雰囲気である。当然ながら、店頭で売られているモノには偽物らしき商品も多いので注意が要る。この日は日曜日ということもあって多くの家族客で混み合っていたが、活気があって、それはそれで楽しい雰囲気であった。ケータイ電話の売り場には、異様に背の高いリラックマらしき着ぐるみの熊がいた。お待ちかねの昼飯は、フードコートで適当に食うことにした。店頭に料理のサンプルが並んでいたので、うまそうなやつを指さして「これを二つ」と言うと、まずは金を先に払えという感じでレジに誘導された。昼食時間をとうに過ぎていたためか、残り物だったからか、少し値引きをしてくれた。店員は中国人にしてはまぁまぁ愛想が良かった。店内はイオンやイトーヨーカドーなんかのフードコートを狭くした感じで、日本とあまり変わらない雰囲気であった。この日の朝食は8時前に済ましていて、昼食にありつけたのが14時か15時を過ぎた頃だったので、私はかなり空腹であった。また、私は正午を過ぎた頃から「はよ飯を食いたいです。」とボヤいていたのだが、師匠は「朝食でシャオロンパオを二人前食ってきたから私は平気です。こんな時に備えて二人前食べてきました。」などと誇らしげに語っていた。とりあえず、適当に聞き流しておいた。
 
店内の客はおしゃれな格好をした、10代くらいの中国人女子が2人座っているだけだった。そのせいか、注文した飯が出てくるのは早かった。マックほど早くはなかったが、少なくとも モスラモスバーガーよりは早く出てきた。しかし、味はイマイチで、どちらかというと不味かった。どうも北京のフードコートは衛生管理が不安である。食事をしながら、師匠と北京堂の将来について少し語り合った後、ホテルへ帰ることにした。
この日はよく歩いて疲れたので、早めに風呂に入って明日に備えることにした。とにかく、この日はクソ重い本などを持って結構な時間を歩いたので、下着が汗に濡れて不快であった。

 
ホテルへ戻ると、優しい師匠は、私に先に風呂に入れと言った。これはありがたいことだと思ったが、「今日はバスタブにお湯をいれて浸かりましょう。温泉みたいで楽しいでしょ。」と言った。私は潔癖気味なので、他人が掃除した風呂へ浸かることは御免こうむりたいのであるが、師匠はそういうことは一切気にしないらしい。さらに、師匠は「昔○○ホテルで働いてた中国人の友達の○○が、そのホテルのバスタブにお湯を張って浸かったら性病に罹ったらしいで。」という話を自分でしているにも関わらず、「浸かりましょう。」と言うのであった。「アツアツのお湯を張ってしばらく冷めるまでおいておけば大丈夫でしょう。」などとかなりテキトーなことを言っていた。
 
そういうわけで、この日は師匠様に先に入浴して頂くことにした。師匠は昨日、私が入浴法を誤ったことに対して「あんた入り方知らないの?」と若干イヤミを言っていたので、さぞや見事な入浴法をみせつけてくださるであろうと予想していた。そんなことを思っているのも束の間、いつの間にかベッドルームでスッポンポンになった師匠は、慣れた感じでバスルームへ消えて行った。しかし、数分後、ザバーン、ザバーンという音とともに、バスルームから廊下に向かって水が溢れ出しているのが見えた。階下に浸水しそうな勢いだったので、こりゃ大変だと思ってバスルームを覗くと、浴槽に浸かった師匠が気持ち良さそうに、手のひらですくったお湯を顔にザバーン、ザバーンとしていたのだった。加えて、昨日の私と同様カーテンをバスタブの中に垂らしていなかったので、ザバーンとした水がバスルームの床を伝って、廊下へと流れ出してきていたのだった。私が「廊下まで水が流れて来てますよ!」と叫ぶと、師匠はかなり驚いていたようだった。私はまぁ仕方がないなと思いつつ、備え付けのバスタオルで床を拭いたあと「これじゃホテルの従業員にアホな日本人だと思われますよ。」と冗談めかして言っておいたが、師匠は翌日も同じようにバスタイムを楽しむのであった。
 
私が入浴する順番になり、師匠は優しいことに風呂にお湯を張ったままにしておいてくれたのだが、慎重な私は止栓をスポンと抜いてから、いつも通りシャワーを浴びるだけにした。毎回、北京の往路で飛行機に乗る時は「私とあんたが死んだら、鍼灸業界も終わりだな。」などと冗談交じりで師匠が言ったりするわけだが、私は冗談では済まされないと常々思っているゆえ、自己管理は可能な限り徹底することにしている。風呂に入った後は備品の浴衣を着て、師匠と互いのベットの上に寝っころがりながら、中国語吹き替えの洋画を観て、眠りについた。

 
 
 

