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  • 島根回想録


 
まだ松江の北京堂が某マンションの6階にあった頃の話だ。 
 
その当時、私は鍼灸院で寝泊まりしていて、治療には使っていない4畳半くらいの部屋を寝床にしていた。
 
しかし、冬のある日を境に、真夜中に怪奇現象が起こるようになった。
 
毎日深夜2時を過ぎると、誰もいないのに「ピン、ポーン…、ピン、ポーン」とインターホンが2回鳴るようになったのだ。奇妙なことに、インターホンは必ず2回鳴り、1回目と2回目の間隔も、だいたい10秒と決まっていた。
 
最初の数日は半ばしか覚醒していないこともあり、隣の部屋のインターホンがなっているのであろうと無視していた。しかし、よくよく聞いてみれば、隣の部屋ではなく、自分の部屋のインターホンが鳴っていることに気が付いた。しかも、連日決まって丑三つ時に鳴るもんだから、次第に気味が悪くなった。
 
寝床は玄関を入ったすぐ右側にあり、狭い部屋の西側には外の通路に向かって出窓が付いていた。出窓にはカーテンが無かったから、夜は部屋の電気を消すと、外の通路の蛍光灯の淡い光が出窓を通して部屋の中に差し込んでくるような塩梅だった。だから消灯後に誰かが通路を通れば、人影が部屋の中をサッとかすめるから、すぐに気が付くようになっていた。
 
鍼灸院のあった部屋は606号室で、6階には607号室までしかなかった。ゆえに通常、この606号室の前の通路を夜間に通るのは、私か607号室の住民だけだった。ちなみに607号室の住民がこの通路を通る時は、その前後に必ずドアの開閉音が壁伝いに聞こえてくる。また607号室は角部屋であって、607号室の前には階段が設置されていたが、エレベーターは606号室側に設置されていたから、夜間に606号室の前を通り抜ける人は、基本的に我々以外、他にいなかった。
 
606号室の玄関からはエレベーター、階段ともに10mくらい離れていて、仮に誰かがピンポンダッシュをしたとしても、すぐにドアを開ければ、その姿を目撃することが可能なはずだった。だから毎晩インターホンが鳴りそうな時間になると、息を殺しつつ外の様子をうかがっていた。しかし、インターホンが鳴った瞬間にパッと飛び起きてドアを開けたとしても、外に誰が立っているということは1度もなかった。とにかくドアを開けるたびに背筋がゾッとして、しばらくマトモに眠れない日々が続いた。 
 
その頃は徐々に患者が増えていて、九州や四国、京阪神から来院する人がチラホラいた。未熟ながらも私は少し天狗になっていたもんだから、「とうとう亡者も私の治療を求めてやって来たのだろうか」などと、密かにカルトな思考を巡らせたりしていた。
 
インターホンは毎回鳴り方が決まっていて、「ピン、ポーン」と1度鳴ったあと、10秒くらいしてからまた「ピン、ポーン」と鳴るのだが、その鳴らし方がいかにも生身の人間的で、あたかも「中の様子を伺いつつ2回目を押す」というような具合だったもんだから、余計に気味が悪かった。
 
そんな日が何日か続いたあと、インターホンが鳴る日と鳴らない日がくるようになった。まったく奇怪なことだと思ったが、おそらくこれは魑魅魍魎の類によるものではなく、何か物理的な要因があるのではないかと考えるようになった。
 
このマンションがある松江市中心部は、沿岸部からは離れているものの、日本海に面しているため冬場は海風が強く、雪が降ると吹雪くことも珍しくなかった。インターホンが鳴るのは、決まって吹雪いた次の日で、しかも日中晴れた日の夜だった。どうやら晴れた日が続くと、インターホンは鳴らなくなるようだった。
 
606号室の玄関は西向きであったが、宍道湖方面からの風がマトモに吹きつけるような構造になっていて、吹雪けばインターホンの上に雪が積もる、ということがしばしばあった。
 
もしやこれはと思い、ある吹雪いた日の翌日、インターホンの上に積もっていた雪を除(の)けておいてみることにした。すると、その日は日中晴れていたにも関わらず、いつもの時間を過ぎても、インターホンが鳴ることはなかった。きっと、インターホンの上に積もっていた雪が日光で溶けて水滴が内部に侵入し、うまいこと通電してインターホンが鳴っていたのだろうな、と考えた。
 
よくよく観察してみると、インターホンと壁の隙間を埋めていたシーリング剤には、経年劣化ゆえか肉眼では確認しがたいくらいの小さな亀裂がみられた。結局、その日のうちにマンションの管理人に業者を呼んでもらい、劣化したシーリング剤の隙間を埋めてもらった。
 
それ以来、吹雪いた日の翌日に太陽が顔を出しても、インターホンが鳴ることは無くなった。島根の風と太陽は侮れないな、と思った。いや、本当に侮れないのは、望んでもいないサプライズを与えてくれる、オンボロビルディングだろうか。
 
これで私はイソップ物語の如き日々から平穏な夜を取り戻し、安眠できるようになったわけだが、その後しばらくは、後味のよくない夢を見たような気分が続いた。
 

 
島根へ行ってちょうど1年が経った頃、師匠がアポなしで突然、松江の北京堂に現れたことがあった。 
 
元々、松江の北京堂は2009年頃から、師匠の旧友であるTさんの希望により、学園通りで最も高い7階建てのビルの6階に移転していた。しかし、私が松江の北京堂を引き継いで間もなく、使っていない部屋がカビだらけになっていることが発覚し、7階に移動することになった。
 
大家さんは非常に良い人で、「カビが発生したのはマンションの構造上の問題ですけん」と言って、家賃を据え置きにしてくれた。どうやら移動した部屋の家賃が一番高いらしかった。 
 
7階の部屋は完全な南西向きの角部屋で、カビの被害は皆無だったが、夏の夕方は強烈な西日が差し込んだり、南側にあるファミリーマートの駐車場にたむろする島大生の喧しい声が時折壁伝いに上がってきたり、宍道湖上を抜けてくる強烈な西風が窓を定期的にガタガタと揺らしたりと、鍼灸院とするには少々問題のある部屋だった。しかし、眺めが良い点だけはお気に入りだった。
 
松江はとにかく太平洋側のようなカラッとした天気が少なく、年間を通してどんよりとした雲が立ち込める、陰鬱とさせるような天候が多かったから、たまに晴れ間がのぞくと、とても嬉しい気持ちになった。師匠が来たのは、そんな希少な晴れ間の日だった。
 
私は施術中であったが、師匠はインターホンを押すや否や、カルビーのポテトチップス数袋と缶ビール数本を満載したスーパーの袋を片手に、お構いなしにズカズカと入ってきた。
 
師匠の後ろには師匠のお友達であるTさんがいて、申し訳なさそうに私に会釈した。師匠とTさんは仕事中の私に迷惑をかけまいと考えたのか、施術室から離れた南側のバルコニーへ出て、酒盛りを始めようとしていた。
 
南側のバルコニーは熊野大社のある八雲町付近を望める方角に面していた。ちなみに、熊野大社は出雲国風土記に記載のある一之宮の1つで、一説によれば出雲大社より格式が高い神社らしい。熊野大社近辺はほぼ地元民しかいないけれど、観光地化されていない分、騒がしくなくて宜しい。
 
バルコニーには日よけの茶色いタープを張ってあったのだが、師匠は勝手にこれを備え付けの物干し竿で持ち上げ、キャンプ的な空間を作ろうとしていた。私は黙って、師匠に椅子2つとテーブルになりそうな箱を手渡した。Tさんは師匠の成すがまま、ただ見つめているだけだった。
 
私は2010年の夏にTさんから松江の北京堂を引き継いだのだが、当時、Tさんと私は微妙な関係にあった。微妙な関係と言っても、ホモダチとかそういう類の関係ではなく、どちらかと言うと仲が悪いような関係だった。Tさんは私よりも20歳ほど年上の男性で、師匠の旧友でありながら、私より1年早く師匠に弟子入りした、いわば兄弟子だった。
 
諸般の理由により、Tさんは松江の北京堂を辞め、私が引き継ぐことになったのだが、Tさんと私は引き継ぎ期間中にいざこざがあり、軽い喧嘩をして以来、お互い一定の距離を保つようになった。特に火種となった一件は、引き継ぎ期間中にTさんが、「私の治療を希望する患者から予約の電話があっても、私は絶対に施術しないと伝えて」と発言したことにあった。
 
私が「患者が治療を希望しているんだから施術してあげたら良いじゃないですか」と反論したものの、Tさんの意志は固く、患者から電話がくるたびに断らなければならなかった。結局、Tさんの真意はわからなかったけれど、施術できない何かしらの理由があったのかもしれない。
 
平和を好む師匠は、そんなTさんと私の微妙な関係は露知らず、嬉しそうに缶ビールを開けて飲み始めた。私は施術の合間をみて、師匠を接待しなければならなかった。私は、事前に来ることを教えてくれていれば何か食べるものでも用意していたのに、と思ったが、アポなしで訪れることは相手に余計な気遣いをさせないという、心優しい師匠流の社交術なのであろう、と勝手に想像した。
 