3日目

3泊4日の日程なので、今日は北京市内を巡れる最終日である。この日はいつもより1時間くらい早起きして、早めに朝食をとることにした。朝食は昨日と同じ1Fのレストランである。7時に開店して間もない時間に来たせいか、レストランは空いていた。「今日は窓際に座って、中庭で行われる太極拳を眺めながら朝食を食べましょう。」ということになった。レストランから見える中庭では毎日、初老の男女数人が外国人観光客向けに太極拳を披露していたのであった。料理は同じバイキング形式でも、昨日とは若干メニューが異なっていた。師匠は相変わらずベーコンやらソーセージやら肉ばかりを山盛りにして、美味そうにガッついていた(腎臓の具合が悪いにも関わらず)。私は健康を考えてハミウリ(メロン的だが甘くないフルーツ)やらサラダやら、粥やらを食していた。とりあえず、炭水化物の類はまぁまぁ食えたのであるが、一部のフルーツや葉モノ野菜は根の部分が異常な味がして、吐き出してしまうほどであった。昨日までは問題なく食えたので、何故だろうと少し驚いた。もちろん農薬を単独で食ったことがないため断言は出来ないが、農薬のような化学的な味が強くて、私の本能が飲み込むなと拒絶したのであった。食に対してそんなにうるさくない師匠においても、「これは不味いね。」と言い放ったほどであった。特にひどかったのは白菜の芯に近い部分と、小さな洋梨であって、これはひと噛みしただけで、すぐに吐き出してしまった。
師匠が言うには、20年くらい前の中国の野菜は美味かったらしいが、今では相当に、北京の野菜は不味くなってしまったようだった。そうは言っても、街中の小さな料理屋においては、化学的な味は大して感じられないので、尖閣問題以降来客数が激減し、窮地に立たされたホテル業界が苦肉の策として相当にヤバい食材を仕入れているのではなかろうか、などと勘繰ってしまったのであった。A〇Aのオバ半に聞いた話によれば、北京市内では経営難で潰れるホテルが増えているらしい。

 
朝食を済ませた後は、直ぐに出かけることにした。すでに必要な買い物はほとんど済ませていたので、3日目はのんびりと観光的に過ごすことにした。昨日までは島根よりも暖かい感じであったのだが、3日目からは北京らしい寒さが少し復活してきていて、成田空港で買ったヒートテックがやっと役に立った。昨夜のニュースによると、明日の夜から氷点下になって吹雪くとのことだった。本格的に寒くなる前に北京を発てるのは本当にラッキーだった(北京は寒くなると粗悪なガソリンや石炭の消費量が増えるゆえ、PM2.5の数値がべらぼうに上昇する。)。師匠は100均で買った毛糸の手袋とニット帽が役に立つ、と喜んでいた。
 
ホテルを出たのがまだ8時過ぎだったので、ホテル前の歩道は建国門駅へ向かうサラリーマンで少し殺気立っていた。我々はそんなサラリーマン達とは逆行するように歩道を進み、まずは師匠が行きたがっていた、懐かしの北京友誼商店へ行ってみることにした。1980年代の北京には外国人専用の通貨があったらしく、コンビニもない時代であったから、何か生活用品で欲しいものがあればみな友誼商店へ行ったらしい。ちなみに、この場合の「友誼(youyi)」は「友情」とか「外国人専用の」という意味の中国語なので、友誼商店とは文字通り、外国人専用のデパートみたいなモノだったようだ。長富宮ホテルから友誼商店までは徒歩10分くらいなので、地下道を通って歩いて行くことにした。
 
地下道を歩いていると、ちょうど大通りの真下でギターの弾き語りをしているオッサンがいた。通行人はほとんど無視して素通りしていたが、一人だけ熱心に聴き入っている青年がいた。もちろん師匠は素通りであったが、私は遠方から写真を撮らせてもらった。尾崎豊的な深みのある声質で、ギターもなかなか上手かった。中国語で歌っていたが、何を歌っているのかはよくわからなかった。ギター野郎がいた地下道の中心部を過ぎ、地上に上がるべく右に折れると、冷たい地面にゴザらしきモノを敷き、空き缶を置いて「 募捐、募捐(mujuan、=募金)」と蚊の鳴くような声でつぶやき続ける老女がいた。師匠が言うには、1988年頃には物乞いをする人が街に沢山いたり、いわゆる「泥棒市」も沢山存在したらしいが、物乞いだけは僅かながらに現存しているようであった。公害問題といい、ホームレスの問題といい、今の北京は高度成長期の日本をトレースしているような感じがある。

 
北京友誼商店は、相変わらずらしい外観であった。まだ9時前なのでOPENしていないであろうと思っていたが、意外にも開いていた。早速、中に入ってみることにした。1Fは他のテナントが入っているため狭かったが、雰囲気的には日本のデパートの1Fのような感じの売り場で、主に貴金属などを売っていた。師匠が言うにはかなり様子が変わったらしい。2Fは改装途中で、業者が壁をはがしている最中だった。3Fも貴金属や骨董品が売られていたが、1Fよりも数倍広かった。骨董品などは中国独自のモノが売られていて、眺める分には面白かった。しかし、セレブリティな外国人向けなのか、価格設定が高過ぎて買う気にはならなかった。師匠が言うには、完全に売っているモノが様変わりしていて、昔の面影は外観と中の階段だけに残っているらしかった。そんなわけで、少し落胆した感じになって、 北京友誼商店をあとにした。

 
適当にブラブラしながら、日壇公園へ行くことにした。昔は有料だったらしいが、今は無料で開放されている。日壇という名称のとおり、1530年くらいに、当時の皇帝によって開拓された場所らしい。皇帝が太陽神を祀る場所として壇を設けたらしく、公園の中心部は10mくらいの盛り土がしてあって、頂上に東屋みたいなモノが建てられていた。いわゆる 六角亭子(「亭子」は中国語で東屋の意)である。この日の北京は快晴であったので、多くの大衆が公園内でのんびりと過ごしていた。太極拳をする人、剣術を練習する人、木に向かってマントラらしき文言を唱える人、ランニングする人、子供と散歩する人など、みな思い思いに過ごしていた。亭子では賭博をしているのか、数人の中国人が楽しそうにトランプをめくっていた。大して眺めの良くない公園の頂上で束の間師匠とマッタリした後、公園の出口を探して徘徊することにした。公園の隅にある小屋には、私の好きな野良ヌンコが2匹いて、ずいぶん懐いてくるなと思ったら、私の財布とジーンズのベルトループ(ベルトを通す部分)をつなぐチェーンのブラブラ状態に反応していたのであった。ヌンコの近くにいた中国人のオバ半が、私にヌンコが懐く様子をみて「 銭包、銭包(財布)!」と叫んでいることにガッテンしたのであった。その後しばらく公園内をさ迷い続けたが、案外簡単に出口を見つけることが出来た。

 
手持ちの中国元が少なくなっていたので、とりあえず来た道を戻って、ホテル近くの中国銀行で両替しようということになった。再び地下道を通ったが、すでに募金を乞う老女は何も無かったかのように消え失せていた。ギター男はまだ歌っていた。かれこれ1時間以上は経っていたが、よく歌うもんだなと感心した。

 
長富宮ホテルは建国門駅のすぐ近くで、建国門外大街(建国門外通り)に面している。このホテルの横のエリアに中国銀行の支店があるのだが、とにかく雰囲気が悪くて、店員がチンタラしているし、王府井の支店で両替することにした。何より、足の悪い一見すると障害者らしき男達が銀行の店内で個人両替を執拗に迫る感じにイライラして、耐えられなかったのであった。とりあえずホテルの前を通り過ぎて、建国門駅から地下鉄に乗って西単駅まで行った。
 
何だかんだでまた本屋に来た。 北京图书大厦(北京図書ビル)で、お互い心残りしないよう、買っておきたい本を今一度漁ることにした。私は北京の最新地図と中華料理の本、師匠は人体の断層写真の解剖書と弟子へのお土産本を買うことにした。地図売り場は1Fなので、私は師匠と別れて地図を探した。
入口からテクテクと奥へ進むと、売り物の地球儀の向こう側に、壁際に腰掛けて仲良く煎饼(小麦粉を焼いて具材を包んだ軽食)だか、火勺(いわば中国風ハンバーガー、延慶区名物)だかを頬張るDQN夫婦がみえた。密かに軽犯罪的現場を撮影している私の隣りでは、 ババアご婦人が売り場の脚立に腰掛けて、高い位置の本棚を漁れぬようにさりげなく妨害していた。北京の本屋での座り読みはよくある風景ではあるが、脚立や踏み台に座っている輩は何とかしてもらいたい。しばらくすると、上階に上がったはずの師匠が犯罪的現場を何事もなかったかのように素通りして行き、DQN夫婦は店員に注意されて、しぶしぶ移動していたのであった。
北京の本屋には、日本ではほとんど手に入らない類の解剖書が売られている。その一つが断層写真入りの解剖書である。また、刺鍼事故の本も豊富であり、日本の鍼灸業界がいかに遅れているかを実感出来る。

 
4Fに上がると、本棚の隙間にベタ座りして、何やらスナック菓子らしきモノをムシャムシャとほうばっている ババアご婦人がいた。しかも、売りモノの本に座っているあたりが流石であった。北京の本屋は座り読みしている輩が多いので邪魔ではあるが、見方によってはフリーダムな雰囲気満載ゆえ、ゆったり立ち読み出来るあたりは中々よろしいと思われる。王府井書店を後にして、今回最後の両替ということで、再び中国銀行寄ってから、昼飯を食うことにした。