冷蔵庫には、恵曇(えとも)で漁師をしている患者から、腰痛を治したお礼にもらったばかりの魚介類が入っていたが、さすがに治療中に魚をさばくわけにもゆかず、東京に帰った時におかんからもらった、出来合いの、塩味の効きすぎたキュウリの漬物を小皿に盛り付け、すでにバルコニーで盛り上がっていた師匠とTさんに、割りばしを添えて差し出した。
 
北京で過ごした経験のある師匠は、香菜(コリアンダー)をからめた拍黄瓜が好きであるから、きっとキュウリの漬物なら口に合うであろうと予想した。
 
結果、師匠は一口食べるや否や、「これ結構美味いな。頼んでもないのに料理が出てくるなんて、ここはボッタくりバーならぬ、良心的な鍼灸院バーだな」と嬉しそうにつぶやいた。
 
そういえば師匠も、東出雲で開業している時、患者から軽トラックの荷台に満載された魚をお礼にと差し出されたそうだが、さすがに全部はもらえないので断ったらしい。島根は東京と違って農業・漁業従事者が多いから、治療のお礼に食物を頂戴することは珍しくない。
 
私は患者に一通り刺鍼したあと、窓際に椅子を置いて腰掛け、しばし師匠とTさんと会話することにした。
 
私は、Tさんが自らの親指をテーピングで固定しているのを見て、「怪我したんですか?」と問うた。
 
するとTさんは恥ずかしそうに「地元の子供と柔道している時に痛めちゃって」と言った。どうやらTさんはボランティアか何かで、定期的に子供たちと柔道をしているらしかった。Tさんは、はりきゅう・あんま指圧師の免許に加え、柔道整復師の免許も持っていたから、柔道には馴染みがあるようだった。
 
私が「手は鍼灸師の命ですから、手の怪我は鍼灸師としての致命傷になりえますよ」と言うと、師匠も「そりゃそうだよなぁ」と相槌を打った。
 
私は普段から、手を傷つける可能性のあるガラス製品は使わないし、包丁などにも極力触れないように気を付けているが、やはりこういうことはプロ意識というか、責任感の有無によるのであろうか、と思った。 
 
バルコニーから施術室に戻り、患者の様子に問題がないことを確認して再びバルコニーに戻ると、師匠とTさんは、整骨院の不正請求に関するトピックについて話し合っていた。
 
Tさんはここからほど近い場所にある某整骨院がお気に入りで、たまに行っては500円払って、マッサージしてもらっていると言った。師匠が「整骨院なんて不正請求がほとんどでしょ」と、にべ無く言い放つと、Tさんは顔を真っ赤にして「そんなことないよ!」と怒りを露わにした。
 
Tさんは柔道整復師でもあるからか、何が何でも反論したい様子であったが、論証に値するほどの論拠を提示することもできず、ただただ否定するだけだった。 
 
ちなみに、整骨院における療養費の支給対象となる負傷の定義はこれまで、「急性又は亜急性の外傷性の骨折、脱臼、打撲及び捻挫」と定められていた。しかし、医学的には「亜急性の外傷」という概念がないうえに、これが支給対象を曖昧にし、不正請求の要因になっているという指摘があったため、ようやく去年、「亜急性」という文言が削除された。
 
そもそも、整形外科医が足りていなかった時代ならまだしも、現代では骨折したら、まずはレントゲンを撮るために整形外科へ行って医師の診断を仰ぐのが普通だし、打撲は軽度であれば病院に行かず放っておく人がほとんどだろう。
 
確かに、血液凝固因子に異常があるような人は打撲でも命に関わる可能性があるから、かかりつけの病院に行くことはあるかもしれないが、そういった急を要するような病態の人が、第一選択として整骨院へ行くことは稀だろう。さらに、捻挫や脱臼ならば整骨院へ行く患者もいるかもしれないが、通常はまず画像診断を必要とするため、病院へ行こうと考えるのが一般的な感覚であろうと思う。
 
そんなわけで、現状では、整骨院においては急性の骨折、脱臼、打撲、捻挫に限り健康保険適応となるのだが、実際には慢性の肩凝りや腰痛、その他の慢性化した疲労感や痛みを訴える患者を保険適応としているケースが少なくないようだ。おそらく、そうでもしなければ、健康保険適応にできる患者が限られてくるわけで、整骨院の経営そのものが立ち行かなくなる可能性があるのだろう。
 
主張を断固として譲らぬ師匠とTさんの間には、しばし気まずい雰囲気が立ち籠(こ)めていたが、しばらくすると、師匠は何事もなかったかのように別の話題に切り替えた。
 
結局、師匠は、鍼灸院のうららかなバルコニーでTさんと1時間ほど酒盛りしたあと、混み合っている雰囲気の院内を満足気に見まわし、待合室で治療を待っている女性患者に「私、この人の師匠」と脈絡なく言い放ったあと、Tさんと共に、嵐のように去っていった。

 
2013年の8月28日は、今でも昨日のことのように覚えている。 

 
私は松江での3年余りの任期を終え、9月からは師匠がいる三鷹の北京堂を引き継ぐため、東京へ戻ることになっていた。
 
私が島根を離れることを知った師匠のお父さんは、「8月28日に東出雲の祭りがありますが、ウチで一緒に夕飯を食べませんか?」と言った。実は、それ以前にも、武内神社の夜通しの祭りを見に来ないかと何度か誘われていた。しかし、鍼灸院の都合で止むを得ず断っていた。
 
何故か、今回は最期の機会になるかもしれないな、という思いが脳裏をよぎった。それゆえ、断らないことにした。独りで行くのも何だか侘(わび)しい気がしたので、「こびとを連れて行っても良いですか?」と聞くと、お父さんは「どうぞ、どうぞ」と言った。東出雲の祭りは穂掛祭と言い、毎年行われる、揖夜神社の神事らしかった。
 
この日は水曜日で、仕事を終えてからバイクで東出雲へ向かった。松江の学園通りから東出雲までは、バイクで10分くらいだ。すでに日が暮れかけ、周囲は薄暗くなっていた。 
 
師匠の実家は9号線沿いにある。9号線は出雲から松江、米子をつなぐ山陰の大動脈だから、比較的車の往来が激しい。それゆえ、車で行くと駐車場の出入りが難儀なので、バイクで行くことにしたのだった。何とか、19時前に到着した。 

とりあえず、島根を離れる前に、記念として北京堂発祥ハウスの外観を撮っておくことにした。 
 
ボタンだけのインターホンを押し、見慣れた引き戸を開けると、待ってましたとばかりに、お母さんが出迎えてくれた。
 
股関節をかばうように、肩を左右に大きく揺らして歩くお母さんについてゆくと、8畳の和室に通された。部屋の真ん中には、こげ茶色の四角い座卓があり、左右に座布団が2つずつ敷いてあった。
 
こびととお母さんは初対面だった。私がお母さんにこびとを紹介すると、お母さんは何の脈絡も無く、「あら!あなたバレーボールやってるの!」と叫んだ。こびととバレーボールを結びつけるような情報は一切見当たらなかったが、どうやらお母さんは、こびとがバレーボールの選手か何かであると思い込んだ様子だった。お母さんはビールが好きで毎日飲んでいるとのことだったから、アルコールによって側頭葉が委縮し幻覚が見えているのではなかろうか、と想像した。 
 
我々が返答に困っていると、お母さんはおもむろに窓を開け、庭の植木に水をやり始めた。もはや、こびとがバレーボールをやっているか否かはどうでも良い様子であった。 
 
お母さんが水やりをしている間、かつて、師匠が治療部屋に使っていた部屋を覗いてみることにした。お父さんは私を信用していたから、普段から、治療部屋は自由に見て良いと言ってくれていた。そういえば、東京にいた師匠から、「〇〇の本を探して送って」と頼まれたことがあったが、本が多すぎて探すのが大変だった。
 
北京堂が松江の学園通りに移って以来、ここは徐々に物置部屋に変わっていったようだった。本棚には、師匠が中国でコツコツと買い集めた、中医関係の本がギッシリと並べられていた。どれも、今では絶版になった貴重なモノばかりだった。鴨居の上には、青い箱に入った、特注の4寸鍼が無造作に並べられていた。
 
私が弟子入りして間もない頃、師匠は「実家には鍼灸湯液の本が1000冊以上あるだろうなぁ」と呟いていたことがあったが、確かにそれくらいはありそうだった。30年前の中医書は紙質が悪く、古いペーパーバックのようで、貧しかった中国を垣間見た気がした。
 
しばらく本棚を眺めたあと、客間へ戻ることにした。座布団に座り、窓越しにお母さんを眺めていると、お父さんが急須と湯呑をお盆に載せて、客間に入ってきた。湯呑に注がれたお茶をすするや否や、お父さんが、「風呂を沸かしてありますから、先にお風呂に入ってください」と言った。今の東京では考えられないことだが、これが田舎における、客人のもてなし方なのであろうな、と想像した。
 