 
飯屋は王府井から少し離れた東西(dongxi)の路地で探すことにした。何より繁華街より安いし、美味いパターンが多いからである。衛生管理も食材の危険度も、北京市内であればどこでも似たりよったりなので、どうせなら安くて美味い方が良いに決まっている。
繁華街以外で飯屋に入る時は、まずは店内の様子を外から窺うのが重要である。だいたい地元民で混んでいれば、大きく失敗することはない。しかし、飯屋を探し出したのが14時頃だったので、店を一時的に閉めたり、暇そうしている店が多かった。とりあえずは明らかにヤバそうな雰囲気の店だけは避けることにした。結局、腹が減っていたのと歩き疲れていたのとで、師匠がここにしよう、という店で妥協することにした。5段くらいの低い階段を上がって店内に入ると、いきなり入口左手のテーブルにて、スマホに夢中になっている白衣姿の店員が目に入った。客が入って来たにも関わらず、全く無反応なまま、スマホをいじり続けていた。何やら日本の昼ドラと思しき動画を中国語字幕にて、熱心に見ているようであった。

 
この店はやる気があるんかいな、と思いつつも適当に席についたら、すぐに中学生くらいの少女がウェイトレスとしてメニューを持ってきて、またすぐに店内の奥へと消えて行った。最近の北京のメニューは日本のファミレス的な質感の冊子を使っていて、いかにも美味そうに魅せてはいるが、実際大したことはなかった。しばらくメニューをみていると、いつの間にかさっきの女性店員が戻ってきた。私は回鍋肉とライスを頼んだ。師匠は確かチャーハンを頼んだと思う。しかし、本場北京で回鍋肉の発音が一発で通じたのに、三鷹の東八道路沿いにある中華料理屋で回鍋肉の発音が通じなかったのは何故だったのだろうか、などと今更ながら回想していた(田舎の出身なのかもしれない。)。
 
ここの回鍋肉は中々美味しかったが、やはり白米は北京的にドブ臭くて美味くなかった。これが日本の美味しい白米であったらパーフェクトなのにといつも思うが、それは中々難しい要求である。ちなみに、この回鍋肉で使われていたピーマンは、種が除かれておらずそのままだった。師匠は新しい発想だな、と言っていたが、ただ単に面倒だから種を取らなかったのであろう、と思ったりした。とりあえず食えないことは無かった。

 
 
結局、この日も特に観光はせず、また針灸用具店に行くことにした。師匠がまだ買っておきたいものがあるとのことだった。私はすでに買い物は済ませていたので、のんびりついて行くことにした。私も気が向いたら弟子とか見学者に、経穴図でもお土産に買っていってやろうかなどと考えたりした。日が暮れてくると流石に寒くなってきたので、師匠は100均で買った小さなニット帽をリュックサックから引っ張り出して被りつつ、足早に針灸用具店へと向かった。

 
針灸用具店に行く道すがら、東西にある人民○○出版社1Fの本屋へ行くことにした。この本屋の店内は奥の部屋と手前の部屋とを短い廊下でつないだ、奇妙な形状の間取りになっている。しかも、買いたい本があった場合、毎度だるそうに奥間に居座る小太りの男に買いたい本の伝票を書いてもらってから、入口付近のレジに行かなければならないという、クソ面倒なシステムになっている。鍼灸関連書は奥間に沢山並べられているのだが、とにかく妖怪の如き雰囲気で奥間に居座る男の店員が最凶に無愛想ゆえ、本を買わずに冷やかすだけにしてやろうかといつも思うのであるが、中々どうして良書があるものだから、イヤイヤながらも本を買わねばならぬことにイライラしてしまう。だいたい何度も本を大量に買ってやってるのに、店内に入ればあたかも万引き犯を監視するかのような目でにらまれ、伝票を書かせれば嫌そうに舌打ちするし、はよ死ねや。」「早めに逝って下さいませ。」などと声をかけて上げたくなるのは私だけではありますまい。
 
この本屋では小児の実写版経穴図を買うことにした。日本には存在しないタイプの経穴図である。また、なんとなくロリ〇ンが喜びそうな経穴図とも言える。師匠も弟子のお土産に何冊か本を購入するとのことで、アホな店員が計算を間違えることを予想して、私が持参したシチズン製の計算機にて事前に支払い合計金額を調べておくことにした。師匠がアホ店員に買う本を手渡すと、カス店員はいつも通りの仏頂面にて言葉を発することもなく、溜息をつきながら気だるそうに己の汚いiPhoneで計算を始めた。たかだか2ケタの足し算であるにも関わらず、クズ店員は案の定計算を間違えて、ぼったくり合計金額を伝票に記し始めた。私が師匠に「これ計算間違ってますよ。」と耳打ちすると、師匠は焦ったように「不、不(違う、違う)」と騒ぎ出した。するとカス店員は、あれおかしいな、という顔でまたチンタラ計算し直し、謝罪の言葉はおろか、舌打ちをかましながら書き直した伝票を投げつけるようにして差し出した。
 
やっとのことで伝票をゲットし、私はウンコ店員が書いた伝票を、客そっちのけでくっちゃべっているレジのババア女性店員に差し出した。隣りで話しかけていた下僕らしきババア別の女性店員が、私が差し出した100元札をみて「この金は怪しい、この金は怪しい」とレジに居座るご婦人ババアに耳打ちしていた。レジの店員は慣れた手つきで偽札鑑定機にて偽札でないことを確かめると、これまた無愛想にお釣りを手渡したのであった。何と胸クソ悪い本屋だとは思いつつも、これも鍼灸の勉強のためだと思えば、怒りが込み上げることもなかった。
 
本を買ったあとは針灸用具店へ行こうということで、また地下鉄に乗ることにした。駅までブラブラ歩いていると、道端で何やら怪しいブツを売っているオッサンが目に入った。中国式リヤカーの荷台で、黒こげになったひな鳥のような、小動物と思しきモノを売っていた。「あれは何ですかね。」と師匠に聞くと、「あれはヒシノミだよ。」と言った。菱の実とは聞いたことはあるが、実際に見たのは初めてだった。とりあえずはわけのわからぬ動物や昆虫の類ではないことを聞いて安心した。しかし、遠目に見ると黒こげのひな鳥、近くで見るとバッファローの角のようにみえて、決して心地よい感じのモノではなかった。ハッキリ言ってしまえばキモいだけのブツであった。かつて、忍者は追手を阻むために菱の実を道に撒いたと言うが、こんなもんは余程大量に撒かない限り、大した妨害にはならんだろうな、とも思った。

 
師匠が食ってみるかと言うので1盛り買って、歩きながら食ってみたが別に美味くも何ともなかった。中の実は真っ白で、見た目はロウソク、触感はサクサクしていて、火の通りが悪いサツマイモみたいな感じであった。殻が硬くて食いにくいし、さして美味いもんでもないので、また食いたいとは思わなかった。師匠が栗のように皮を割って食べろというので、割ってみようとするが、形状が複雑ゆえに、うまく割ることが出来ない。師匠も栗のようには割れないためか、歯を使って割っていた。慣れとか言う以前に、どう考えても素手では割りにくい形状で、しかもペンチでも使わないと指を痛めそうになるくらい皮が硬いので、すぐに食う気が失せてしまった。とにかく、美味いとか不味いとか言うこともないので、話のネタに1個食えばいいかな、という感じであった。師匠は「買ってしまったからには食わにゃいけん。」という感じで、パクパクと食べていた。
 
いつも行く針灸用具店、北京中研太和医療器械は東直門駅から少し歩いた場所にある。北京には他にも針灸用具店がチョコチョコ散在しているが、この店が最も安く、品揃えが豊富である。その証拠に海外からフランス人やらブラジル人やらが多数買い付けに来ているし、この店のオーナーらしき人物は英語が堪能である。ちなみにこの店の裏手、中国中医科学院の敷地内にも家族経営の小さな針灸用具店があるが価格設定はちょっと高くて、あまり負けてくれない。しかし、品揃えが微妙に異なるので、中研太和にない商品を買うことが可能である。

 
針灸用具店で買い物を済ませた後は寄り道をせずに、そのままホテルへ戻ることにした。夕食はホテル周辺で済ませることになっていたので、ホテルに戻って少し休憩してから、近所でウマそうな店を探すことにした。長富宮ホテルのすぐ隣のブロックには、華僑村とか賽特と呼ばれるエリアがある。そこは商業施設や外交関係のビルが林立しているため、飯屋の料金設定は割高である。一方で、すぐ隣りのブロックは未だ未開発の旧市街地が残されていて、開発にともなう立ち退きを断固拒否して、レンガを積み上げただけの掘立小屋に住んでいるような人達も残っているゆえか、かなり安めの食堂も存在していた。しかし、衛生的にかなり不安な感じな店ばかりだったので、賽特エリアのボッタクリ系飯屋で我慢することにした。北京市内は日進月歩で開発が進んでいるが、未だインフラがマトモに整備されていないような区域も多々あって、糞尿の臭いにまみれながら生きなければならない、いわばスラム街的区域も存在しているのであった。しばらくスラムな街角を彷徨い、一昔前の北京に思いを馳せた後、寒い夜空の下で一人寂しくフルーツを売る貧相な露天商がいる薄暗い路地を抜けて、賽特エリアへ向かった。