風呂場は昭和を感じさせる作りで、正方形の水色の風呂釜の横に、小さなスノコが置いてあるだけだった。シャンプーやリンス、コンディショナーなどは無く、固形石鹸が1つ置いてあるだけだった。とりあえず、シャワーで体を流し、湯船に浸かった。
 
風呂の北側には小さな窓が付いていて、窓の外には青々と密生した稲穂が、その向こう側には山陰本線の線路が見えた。湯船に浸かってしばらくすると、ガタンゴトンと、電車が通り過ぎる音が聞こえた。平和なひと時だった。そういえば、お父さんとお母さんは、山陰本線のことを電車とは言わず、汽車と言っていたな、と思い出した。
 
風呂から上がり、脱衣所に用意してあったタオルで体を拭いた。風呂に入る前に、予めドライヤーが無いことを確認していたから、頭は洗わなかった。以前、僻地にある温泉へ行ったとき、脱衣所にあると思い込んでいたドライヤーが無くて、後悔したことがあった。それ以来、自宅以外で風呂に入るときは、必ずドライヤーの有無を確認してから、頭を洗うかどうかを決めることにしていた。 
 
少しスッキリした気分で客間へ戻ると、座卓には料理が並べられていた。お母さんは私を見て、「今、お父さんが魚を焼いていますから、座っていて下さい」と言った。
 
お母さんとこびとと与太話をしながら10分ほど待っていると、お父さんがニコニコしながら、焼いたばかりの魚を運んできた。お母さんは、「お父さんは魚を焼くのが上手なのよ」と言った。
 
私が、「鯛と鮎なんて、東京じゃ滅多に食べられませんよ」と言うと、お母さんは、「あら、そうなの」と笑みを浮かべながら興味深そうに言った。 
 
島根にいた頃は境港が近いせいもあり、美味い寿司は散々食べた。しかし、お父さんが買ってきてくれた五右衛門鮓の鯖寿司は、一度も食べたことがなかった。お父さんは、「米子に本店があってね。中々美味しい寿司ですよ」と言った。お父さんは、さりげなく、五右衛門鮓の小冊子を置いてくれていた。確かに、これは美味かった。
 
一方、お父さんが焼いた鯛と鮎は焼くのが上手と言うわりに、少し生焼けのような気がした。しかし、心優しい私は、「美味しいですね」と連呼しながら食べた。 
 
島根に来て間もない頃、そもそも師匠が何故に鍼灸の道を選んだのかを、お母さんに問うたことがあった。当時、師匠は東京の大学に進学し、桜上水に住んでいた。しかし、甲州街道近辺を漂う排気ガスの影響か、呼吸器を悪くし、一時的に島根に戻ることになった。ある日、家族でテレビを見ていた時、ドキュメンタリー番組か何かで、中医が西医に見放された患者を針灸で治す、というシーンが放映された。
 
で、これを見ていた師匠は「おかあちゃん!これからは針灸の時代だよ!僕は針灸学校に行く!」と言ったそうだ。要するに、お母さん曰く、師匠が鍼灸の道に入ったきっかけは、テレビ番組だった。どこまでが本当の話なのかはわからなかったけれど、師匠の昔話となると、お母さんは大そう嬉しそうに語ったものだった。この日もお母さんは、何度も聞いたことがある師匠の昔話を、延々と語り続けた。
 
食事が終わり、デザートにブドウが出てきたが、さすがに食べきれなかった。すでに、20時30分を過ぎ、外は真っ暗だった。私が何気なく時計を見やると、お母さんが、「あなた達、せっかくだからお祭りに行って来たら。東京の人は田舎のお祭りを見たことが無いでしょう」と言った。
 
すると、お父さんが間、髪を入れず、「私が案内しましょう」と言った。お母さんは股関節が悪いせいか、室内を歩くのもしんどい様子で、「私は家にいますから」と言った。結局、これが、お母さんとの最期の会話になった。 

 

 
穂掛祭は曜日に関わらず、毎年8月28日に行われている。東出雲に隣接する、中海の神石である「一つ石」から揖夜(いや)神社まで、約1kmの陸路を、舟で往来する神事だ。日本の沿岸部では、豊漁を祈願した、舟を使う神事がよく見られるが、実際にこういった祭りを見るのは初めてだった。 

 
北京堂発祥ハウスから揖夜神社までは、揖屋駅の上にかかる歩道橋を渡り、そこからさらに10分ほど歩かねばならなかった。お父さんは80歳を超えているにも関わらず、毎日しんぶん赤旗をせっせと配っていたゆえか健脚で、ついていくのが大変だった。 
 
歩道橋を渡って少し歩くと、中海から商店街に舟が戻ってきているのが見えた。船の底には車輪が付いていて、それを山車のように数人のオッサンが曳(ひ)いていた。舟は数種あり、子供が乗り、お囃子(はやし)をしている船もあった。 
 
荷台に、ねぶた祭で使うような灯籠や提灯を載せて、のんびり走っている軽トラもあった。 
 
松江市にはこんなに人がおったんか、というくらいの人出で、立ち止まって写真を撮るのに一苦労だった。私が「出店(でみせ)が沢山並んでますね」と言うと、お父さんは、「昔は出店がもっと沢山ありました。〇〇から来ているテキヤも多く、〇〇もありました」と、地元民しか知らないような衝撃的なネタをサラリと語った。都会に比べて娯楽の少ない地域であるから、地元民にとっては今も重要なイベントの1つになっているのであろうな、と想像した。 
 
結局、揖夜神社に来てみたものの、すでに神楽や安来節などの演目は終わっていたようだった。とりあえず、揖夜神社の由来が書かれた看板を眺めることにした。どうやら、揖夜神社は揖屋ではなく揖夜と書くらしい、ということをここで知った。出雲大社と同様、大社造のようだった。 
 
揖夜神社の創建については不明だが、日本書紀や出雲国風土記、延喜式神明帳などに、揖夜神社と思しき記載があり、平安期より前には存在していたらしい。また、三代實録には、清和天皇の貞観十三年に、正五位下の御神階を賜ったとの記載があるそうだ。
 
特に神社で見るべきものがなかったので、北京堂発祥ハウスへ戻ることにした。実際には「戻ることにした」というより、我々はお父さんの後ろを、お父さんの意思に従って、お父さんの行きたい方向に歩いていただけだった。祭りのメイン通りから離れると人がまばらで、まさに田舎の商店街、という雰囲気が露骨に感じられた。 
 
お父さんは往路よりもゆったりと歩きながら、時々立ち止まっては、観光ガイドのように建物の歴史などを語った。くみたけ百貨店は親戚が経営しているそうだ。現在は、近くにコンビニやイオンが進出したためか、大そう哀愁漂う感じだったけれど、半世紀くらい前は、本当に百貨店のような存在だったのかもしれない。
 
しかし、組嶽とは珍しい苗字だ。店頭には祭りを眺めるためと思しき椅子が、2つ置かれていた。そういえば以前、お母さんが、「周はこの時期になると必ずこっちへ帰ってきて、友達とお酒を飲みながらお祭りを眺めるのが好きなのよ」と、言っていたことがあった。きっと師匠は、くみたけ百貨店の前の椅子に座っていたのかもしれないな、と想像した。
 
 
くみたけ百貨店のすぐ近くには、越野とうふ店があった。お母さんはここの天ぷらが大好きだった。私が松江の北京堂にいた頃は、お母さんは出来立ての越野の天ぷらを買い、定期的に持って来てくれた。ちなみに、アルコールで脳が委縮していたためかどうかは今となってはわからないが、お母さんは毎回、「東京の人はこういうものを食べたことがないでしょう」と言っていた。慈悲深い私はその都度、「はい、食べたことがありません」と答え、天ぷらを受け取らねばならなかった。
 
松江には他のメーカーの天ぷらもあったけれど、やはり越野のモノが一番美味かった。松江では、天ぷらよりもあごの野焼きが有名だけれど、私は越野の天ぷらの方が好きだった。ちなみに、松江で言う天ぷらとは、魚のすり身を挙げた薩摩揚げみたいなモノのことだ。 
 
しばらく歩くと、揖屋駅を示す看板の手前に、「いやタクシー」と書かれた看板が見えた。「揖屋タクシー」と書くと読めない人が多いから、あえて平仮名の屋号にしたのであろうが、どうもタクシーを毛嫌いしている個人が掲げている看板のようにしか見えなかった。かつて、B級雑誌として一世を風靡したGON!が生き残っていたら、微妙な看板として、雑誌に掲載されていたかもしれない。 
 
商店街を抜けると、右手にローソンが見えた。まだ開店して間もない雰囲気で、物珍しそうに中を伺う地元民で賑わっていた。
 
さらに先へ行くと、「三菱農機」と記された看板が見えた。ここから先は三菱農機の工場地帯らしかった。東出雲と言えば、農業機械のパイオニアとされる三菱農機が最も有名かもしれない。三菱農機の全盛期は、町内にはもっと活気があったらしい。
 