 
客が沢山入っているような飯屋を探してみると、近場に2か所あった。最初は中国銀行の裏あたりにある中華料理屋を覗いてみたのだが、結局斜め向かいにある少しポップな店に入ることにした。店内の作りは日本の回転寿司屋みたいなチープな感じで、適当な席に座ると店員がかったるそうにメニュー表を持ってきた。なぜか、昨日行った東西の飯屋のメニュー表とソックリな作りである。おそらく同じ業者が作ったメニュー表なのであろうが、全く芸がない。とりあえず、師匠と一緒につっつける白湯スープ、トマトと卵の炒め物(西紅柿炒蛋)、ライスを頼んだ。最凶に無愛想な店員の姐ちゃんが嫌そうにオーダーをとると、怒った感じで先に金を払えと言いだした。シンガポールの飲み屋でも先払いの店はあったが、店員はもっと畏れ多い感じで悪い気はしなかったが、今回はちょっとイラっとした。仕方がないので金を渡したが、一向にお釣りを持ってくる気配がない。師匠が文句を言うと、これまた嫌そうにして店員がお釣りを持ってきた。まぁ中国は基本的にこんなものだと理解して、気を鎮めた。
 
しばらくすると、白湯スープと炒め物、ライスを持ってきた。質素な夕食である。予想通り、大して飯はうまくなかった。去年泊まった 博泰酒店(botai hotel)がある交道口南通りにある飯屋の方が遥かに安くて美味かったなぁ、と少し後悔した。結局は王府井にある小吃街と同じで、観光客や外国人向けに営業している飯屋は、たいてい高くて不味いと相場が決まっている。日本でも マスゴミマスコミが大騒ぎする店に限って不味いのと同じである。ついでに言えば、 マスゴミマスコミへの露出が多い日本の鍼灸院においても、同様のことが言える。

 
嫌な気分で満腹になった後は、ホテルへの帰り道にある方便商店と、比較的近所にあるセブンイレブンを冷やかしてからホテルへ戻ることにした。店員は昨日と同様、アホそうな20代前半くらいの若い兄ちゃん一人で、レジで何かの計算に夢中になっているようで、客が入って来ても全く見向きもしない感じであった。北京の一部の店では日本と同様レジ袋が有料なのか、何も言わないと袋に入れてくれないようであった。ただ店員がケチっているだけだったのかもしれないが、持てない量ではなかったので、袋はもらわないことにした。セブンイレブンではリラックマとコラボしているらしいキリン午後の紅茶を買ってみた。ちなみに北京のセブンイレブンの品揃えは、一部商品を除いて、ほとんど日本と同じである。この日の夜は北京らしい寒さがぶり返してきていたので、これ以上夜の街を徘徊することはやめて、ホテルへ戻ることにした。

 
 
ホテルに戻って部屋で少しくつろいだ後、1Fの高級ラウンジでドリンクを飲んでマッタリすることにした。チェックインした時にA○Aのオバ半からもらった「ドリンク1杯無料券」があったので、どうせだから使って見ようということになったのであった。ラウンジへ入ると、日本人サラリーマンらしきおっさん達が先にくつろいでいた。サラリーマン数人以外に客はいなかったので、彼らから少し離れた端の席を陣取ることにした。すぐにチャイナドレスみたいな服を着た太めの中国人ウェイトレスがオーダーを取りにきた。ある程度予想はしていたが、メニューをみて驚いた。一番安いコーヒーでも1杯が48元で、一番高いコーヒーは98元であった。1元でバスに乗れて、5元あればラーメン1杯食えるこのご時世で、この値段はボッタクリ過ぎである。ちなみにこの時のレートは1元=約17円であったから、一番高価なコーヒーだと日本円にして約1666円である。この値段のコーヒーならば、有楽町の椿屋珈琲店で飲んだ方がマシなような気もするので、ホットミルクを頼むことにした。師匠は中国語でトマトジュース、私は英語でホットミルクをくれと頼んだ。自分の発音があまりにも良過ぎたので、密かに恥じらいを感じてしまった。注文したジュースが届くまでソファーでゆったりくつろいでいると、すぐ近くで雅楽みたいな演奏が始まった。中国の伝統楽器である 二胡を使ったバンド演奏である。5人しかいなかったが、女子十二楽坊みたいな感じで仲良く演奏していた。しかし、なぜかすぐに演奏を止めて、サッサと帰ってしまった。私としては優雅な演奏をバックミュージックにしてホットミルクをチビチビと舐め、中国にキタ━(゚∀゚)━!的な雰囲気を味わえると思った矢先の演奏中止だったので、大変に残念であった。しばらく師匠と与太話をしたあと、ボッタクリラウンジをあとにした。

 
部屋へ戻ったものの、特にやることもないし、せっかくの連休なのでダラダラと過ごすことにした。師匠はテレビをつけると、おもむろに靴下を脱いで、洗濯を始めた。洗濯といっても当然ながら洗濯機は備え付けられていないので、手洗い洗濯である。師匠は替えの靴下を持ってきていないのか、洗面所にあるロクシタンの高級石鹸で迷いもせずゴシゴシと自分の靴下を洗い始めた。そして、すぐに洗濯を終えると、カツカツと私のところへ歩み寄ってきて、「ほら、臭いが消えたで」とその靴下を私の顔に近づけたのであった。とりあえず素直に嗅ぐ勇気も無謀さもなかったゆえ、あたかも嗅いだフリをして、「本当ですね」と優しく、適当に答えておいた。入浴後は、テレビのチャンネルをピコピコ回しながらボーッとしている師匠を横目に、毎朝ホテルから支給されるペットボトルの水をひと口飲んでから、スヤスヤと眠りについた。ちなみに、毎朝寝具の交換を断るとホテルからペットボトルが2本無料で支給されるシステムらしかった。

 
 
 

4日目(最終日)

師匠の異様なイビキで5時頃には目覚めてしまったが、起きて明かりをつけるのも悪い気がしたので、しばらくベッドのなかでウトウトして、師匠が起きたのを見計らってから、結局7時過ぎに起床した。朝食は毎度お馴染みのバイキングである。大して美味くもないので、さすがに3日目になると飽きてくる。今日も窓際のテーブルが空いていたので、ゆったりと太極拳を眺めながら食べることにした。バイキングは毎日ほぼ同じ内容であったが、微妙に異なるのがまぁ救いと言えば救いであった。暇を持て余していたし、意外にも西洋人が多いので、彼らは何を食すのかと観察していたら、やはり洋食を選ぶ人がほとんどであった。中には珍しそうに、恐る恐る中華メニューを選ぶ人もいたが、それは少数派であった。師匠は相変わらず肉中心のメニューで、色々選べるバイキングに満更でもない雰囲気は、まるで子供のようであった。私はとうにその味付けに失望していたので、この日も栄養のありそうなものだけを無難に選びつつ、適当にピックアップして食べた。とりあえず、昨日ヤバいくらいに不味かった野菜や果物は避けておいた。既に中国には安全な食物など存在しないのかもしれないな、という絶望感が脳裏をグルグルと回ってはいたが、素知らぬフリを決め込んで、今の空腹を満たすためにひたすら喰らいつくのであった。

 
朝食後、チェックアウトするため、荷物をまとめることにした。チェックアウトは12時までである。帰りの飛行機は14時50分発だったため、師匠はゆったりしたい雰囲気であったが、私は「万が一に備えて早めに空港へ向かった方が良いですよ。」と提案した。師匠はブツクサ小言を言っていたが、とりあえず強行した。地下鉄は一昨年だかに完成したらしく、北京空港まで電車で行くのはお互い初めてだったので、到着まで何分かかるかわからないから少し不安だった。手早くクソ重い荷物を何とかまとめたが、成田空港で買ったスーツケースが思いのほか小さかったので、手荷物が2つになってしまった。A○Aの場合、機内に持ち込める手荷物は基本的に1つ(10キロまで)だけらしいが、何とかなるであろうとタカをくくっていた。預ける荷物に関しては、今回は携帯型の測りを持参していたので、23キロ以下になるように計算して梱包しておいた。部屋を出る前に、記念に22Fから見える外の景色を撮っておいた。

 
チェックアウトはあっけなく終わった。建国門駅までは大した距離ではないが、なんせ全部で40キロ近い荷物だったので、運ぶのが一苦労であった。駅へ向かう途中、昨日買ったリラックマのパチもんバックを持っているオッサンに出くわした。北京の地下鉄の駅にはエスカレーターはあるが、基本的に上りしかないし、エレベーターがないゆえ、大荷物を抱えていると降りるのが大変である。しかも、北京の鍼用具屋でもらった手提げ袋はいつ破れるかわからんくらいの低強度ゆえ、ヒヤヒヤしながら荷物を運ばねばならないのがストレスであった。この日の地下鉄は思ったより混んでなかったので助かった。大荷物を抱えている時のラッシュは東京でも北京でも地獄である。