お父さんは我々の前を歩きながら、「東出雲町が松江市との合併を頑(かたく)なに拒んでいたのは、三菱農機に勢いがあったからです」と、出雲訛りの標準語で言った。
 
私とこびとは、東出雲にこんな大きな工場があったんか、と驚きつつ、お父さんと最初で最後の夜のお散歩を終えることにした。別れ際、お父さんが、「明日、一緒に黄泉比良坂(よもつひらさか)へ行きませんか」と言った。私は、黄泉への入口とされる黄泉比良坂には以前から行ってみたいと思っていたため、快諾した。



 
 砂丘は島根にあると思い込んでいた自称シティーボーイにとって、島根での生活は不安だらけだった。 
 
2010年の7月中には、前院長であったTさんから島根の北京堂を引き継がねばなかった。それゆえ、出来るだけ早く島根へ行っておかねばならなかった。しかし、私の島根行きが突然の話だったのと、Tさんがなるたけ早く退職したいとのことで、私の東京での弟子入り期間は実質3ヶ月しかなかった。
 
北京堂の弟子は通常、最初の3~6ヶ月くらいは治療の見学と抜針だけで、実際に患者に鍼を打たせてもらえるようになるのは、弟子入りしてから半年後程度、ということになっている。しかし私は3か月後に島根の北京堂を引き継がねばならなかったため、弟子入りして1ヶ月くらいで患者に鍼を打たねばならぬような状況を強いられた。しかし幸いなことに、弟子入りする前の1年間は卒業した鍼灸学校の付属施術所で実際に患者に触れたり、毎週末は狭いワンルームの自宅に友人を招いて刺鍼練習をしていたから、とりあえず弟子入り1ヶ月後には何とか針が刺せるようになっていた。あの頃練習台になってくれた友人達には今でも感謝している。
 
ちなみに、鍼灸学校を卒業すればすぐにマトモな治療が出来るようになる、と思い込んでいる人が少なくないが、実際には卒業してすぐに治せるようになる鍼灸師なんて皆無に等しい。高い学費を払い、専門性習得を謳う厚生労働省お墨付きの学校を卒業してもスペシャリストになれぬとは何とも皮肉なことだが、未だに卒業後10年経ってもロクに治せない鍼灸師は珍しくない。会員ビジネスの餌食となって徒党を組んで安心感を得るだけで、患者と真剣に向き合おうとしないようなケースも、日本の鍼灸業界ではアルアルである。 
 
島根には事前に日通の単身パックで荷物を送っておき、バイクで行くことにした。島根で生活するためにはバイクがあった方が便利だと思ったからだ。私のバイクは「スポーツツアラー」と呼ばれるジャンルで一部の変人から愛されていた、スズキのRFというバイクだった。これまで、スズキは刀やガンマ、TL1000Rなどと変態的なバイクを量産してきたが、RFは私の好みにピッタリのバイクだった。
 
RFは1992年に製造された旧車で、島根-東京間、往復1600キロをよくノントラブルで走ったと思う。今思えば恐ろしいことだ。結局、RFは2015年に廃車にするまで50000キロ以上、大きなトラブルもなく走ってくれた。キャブ車は燃料タンク内のサビやスラッジでニードルジェットが詰まって走行不能になるのが定番だけれど、定期的なキャブのオーバーホールやタンクの交換、ワコーズフューエル1の定期注入で、何とか走行不能は免れることが出来た。RF唯一の構造欠陥として、スタータスイッチ部分に水が入るという事例があったが、これは自分でうまく改造して問題なく走れた。チョークワイヤーは固着しやすかったが、寒い日はエンジンがかかりにくくなるから、これも定期的な交換と注油が必須だった。あとはイグニッションコイルやクラッチワイヤー、アクセルワイヤー、プラグ、バッテリーの交換、フロントフォークのオーバーホールが必要だったが、エンジンやミッションは触らずに済んだ。
 
結局、2010年の7月に島根へ移住したのだが、北京堂を引き継いだ当初はヒマすぎて、本当に食っていけるかどうか不安だった。しかし、師匠がすでに島根で20年ほど北京堂をやっていたこともあり、徐々に患者が戻ってきて、何とか生活していけるようになった。あまりにもヒマな時は、一人で市内を観光したり、鍼灸院のウェブサイトを作ったり、南北相法を翻訳したりした。ウェブサイトの作成は独学で一から始めたから大変だったけれど、今となってはコツコツやってきて良かったと思っている。
 
そういえば去年だか一昨年くらいに、某出版社からの依頼で南北相法の一部を抜粋して、現代語に翻訳したことがあった。結局その翻訳は雑誌で公開・出版されたが、つい最近、その翻訳をウリにした別冊を出版するとのことで、出版社から転載承諾の許可を乞うメールがあった。私は二つ返事で承諾したが、結局担当者からは返信がなく、そのまま新たな特集本が出版された。私の翻訳を最大のウリにしたような本なのだから、報酬は無くとも、どんな感じで刷り上がったのか1冊見本を送ってくれたって良いじゃないかと思ったりした。まぁ昨今の出版社なんてそんなものなのかもしれない。
 
島根では師匠のお父さんとお母さんにお世話になった。師匠のお父さんは針治療も好きだったが、特に灸施術が好きで、1ヶ月に1~2回くらいのペースで私の治療を受けに来ていた。毎回灸を据える前に「私はね。熱いのが平気なんですよ」と言っては、遠回しに熱めの灸を要求した。
 
私は針を刺し終えると、いびきをかいてすぐに寝落ちするお父さんの横で、付き添いで来ていたお母さんとおしゃべりするのが常だった。お母さんは色々な話を聞かせてくれたが、毎度同じような話を何度も繰り返すので、毎回初めて聞いたような素振りで相槌を打たねばならなかった。お母さんは来院するたびに、東出雲町で最も美味いという越野の天ぷら(魚のすり身を揚げた山陰名物)を手土産に持参してくれて、話疲れると待合室の長椅子でリッラクマのティッシュケースを枕にして、お父さんの治療が終わるまで昼寝していた。師匠も疲れるとすぐに横になる習性があるが、お母さんの寝姿は師匠とソックリだった。お母さんとお父さんは、たまに私を自宅に招いてくれて、松江の名物である茶菓子やら魚料理やらをご馳走してくれた。お母さんは夕方になると、ホースで庭の植木に水をやるのが日課になっていた。 
 
お父さんは山陰の郷土史について語ることが好きで、ヒマを見ては私を松江近辺の名所に案内してくれた。お父さんは毎日ヒマを持て余していたのか、私をどこかへ連れて行くことが楽しい様子だった。 
 
東出雲の一番の名所であると思しき黄泉比良坂(よもつひらさか)へ一緒に行った時、お父さんは「これは黄泉(死者のいる場所)に通じる入口を塞いだ石だと言われていますが、この石は我々が若い頃に運ばされたものです」と出雲訛りの標準語で言った。お父さんは神話やら仏教説話には懐疑的で、どちらかと言えば唯物論者に近かった。まぁ一応、東出雲町の名誉のために言っておこう。
 
「ここには黄泉の入口が存在します」 
 
島根で初めて迎えた冬は大変だった。2010年の大晦日から降り始めた雪がずっと止まず、一夜明けた正月には、松江の学園通り付近で積雪が60cmを超えた。 
 
豪雪地域では何てことのない積雪量なのかもしれないが、ほとんど雪の降らぬ東京で育った人間にとっては、メジャーで深さを測りたくなるほど衝撃的な量だった。 
 
島根の大東町という場所から来ていた患者の話では、山間部は積雪が1mを超えており、玄関から公道まで自家用車を出すための除雪が大変だったそうだ。公道は市の除雪車が走るから時間が経てば何とか通れるようになるが、当然ながら自分の敷地は自分で除雪せねばならぬから、自宅の庭が広い人は地獄を見ることになるのだった。松江の北京堂では、マンションから30mくらい離れた場所に患者用の駐車場を2台分借りていたのだが、たかだかそれだけの範囲でも、1人で除雪するのに1時間以上はかかった。何より、マトモな道具が無かったのと、慣れていなかったので大変だった。  
 
例年の松江市では12/15頃から冷え込んで徐々に雪が降り始めるのだが、毎年積もっても10cmくらいらしい。大雪が降ったのは幸い大晦日から正月までだったから仕事に大きな影響はなかった。1/2からは駐車場に積もった雪を除雪するため、川津にあるジュンテンドーというホームセンターまで歩いて行った。途中、ローソンの前でスタックしている小型車があり、後輪が滑ってローソンの駐車場から抜け出せなくなっていた。店長らしき男が迷惑そうに眺めていたが、可哀想なので手伝ってやることにした。小型車の運転手らしき小柄なオバハンは申し訳なさそうにしていて、スコップは持っていないと言うから、見知らぬ通りがかりの男と一緒に後輪付近の雪を手で除けて、ローソンの外に置いてあった段ボールをタイヤの下に敷いて、何とか脱した。結局ジュンテンドーに行くまでに、スタックした車を男が数人がかりで押している光景を2回見た。島根では車にスコップを積んでおくべきだと思った。  
 
ジュンテンドーの前にはすでに開店を待つ10人くらいの市民が座っていた。みな除雪用のスコップを求めているようだった。開店してすぐに「スコップはありません!」と店員が叫んだので、みな残念そうに散っていった。その後、田和山と春日にある「いない」と、東出雲にあるナフコに電話してスコップの在庫を問い合わせたが、どこも売り切れだった。どうやら在庫切れというより、そもそも在庫を持っていないらしかった。東京と違ってどの店も店舗数が限られていたから、こりゃ困ったな、と思った。
 
仕方がないので東京に住む母親に電話して、宅急便でスコップを送ってもらうことにした。スコップが届くまで、除雪が出来なかった。かつて「サンパチ豪雪」と呼ばれた大雪が松江市を襲ったらしいが、今回はそれ以来の大雪だったと、後で患者から聞いた。寺田寅吉が言ったように、概して災害は忘れた頃にやってくるもんだから、常々備えておかねばならぬと痛感した。
 
島根から戻って来て、改めて東京の冬は過ごしやすいと感じるようになった。30年くらい前には東京でも庭でカマクラが作れるほどの雪が降ったものだけれど、最近は雪景色を忘れてしまう程の暖冬が続いている。
 
確かに東京は雪がほとんど降らないから楽だけれど、山陰でしばらく雪に囲まれて生活をしていたせいか今では時折雪が恋しくなって、冬になるとわざわざ雪の降る町へ出かけたくなったりする。


 
黄泉比良坂へ行ったあと、私は午後から用事があったので、師匠のお父さんを自宅まで車で送って、そこでお別れする予定だった。 
 
その頃私が乗っていた車は、わざわざ愛媛県まで行って、個人売買にて10万円で買ったボロクソワーゲンで、左ハンドル車だった。お父さんは毎回左側にある運転席のドアを開けて乗り込もうとするものだから、毎度右側にある助手席へエスコートしなくてはならなかった。
 
お父さんを乗せたあと、指示通りに黄泉比良坂正面の裏道を進み、9号線を抜けて揖屋駅方面へ向かった。すると、お父さんは「ちょっと寄り道して行きましょう」と言って、中海(なかうみ)沿いの道へ行くように促した。
 
中海というのは東出雲のとなりにある汽水湖で、宍道湖とつながっている。中海は宍道湖同様に淡水と海水が混じっているが、宍道湖よりも海に近いためか塩分濃度が高いらしい。しばらく走ると平屋ばかりが並ぶ集落に入った。お父さんはある大きな一軒家を指さして、「これがウチの本家です」と言った。私に本家の場所を教えた意図は不明だった。
 
その後、三菱農機の工場がある狭い路地を抜けて9号線へ戻ることになった。山陰本線の踏切を渡り、左折して再び9号線に入ろうと信号待ちをしていると、お父さんが予想外にもこう言った。「星上山へ行きましょう」。
 
お父さんは「星上山はすぐそこです。車ならすぐです」とニコニコしながら言ったが、「私を星上山へ連れていきなさい」という雰囲気が満ちていた。かつてお父さんは、妻であるお母さんを背負い投げで投げ飛ばして怒りを露わにしたことがあったらしいが、お母さんはその時以来、お父さんのことを恐ろしいと言っていた。そんなわけで止むを得ず信号を直進して、星上山へ行くことにした。
  
山へ向かっている途中、お父さんは突然、「周はここで落ちました」と言い、田んぼの一角を指さした。どうやら師匠は実家に住んでいたころ、軽自動車を運転していて何を血迷ったのか、田んぼへ突っ込んだことがあるらしい。お父さんは落ちた理由はわからないと言っていたが、神話色が濃厚な八雲町との境目であったから、狐か狸に化かされたのかもしれないな、と思った。
 
実際につい最近まで、東出雲からほど近い枕木山のふもとの村ではポン太だか権太などと呼ばれた狐や狸が畑を荒らしたり、村人を化かしていたと、その村に住んでいる患者が証言していた。俄かには信じがたいが、水木しげるが育った境港や島根半島が近い町だから、そんなこともあるのかもしれないな、とシティボーイらしく想像した。そう言えば島根の山奥に住むある患者曰く、山間部のある村では昭和くらいまでいわゆる狐憑きの現象が見られたそうで、今でもその村の近くに狐憑きを専門に祓うお寺があるそうな。 
 
 星上山は東出雲から見ると確かにそんなに遠く感じなかったが、ナビをすると言っていたはずのお父さんが道を覚えていなくて、結局何度も行ったり来たりで山道に入るまでに1時間くらいを費やした。 
 
星上山は東出雲町の隣町である八雲町に位置する454mの小さな山だ。頂上付近には星上山スターパークというキャンプ場がある。車はお父さんの案内で、この施設の近くの空き地に止めた。とりあえず車1台がギリギリ通れるくらい狭い、ガードレールが所々にしか設置されていない危険な山道をやっと走り終えたことにホッとした。 
 
「星上(ホシガミ)」が「星神(ホシガミ)」に通ずるという山の名称の通り、大昔に天から星の神が降臨した山だとか、霊火で中海を照らし、遭難した船を救ったという言い伝えがある山だとか言われている。 
 
「出雲観音記」によると、第45代聖武天皇の時代であった天平二年(730年)十月、揖屋浦の漁夫が中海に出漁中、突然の暴風にあって方向を見失い、海上を漂いながら夜を迎えた。漆黒の闇の中では右も左もわからず、一心に大慈大悲の観世音を祈った。すると、突如として星光が星上山の上に出て暗夜を照らし、漁夫はその一点の星を目印にして船を漕ぎ続け、無事に揖屋港へ帰り着くことが出来た。翌日、漁夫はこれを観世音のお導きと思い、星上山へ登ると、山頂から約200mほど下ったところに小さな池を見つけた。ふと水面を眺めると、十一面観世音の御影が映っていて、観世音様が岩壁の上に立っていた。漁夫は感涙にむせび、仮堂を作って安置し、その御徳を広く四方へ伝えたという。この池が現在、星の池と呼ばれている池らしい。こんな内容が記された案内板を、しばしお父さんと眺めた。 
 
草木が生い茂った山道には所々に小さな石彫りの仁王像が祀られていたが、何故かそのほとんどの首や胴体がもげていたもんだから、若干寒気がした。周囲にはお父さんと私以外に誰もおらず、鳥の声と枯葉を踏みしめる音しか聞こえないもんだから、より一層不気味に感じられた。一応、仁王像はもげた部分が丁寧に立てかけられていた。きっと信仰心のある人が直したのだろうな、と思った。山頂には無住の寺というか、質素なお堂があった。 
 
お父さんは80歳を超えていたが、毎朝自転車で「しんぶん赤旗」を配っていたせいか足腰は案外丈夫で、慣れた感じでスタスタと山道を先に歩いて行った。そういえば、お父さんはいつも私の鍼灸治療が終わったあと、待合室の椅子に腰掛けて、私が出したお茶を飲み干してから「お世話になりました」と言って帰るのだが、毎回「しんぶん赤旗」を1部椅子の上にさりげなく置いていく習性があった。これは確信犯だな、と思った。
 
山の南側、中海方面にはテイカカズラ、ヤブコウジなどのシイ林が広がっていた。お堂の周辺にはアカシデやイヌシデなどのシデ林があり、北側、中国山地側にはカシ林、スギやブナの巨木が混在していた。暖帯のシイ、シデ、カシと寒帯のブナが混生している状況は大変珍しいらしい。
 
島根半島にある美保関には過去に隕石が落ちているから、もしかしたら星上山にも隕石の類が落ちて、山の生態が変化したのかもしれない。隕石を見たことのない古代人にとって、光を放って落下する得体のしれぬ物体は畏れ多き神に見えぬこともない。星の池は小隕石が落下した痕だろうか、などと想像した。 
 
お堂の前を過ぎると、「展望がすばらしい 東展望台」と記された案内板が見えた。前日の雨で少しぬかるんだ小道を抜けると、急に視界が開けた。 
 
東展望台は島根半島、中海が一望できるようになっていた。東屋のような屋根付きの休憩所らしき建物と、「宍道湖から中海の景観」と記された案内板が立っていた。お父さんは久しぶりに登ったためか、少し感慨深そうに景色を眺め、私に目の前に広がる景色の説明を始めた。当然ながら、お父さんの横顔もお母さんと同様、やはり師匠に似ていた。薄い雲が広がっていたため遠くまでは見渡せなかったが、なかなか良い眺めだった。

 
島根の北京堂は、まだ八束郡と呼ばれていた頃の東出雲町で、師匠が30年ほど前に開業した。今も9号線を米子方面に走っていると「北京堂鍼灸」と書かれた看板が見える。ちなみに東出雲町と言えば三菱農機と黄泉比良坂(よもつひらさか)が有名だが、私は島根へ行くまで知らず、師匠のお父さんに案内されて初めて知った。

 
2008年頃には短期間であったが、松江の菅田町あたりで師匠が営業していたらしい。学園通りの北京堂は2009年から営業している。最初は師匠の中国時代の旧友であった鍼灸師のTさんが経営していたのだが、イロイロと諸事情があり、2010年から私が一時的に北京堂を引き継いでいた。現在は師匠の弟子の研修所というか、訓練施設のような感じで、新しい弟子が数年ごとに引き継ぐようなスタイルになっている。 
 