 
長富宮ホテルがある建国門駅から地下鉄に乗ると、三つ目の駅が東直門駅である。空港行きの快速電車( 机場路)は東直門駅から連絡しているので、一度乗り換えなければならない。A○Aの国際線が発着するのは第3ターミナル( 3号航站楼)である。乗り換えは面倒だなと思っていたが、構内の案内板が意外にも親切だったので、初めてでも簡単に乗り換えることが出来た。東直門駅から空港までは直行の快速電車で30分くらい、運賃は片道25元であった。北京市内の地下鉄の基本運賃が2元なのでかなり高い感じもするが、日本円にしてみればたったの425円なので、タクシーやホテルのハイヤーで空港へ向かうよりは、遥かに安くて速い。去年は師匠が流しのタクシーで空港まで50元ほどボッタくられていたので、それを思えば安い出費であった。しかも冬の北京の朝は凄まじい濃霧で地上3000mくらいまでが視界不良になったりするのがザラなのだが、そんな状況で高速を無謀にひた走るタクシーに命を預けるよりは、地下鉄に乗った方が安心だと確信した。ちなみに電車内のシート後ろにある冊子は、盗まれないように結束バンド的な紐で留められていた。さすが中国。

 
空港へは1時間もかからないくらいで着いてしまった。A○Aのチェックインカウンターが開くまで2時間くらいあったので、とりあえず空港のベンチで放心することにした。師匠は早く着きすぎてしまったことが不満らしく、ネチネチと私に小言を言っていた。荷物が多いゆえ、荷物をカウンターに預けるまで動くのは面倒なので、ベンチに座ってひたすら時間が経つのを待った。

 
荷物を預けた後に昼飯を食う予定だったし、荷物を預ける際に超過料金を請求されるといけないので、前もって少し両替しておくことにした。空港内の銀行は予想していた通り高かった。1元あたり約28円で、市内の銀行で両替するよりも1.5倍くらいボッタくられた。
 
やっと2時間が経って、チェックインカウンターがオープンした。かなり並ぶかと思いきや、閑散としていた。北京への観光客が激減しているせいもあるが、日本へ向かう中国人も激減しているようであった。とりあえず荷物を預けるため、計測器にスーツケースを置いてみた。なんと24.3kgで1.3kgオーバーしていたが、乗客が少ないとのことでスンナリとOKにしてくれた。手荷物も2つであったが、これもOKだった。

 
荷物を無事預けてやっと身軽になったので、飯を食いに行くことにした。師匠はお腹が空いてないから食べないと言っていたので、自分の好きな店に入ることにした。ロクな店がないので、とりあえず汉堡王(バーガーキング)に入ってみた。北京の店員は基本的に対応が悪いのは知っていたが、ここは筋金入りの最凶店員であった。ちゃんと列に並んでいるのに、店員は後ろから来る客を適当に対応したり、レジに立っても一向に対応する雰囲気もなく、ほとんどの客に無視を決め込んでいた。レジには悪相かつ無愛想な女(画像真ん中の女)が1人立っていたが、「 前走、前走(qianzou,qianzou)」と前のレジへ行けと促すので前のレジへ行ってみるのだが、誰も対応に来ないので一向に買うことが出来なかった。流石に寛大な私もイラついてきたので一発暴れてやろうかと思ったが、翌日の新聞に載るのも嫌なので、何も買わずに出て行くことにした。

 
再び胸クソ悪い感じではあったが、とりあえず出発ゲート近くで何か食えそうな店を探すことにした。空港の奥の方へ行くと、イトーヨーカドーなどにあるような半セルフ式の軽食コーナーがあったので、そこで食うことにした。見たことのないチャーハンと、ミニッツメイドのオレンジジュースを注文した。チャーハンは不味かった。ミニッツメイドも日本で売っているのとは全く違って、クソ不味かった。北京のジュースはとにかく砂糖がどっぷり入っているゆえ、異常に甘くて飲めたもんじゃない。お茶に砂糖を入れたジュースなぞ、よく飲めるもんだと思う。しかし、捨てるのも悪い気がしたので、ちゃんと残さず飲みきった。こんなんを毎日飲んだら糖尿病かペットボトル症候群になるのは必至だろう。ちなみに、師匠も私と同じモノを飲んでいた。

 
謎のチャーハンをパパっと食べたあと、飛行機が来るまで出発ロビーでマッタリすることにした。北京空港で褒められるのは、無料の充電設備が各ベンチにあることくらいだろうか。iPhoneを充電しながらしばらく待っていると、定刻通りアナウンスが流れた。A○Aの飛行機が停るE21ゲートは普段よりも閑散としていて、アナウンスが流れても数人しか待っている人がいないようだった。ゆえに、機内への乗り込みもスムーズで、手荷物もゆったり積むことが出来た。中国人は基本的に我先にと機内へ突撃するから、今回はわずかな日本人だけで搭乗出来て、非常に快適であった。帰りの飛行機はNH906で、220人乗りのところ、乗客は38人とのことであった。乗務員は7人とのことで、往路と同様CAにも余裕がみられた。席を移動しても何も注意されないし、やかましい客もいなかったのでとても良かった。

 
機内食を食べた後、師匠オススメの「少年H」を観てみたが、あまりにも字幕の英訳が酷かったので観るのも不快になって、途中でいつの間にか寝てしまった。(終)
 


 
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