2010年も学園通りの北京堂は松江駅から徒歩10分くらいの場所にある、茶色い外壁のビルの6階で営業していた。このビルは7階建てで築30年ほどになるが、完成当初は松江で最も高いビルとして、市内でもひと際目立つ存在だったらしい。今は1階におしゃれなカフェが入っているそうだ。 
 
基本的に鍼灸院の立地は、可能な限りバリアフリーである方が良いため、師匠は6階に鍼灸院を構えることに反対していた。しかし、友人であったTさんが「眺めが良い方が良いでしょ」と主張したため、断ることが不得手な師匠はTさんに言われるがまま、606号室の賃貸契約書にペタンと判子を押してしまった。師匠はあとになってから、「馬鹿と煙はなんとやら、だからなぁ」と言い訳がましくTさんの陰口を叩いていた。 
 
鍼灸院には様々な患者が訪れる。特に強度のぎっくり腰や捻挫、肉離れ、脳血管障害後遺症などの患者は歩行困難であることが多いから、上階まで上がるのには多大な労力を費やさねばならぬ可能性がある。さらに、北京堂のような響きの強い針灸治療は施術後のダメージが大きいため、数段の階段さえ降りることが困難になるケースが珍しくない。 
 
ゆえに北京堂のような鍼灸院の立地は1階かつ、入口付近に段差がないのが理想だ。エレベーターがついていれば問題なかろうと思う人もいるかもしれないが、マトモなビルであればエレベーターの定期点検が必ずあるから、ビルによっては1ヶ月に数回エレベーターが使えなくなることもある。 
 
実際に北京堂が入っていたビルでも、定期的かつ予告なしにエレベーターが止まるもんだから、運悪くその時間に予約を入れていた患者は、ヒイヒイ言いながら6階までの階段を上らねばならなかった。島根人は普段は車の移動が主であって、東京人のように歩く習慣が少ないから、たかだか6階までの移動であっても相当な負担を強いられるらしかった。また、島根の北京堂は東京と違って高齢者も多く来院していたから、90歳前後の老人が息を切らせながら階段を使う時は、昇降途中で逝ってしまって焼香が必要になるのではないかとヒヤヒヤした。
 
そういえば、オスマン・サンコン氏は日本で初めて通夜に参列した時、焼香のやり方がわからなかったらしい。それで前に並んでいた人の作法を真似ようと思ったそうだが、「ご愁傷様です」と言う日本語が「ご馳走様です」と聞こえ、香木を額に近づける仕草を後ろから見た時、香木を食べているように見えたため、香炉へ落とすはずの香木を口の中へ入れて食べてしまったそうだ。
 
松江の北京堂を引き継いで数か月ほど経つと、日中ずっと日が当たらない玄関横の部屋で、カビと結露が大発生していることに気が付いた。和室だったが、畳が一部腐っていて、置いていた物のほとんどがカビていた。 
 
このカビ事件を管理会社に伝えると「すぐに確認に行きます」とのことで、本当に管理人が数分で飛んできた。どうやら、この部屋は北向きであったことと、壁に断熱材が入ってなかったため、カビと結露が大量発生したらしかった。ちなみに現在、島根のように寒くて多湿な地域ではペアガラスと呼ばれる2重窓が主流になっているらしいが、このビルは古いためか、窓は1重にしかなっていなかった。とにかく断熱材を入れていないのは致命的だと思った。 
 
その後、管理会社は断熱材が入っていないことが不味いと思ったのか、606号室を含めた空き部屋は全てペアガラスと断熱材を入れるリフォームを施していた。これ以降しばらくは、患者との会話はカビ事件の話で持ち切りになった。なにせ田舎にいると話題が乏しいから、ちょっとした事件でも針小棒大なネタになる。 
 
するとある日、いつも不動産経営でガッポリ儲けて笑いが止まらないような顔をしていた患者のEさんが「うちの自社ビルの1階のテナントが空いてるけん。安くしちゃるで」と言った。島大近くの学園通り沿いで、川津のバス停も近くて、立地はまぁまぁ良い物件だった。Eさんはその物件の上をオフィスとして使っていたから、その下に鍼灸院が入れば、気軽に鍼灸治療を受けられるようになるだろうという魂胆があったらしい。 
 
しかし師匠にこの件を話したら「移動するのは困るよ。患者さんが混乱するから」と言ったため、結局、2012年に同じビルの7階へ移動するという妥協案に至った。管理会社は悪いと思ったのか、家賃を据え置きにしてくれた。松江城が見える眺めの良い部屋だった。南向き、角部屋、最上階の7階だったから、湿気の害から逃れることは出来たが、相変わらずエレベーターの点検問題は解決出来ないままになった。 
 
2011年に東日本大震災が起きた時は、まだ6階で営業していた。3LDKの間取りで、ベランダ側の2部屋を治療部屋にして、4畳半くらいのリビングダイニングを待合所にしていた。待合所にはテレビを置いていて、患者が暇を持て余さぬよう、テレビをつけっぱなしにしながら治療する、というスタイルだった。 
 
東北から島根までは直線距離でも1000キロくらいはあるからか、さすがに揺れは感じられなかった。現在のようにスマホが普及していなかったから、おそらくテレビをつけていなかったら、地震があったことには気が付かなかっただろう。テレビをつけておいて良かったと思った。  
 
ちょうど私は患者に鍼を刺し終わったあとで、水道で手を洗っていた。すると突然テレビの画面が騒がしくなり、キャスターが大地震が起こったと興奮しながらしゃべっているのが見えた。しばらくすると津波警報が発令され、画面に映し出された日本地図の沿岸が赤く点滅し始めた。赤いマーカーが点滅している場所に津波が来るから注意して下さい、という報道だったが、島根県と鳥取県沿岸だけは何故か赤いマーカーが点滅していなかった。針を刺されたまま、うつ伏せになっていた80歳過ぎの女性患者に地震があったことを伝えると、「島根は神の国じゃけん。地震は起こらんし、津波も来ない」と悟りを開いた聖人のように、落ち着いた様子で答えた。 
 
その後しばらくは、患者との会話は地震の話で持ち切りになったが、「島根は神の国であるゆえに災害が少ない」と語る人が少なくなかったことに少々驚いた。東京で生まれ育った自称シティーボーイにとって、これは島根で初めて受けたカルチャーショックだった。 
 
そういえば、島根県雲南市の大東町には、知る人ぞ知る海潮温泉という秘湯がある。海潮温泉は出雲風土記にも載っているという古い温泉で、無色透明の湯だ。この温泉が好きだと言って、毎日のように入り浸っている患者がいた。彼は東日本大震災が起こる前日にも湯船に浸かっていたが、その時急に湯船が茶色くなって、驚いたそうだ。これまで海潮温泉で茶色い湯が出たことはないらしく、のちに彼は「あれは大地震の前兆だったんだろうか」と語った。東北から島根まではかなりの距離があるし、フォッサマグナを隔てているけれども、結局は同じ地殻の上にあるわけだし、地球規模で見れば1000キロなんてのはわずかな距離であるから、そういうこともあるかもしれないな、と思った。 
 
地震が起きて数日後、仙川で店を経営している高校時代の先輩から、「東京はどこも電池が売り切れで困っている。そっちで買って送ってくれないか」と電話があった。その日の夜に春日町の、あるのに「いない」というホームセンターに行って、電池を大量に買った。駅前のイオンでは東北に住む親戚に送る物資を沢山買ったが、店内は予想外にも在庫であふれていた。 
 
2012年には島根から師匠と北京へ行った。北京では針灸用具店で大量の棒灸を買って船便で送ってもらった。薬監証明書などの面倒な書類を厚生局やら税関やらとやりとりして、苦労して手に入れた棒灸だったけれど、数箱使っただけで、残りは全て東日本大震災の被災地に送ってしまった。
 
定期的に被災地へ訪問し、物資を届けているという某会社のお偉いさんであった、出雲市出身のSさんという患者がいた。鍼灸師として現地へ行って何か出来ないかと思ったが、針灸に対する誤解が多く、針灸治療の社会的許容度が低い日本においては、行かずに物質的な援助をする方が良いだろうと考えた。で、ライター、ロウソク、棒灸、棒灸の使い方を書いた説明書を1セットずつに個別包装して箱詰めし、Sさんに荷物を託した。Sさんはとある仮設住宅で、この棒灸をすべて配ってくれたそうだ。 
 
しかし今考えれば、あれは失敗だったな、と思う。当時の私はまだ棒灸を使い慣れていなかったため、棒灸の煙の酷さに気が付いていなかったのだった。狭い仮設住宅で有煙棒灸を使ったら、衣類やカーテンに臭いが付くし、部屋中がモクモクになって大変なことになるだろう、という想像が出来なかったのは愚かだった。今は台湾製の良い無煙棒灸があるけれど、当時は細くて小さな、火力の弱い無煙棒灸しか販売されていなかった。


 
島根にいた頃は、温泉へ行くのが楽しみの1つだった。全てではないけれど、松江から江津あたりまでの有名どころの温泉には、ほとんど行った。特に温泉津(ゆのつ)温泉の薬師湯や、江津(ごうつ)の有福温泉は、独特の泉質でお気に入りだった。しかし、何せ松江から江津までは車で往復6時間くらいはかかったから、たまにしか行けなかった。 

 
特に好んで行ったのは、平田市にある「ゆらり」という温泉だった。松江から車で40分くらいの場所にある、源泉かけ流しの温泉だ。
 
ゆらりの清潔感、サービス、雰囲気などに関しては東京では珍しくない感じだったけれど、このあたりでは群を抜いていた。毎分200リットルと湯量が豊富で、中国地方で最大級の温泉ではあったが、僻地にあるためか平日は空いていることが多かった。特に平日の昼間は、ズーズー弁でしゃべる、年老いたお馴染みの地元民がパラパラと集まるくらいだったから、のんびりと湯船に浸かることができた。また、地下水をくみ上げているという、ひゃっこい水風呂と、休憩所にファミリー製マッサージ機があったのも、ここへ通う大きな動機の1つだった。 
 
松江市からゆらりのある平田市までは、宍道湖北側の湖北線をひたすら西へ走れば辿り着ける。出雲大社で有名な、出雲市の手前にあるのが平田市だ。平日だと交通量は少なかったから、アクセルは開けっ放しで走れて、そんなに遠くは感じなかった。猛烈な台風の時は、道路まであふれ出した湖水によって宍道湖に車が呑み込まれそうになったこともあったけれど、健康維持のためと自分に言い聞かせ、週3回くらいは通い続けた。確かに温泉に入って温冷浴をしたり、定期的にマッサージチェアを使っていると、体調が大きく崩れるということはなかった。島根にいた頃は早く東京へ戻りたいと思うことが多かったけれど、年をとってくると、東京であくせく働くよりも、田舎でのんびり過ごした方が健康には良いのかな、なんて考えたりする。
 
そういえば、フォーゲルパーク手前にあった某鰻屋は地元民からも人気で、1度食べてみたが、確かに美味かった。しかし島根で食べた鰻の中では、高津川でとれた天然の鰻が一番美味かった。ちなみに、高津川は四万十川などと並び、かつて日本一の清流と呼ばれた川だ。天然の鰻は本当に胸が黄色味を帯びていて、「むなき(胸黄)→うなき→うなぎ」になったという語源の話も何となく頷けた。当時、高津川の鰻は「シルクウェイにちはら」という道の駅で冷凍したものが売られていたのだが、冷凍でも十分に美味かった。鰻も鮎も、天然モノは年々数が減っているそうだが、まだあの冷凍鰻は売っているのだろうか。 
 
仕事が早く終わった日は、ゆらりへ行く前に、ラピタというスーパーへ寄ることが多かった。地元産の新鮮な野菜やら、農家の人々が作った漬物や餅などを売っているコーナーがあり、そこを物色するのがこのスーパーでの唯一の楽しみだった。
 
いつものように野菜を物色していた時、突然見知らぬ地元民らしきお婆さんに、「お母さんは元気かね‥‥」と話しかけられたことがあった。お婆さんはかなり訛っていたので、おおかた何を言っているかわからなかった。しばらく黙って話を聞いていたが、お婆さんは私が別人であることに気が付き、「〇〇の孫に良く似ていたもんだから間違えた」と言って会話が終了した。
 
出雲弁といっても島根の東と西では、かなりの違いがあるようだ。特に平田市は東北弁のような、いわゆるズーズー弁で、儘(まま)聞き取れないことがあった。
 
かつて、ウラジオストックで島根産と東北産の黒曜石が出土したため、「出雲人と東北人はウラジオストックに起源がある」と主張した学者がいた。また、最近は、出雲族はもともと「チュルク族」であり、ロシアのバイカル湖付近に起源があるとか、「蝦夷」も「アイヌ」も出雲族であると言う人もいる。確かに1000キロ以上も離れた場所で、局所的に同じような方言が残っているのは真に奇妙な話だ。何より隣に位置する松江や出雲と、言葉が全く似ていないというのが不可解だ。さらに平田市あたりの言葉は、日本書紀や古事記やらに出てくる古い日本語と似ているらしく、日本語の起源は島根にあったという話もある。つまり、出雲族が大和族(秦氏)との争いに負けて、東北へ追いやられたではないか、というのだ。しかし、まぁ、こういう事に関して私は門外漢であるから、真相はよくわからぬが、非常に興味深い話ではある。

ゆらりの温泉は微かに硫黄臭がするものの、無色透明のアルカリ性単純泉で、比較的なめらかな泉質だった。源泉そのままでも十分に良かったが、ゆずが湯船に浮いている時は、最高に良かった。
 
ゆらりには3年あまり通い続けたが、ゆずが入っていたのは1度きりだった。これまで様々な温泉へ行ったけれど、ほのかなゆずの香りと、摺木山から流れ出ているという優しい温泉のマッチングは、中々絶妙だった。


 
松江の北京堂を引き継いで半年ほど経った2011年3月11日、東日本大震災が発生した。しかしながら、松江市内は至って平和に感じられた。 

 
ほぼ毎日、海潮(うしお)温泉へ行っているという東忌部(いんべ)人の患者が、「あの地震の前日だけですよ、源泉の色があんな茶色く濁ったのは」と言っていたくらいで、テレビからけたたましく流れ出る大地震関連のニュースは、まるで他人事のようで、多くの患者は平時と変わらぬ様子で過ごしていた。
 
そんな中、東京人にとっては甘すぎる鯵(あじ)の南蛮漬けを定期的にもってきてくれる患者のKさんが、「つい先日、松江歴史館が完成したのよ。早速行って来たけど大した事なかったわ。まぁ、先生も行ってみたら」と言った。
 
Kさんは元々、十数年も前から、線維筋痛症の如き謎の全身痛を患っており、北京堂に出逢うまでは歩くことさえできなかったそうだ。しかし、師匠の施術で歩けるようになり、私の施術で小走りできるようになったものの、完治には至らず、定期的に通院していた。
 
ある時、Kさんが「先生、お土産です」と言って、カンボジアで買ってきたという小さな荒彫りの仏像を差し出した。村八分の存在を信じていた純朴な東京人は断ることもできず、お礼を言って受け取ったわけだが、本来信仰するものがない人間にとって、出所の知れぬ仏像のお土産は、あまり気分が良いモノではなかった。
 
そういえば、師匠と三鷹市の僻地で北京堂を開業して間もない頃、予約がほとんど入らない日々に業を煮やした師匠が、「これはきっと妹が中国から買ってきた仏壇の扉を開けているせいだ!不吉だから仏壇の扉を閉めましょう!」と叫んだことがあった。
 
師匠は本来、出雲教に熱心だったお母さんが買ってきた、毎年買い替えるべきお札(ふだ)を何年も無造作に壁に掲げておくほど、宗教には無関心であった。しかし、妹さんからお土産でもらったという、手の平サイズの怪しい仏壇を処分することができず、何故か本棚に飾ったままにしてあった。
 
「黄泉平坂(よもつひらさか)にある、黄泉への入り口を塞いでいるという大きな岩は、実は私たちが若い頃に運ばされたものです」と、出雲訛りの標準語で暴露したお父さんと同様、師匠も典型的な唯物論者であるはずだったが、鍼灸院営業不振の原因は、ミニ仏壇の扉が開いていることにあると思い込んでいるらしかった。
 
私は「今は開業して間もないし、ここは僻地だから、最初は患者が来なくて当然だ」と思っていたから、仏壇の扉を閉めても何も変わりゃあしないだろう、と高を括(くく)っていた。
 
しかし、師匠が仏壇の扉を閉じるや否や、院内の電話の着信音が鳴り響いて新規の予約が入ったもんだから、師匠は仏壇が良からぬオーラの泉となっていることを確信した様子であった。
 
当時、松江市では、2007年から「松江開府400年祭」が始まっており、2011年はこの祭の集大成として、「松江開府400年記念博覧会」が開催されることになっていた。松江歴史館はこのタイミングに合わせて開館したようだった。
 
ちょうど同時期、隣の出雲市では、独身女子が出雲大社で願掛け参りするというブームに火がつき始めていて、松江市もそれに肖(あやか)って、何とかして観光客を増やしちゃろう、という気運が高まっていた。
 
 
しかし、観光という点においては、松江市には出雲大社ほど強烈なスポットが存在せず、松江城は未だ国宝に認定されていなかったし、独身女子を魅了するようなモノも皆無に等しかったせいか、境港市の妖怪ロード成功に便乗して、松江市を怪談の町として売り出してはどうか、と言う話があった。
 
例えば、松江市にゆかりのある小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談話に関係のあるエリアを巡る、松江市独自の怪談ツアーなどを定期的に開催する、という話だ。
 
そんな中、完成して間もない松江歴史館で、私の好きなフロッグマンがトークショーをすると言う話を、2ちゃんねるのスレッドで時折見られる「あげ」は出雲弁である、と信じていた、毎年「すてきな奥さん」のリッラクマ付録を楽しみにしていた某患者から聞いた。
 
その患者曰く、今をときめくフロッグマンと、「怪談」の代名詞のような存在である小泉八雲の子孫とをコラボさせ、松江を盛り上げていこうという作戦なのではないか、という話だった。
 
結局、件(くだん)のトークショーを見るため、仕事を早めに切り上げて松江歴史館に行ってみたものの、今になっては、最前列に陣取っていたフロッグマンの熱心なファンらしき人々が、頻繁に頷(うなず)く映像しか脳裏に浮かばず、彼らがどんな内容を話したかは、もうスッカリ忘れてしまった。
 
フロッグマンは確かに才能のある人だと思う。彼の代表作は「鷹の爪」だけれど、最もセンスを感じるのは「京浜家族」である。
 
「鷹の爪」は、随所に島根を皮肉るセリフが散りばめられている、奇抜かつ斬新なフラッシュアニメの走りであったが、老年人口の占める割合が多い島根県においては、フラッシュアニメ自体を知らぬ人が多かったから、話題に上ること自体が少なかった。
 
それでも、「鷹の爪」ブームを見越してか、旧日本銀行松江支店跡地のカラコロ工房内に唯一、フロッグマングッズを扱う店があった。

 


 
2014年12月、師匠のお母さんの訃報を人伝(ひとづて)に聞いた。
 
2013年頃からお母さんは3度目の癌で自宅療養をしていた。2013年9月、私が島根での任務を終えて東京へ発つ前日、お母さんは私を御自宅へ招待して下さり、山陰での最後の晩餐として、山陰の名物を御馳走して下さったのだが、その頃からすでに衰えが見え始めていた。私が2010年に初めて島根入りした頃に比べると、癌が再発してからは体重の減少が著しく、急速に体力が落ちてきている様子だったので、何となく死期は悟っていた。
 
人はいつか亡くなるものだけれど、やはり何かしらの関係にあった人の訃報を不意に聞かされたりすると、何とも言えぬ空虚感が心中にモヤモヤと湧き上がってくる。
 
結局、葬式が終わってから訃報を聞かされたこともあって、2015年2月に島根へ飛ぶことにした。49日は過ぎているから、お父さんの気持ちも少し落ち着いていて、私が挨拶に行くのには適している頃合いだろうと予想していた。
 
北京堂鍼灸はいまや全国的な広がりを見せる鍼灸流派だが、元々は約30年前に島根の東出雲で、中医翻訳家でもある浅野周先生が始められた鍼灸院にルーツがある。現在も9号線沿いに「北京堂鍼灸」の看板を掲げる一軒家を望めるが、浅野先生は今は東京の葛飾で営業されているため、東出雲で北京堂の治療を受けることは出来ない。
 
しばらく島根でゆっくりしたいところだったが、患者を抱えているとそう長く休むことは出来ないので、日帰りすることにした。
 
羽田から午前の便で米子空港まで行って、レンタカーを借りてから東出雲へ向かった。島根には3年以上住んでいたから、大方の地理は頭に入っている。米子空港から大根島を抜けて、裏道を通れば35分くらいで東出雲に到着する。
 
事前に連絡していたので、お父さんはスンナリと家の中へ通してくれた。寂しそうに見えたが、いつも通りの素振りだった。とりあえず東京から持参したお供え物を渡し、仏前で手を合わせた。もうお骨は墓に移してあるとのことで、お父さんを車に乗せて、一緒に墓参りすることにした。線香は持参していたが、墓前に供える花がなかったので、近所の「まるごう」というスーパーで、花と酒を買うことにした。
 
墓地は最近出来たという新しい区画にあって、これまで見たことが無いタイプの墓が並んでいた。線香に火を点けて、花と酒をお供えして、しばしお父さんと会話してから、墓地を後にした。
 
もう昼が近かったので、お父さんを誘って昼飯をご一緒することにした。やはり、お父さんは長年のパートナーであるお母さんを失って、少なからず悲壮感が漂っていたから、半日でも話し相手が出来るのは良いだろうと思った。
 
昼食は東出雲町のお隣、安来市(やすぎし)にある蕎麦屋へ行くことにした。東出雲から車で10分くらい、9号線沿いにある、まつうら、という蕎麦屋だ。
 
出雲蕎麦といえば、灰褐色でザラザラした舌触りの割子(わりご)が有名だが、まつうらの蕎麦は出雲蕎麦と更科蕎麦の中間みたいな感じで、東京人が好みそうなタイプの蕎麦である。お父さんも過去に何回か来たことがあるそうで、美味いと喜んでいた。
 
蕎麦を食べながら色々な想い出話をした後、せっかくだからお母さんが好きだった出雲大社へお参りしようということになった。お父さんは車の免許を持っていないらしく、普段の移動は専ら自転車で、遠出する時はお母さんが運転する車に同乗していたようだった。お母さんが体調を崩して運転が出来なくなってからは、しばらく遠出はしていなかったらしく、出雲大社へのドライブを殊の外喜んでいるようだった。
 
お父さんが食べているうちに会計を済ませ、先に払っておきましたと告げると、「昼食は私がおごるつもりでした。では越野の天ぷらをお土産に買ってあげましょう」と言うので、出雲大社へ行く前に寄り道することになった。
 
松江といえば茶菓子が有名だが、魚肉を加工したかまぼこや、天ぷら(魚肉のすり身を蒸して揚げたモノ。衣を付けて揚げた天ぷらではない。)もマイナーながら売れているらしい。また、松江の御土産ではあごの野焼き(春頃から日本海を北上してくる飛魚をすり身にして、山陰の地酒などを混ぜて焼いた「ちくわ」みたいなモノ)や、スト巻き(かまぼこをストローで巻いたモノ)がメジャーだが、私は最もマイナーな天ぷらが好きである。
 
中海(宍道湖の隣にある汽水湖)に隣接する東出雲町には、好立地ゆえかかつては魚肉を加工する工場が林立していたらしいが、現在は数か所を残すのみで、ひっそりと営業しているようだった。お母さんは大の天ぷら好きで、特に越野という会社の天ぷらを好んで食べていた。私に松江の天ぷらの美味しさを教えてくれたのはお母さんだった。
 
私が松江で北京堂を経営していた頃は、お父さんが鍼治療に訪れる度に、付き添いで来たお母さんが越野の天ぷらを御土産に持参してくれて、「都会の人はこういうものを食べたことが無いでしょう」といつも気を使って下さったのだった。
 
越野のかまぼこ工場は中海湖畔からすぐの場所にある。基本的には工場での直販はしていないようだが、地元民は購入出来るようだった。お父さんは慣れた感じで天ぷらを2袋購入し、私に持たせてくれた。工場を出ると見知らぬ軽自動車が停めてあったのだが、お父さんは誤ってそれに乗り込もうとしていた。
 
松江から出雲大社へは、宍道湖の北側を走る湖北線と、南側の9号線、さらに南側の山陰道、3つのルートがある。生前、お母さんは「慣れない高速道路を緊張しながら走るよりも、宍道湖の湖面にユラユラと浮かぶカモを眺めながらゆったり運転する方が、精神的に楽で良いのよ。」と言っていた。
 
しかし、お父さんは高齢で長時間車に座るのが辛そうだったので、往路だけは山陰道を使った最短のルートで出雲大社へ向かい、復路はお母さんの好きだったルートを使うことにした。ちなみに復路だと宍道湖が左側に位置するので、助手席から湖上をのんびりと泳ぐカモが見えやすい。
 
出雲大社は平成の大遷宮がやっと終わってスッカリ綺麗になっていたが、鳥居の修復工事が行われていて、正面からは入れなかった。とりあえず平日の出雲大社は参拝者が少なくて快適だった。 
 
あまり知られてはいないが、出雲大社の宮司は元々は千家さんと北島さん両家が交替でお勤めしていて、イロイロあった後、現在は千家さんが出雲大社の宮司となっている。そして、これに不服な北島さんは、出雲大社のすぐ隣に社を建て、傍から大国主命をお守りしている、という構図になっている。ゆえに地元民以外にはほとんど知られていないようだが、出雲大社のすぐ右手には、いわば「裏出雲大社」が存在する。お母さんは北島さんの方に熱心だったので、出雲大社をお参りした後は、北島さんの所へお参りしてから、帰ることにした。
 
何だかんだで出雲大社を出て、東出雲に戻る頃には、夕暮れが迫っていた。束の間のドライブを楽しんだ後、北京堂の生誕地でお父さんとお別れした。その後、大根島を経由して米子へ向かう途中、中海の向こうへ沈む夕日が綺麗だったので、空き地に車を停めて、しばし眺めたりした。 
 
時間に余裕を持って東出雲を出発したので、米子空港へ行く前に、境港の魚山亭へ寄って夕食をとることにした。これまで様々な魚料理を食べてきたが、ここの定食が今の所一番美味い。いつか山陰へ来ることがあったら、また食べに来よう、と思った。